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六十六 いともやいばもないせかい(完)

 朝。


 暖かいアパートの一室。窓からは柔らかい光が差し込んでいる。カーテンの隙間から射す光が、ベッドの上に斜めの帯を作っている。


 レカが目を覚ました。


 白金のポニーテールが枕の上に広がっている。赤い瞳が……天井を見ている。普通の天井。白い壁紙。蜘蛛の巣もない。血の染みもない。


 ベッドサイドにはトロフィーが並んでいる。地区大会の銀色のカップ。州大会の銅メダル。壁には賞状が二枚。運動用具がクローゼットからはみ出している。ランニングシューズ。テーピングテープ。プロテインの容器。


 普通の部屋だった。


 普通の朝だった。


 レカは天井を見つめたまま……しばらく動かなかった。この部屋で何百回と迎えた朝と同じように。


 端末が鳴った。


 レカは枕元の端末を取り上げた。画面に名前が表示されている。


 おとーさん。


 レカの指は通話ボタンを押した。


「おはよう、レカ」


 声は穏やかだった。慈愛があった。計算が含まれていなかった。


「おはよう」


 レカの声は……普通だった。寝起きの、少しかすれた声。


 少し間があった。タティオンが……何かを言おうとして、間を置いている。


「……昨日の試合、見たよ。いい動きだった」


「ああ、まーね。チームは負けたけど」


「負けは負けだ。しかし……怪我は……」


 タティオンの声が……少しだけ、変わった。穏やかさの底に、何かが滲んだ。後悔に似た何か。


「その、なんだ。ワシは、おかしかったのかもしれない」


 レカは黙った。


「お前には……もっと違うやり方があったのかもしれない。ワシは……ワシのやり方しか知らなかったが」


「いまさらなにいってんの」


 レカの声は笑みを含んでいた。


「大丈夫だよ、おとーさん。心配しないで。あーしは気持ち、今は澄んでる感じがするんだ」


 少しの間があって、返答が来る。


「今まですまなかった。お前にもっと他の道を見せてやれれば……」


「いーって。過去の話じゃなく、未来の話をしようよ。あーしはおとーさんから押し付けられたスポーツの道、意外と悪いものじゃないと思ってるよ。この道を通して、いろいろなものを知れた」


 レカはベッドの上で膝を曲げ伸ばしした。右膝が、小さく軋んだ。


「プロへの道、閉ざされちゃったからなー。何か考えなきゃ」


 レカは言った。複雑な気持ちはある。幼少期から、彼女はタティオンに厳しく育てられた。スポーツ、スポーツ、スポーツ、そればかりだった。しかし……この世界のタティオンは、レカを道具にはしなかった。


「あーしを強くしてくれたこと、感謝してる」


「ワシが協力できることならいくらでもしよう」


「おとーさんはスポーツ以外のこと何もわかんねーでしょ。まあ見ててよ。人生、うまく楽しむから」


 会話は穏やかに終わった。端末を枕元に置く。天井の光の帯が、少しだけ角度を変えていた。朝が進んでいる。




          *




 レカはベッドに戻り、テレビをつけた。


 ニュース番組。インタビューワーが穏やかな声で語っている。


「ジャドワ大統領。本当に軍拡に反対するおつもりなんですか? あなたはその事業を今まで推進なさってきた政治家でもある。どうして一夜でそんな心変わりを?」


 彼の目の前には、精悍な四十代の政治家の姿があった。鋭い目。低く落ち着いた声。しかしその目の奥に、飼い慣らされていない光が宿っていた。


「確かに地域紛争に対応するため、そして国家間のバランスも必要だが……私はこうも思うのだよ。虐げられた人間の怒りは、AIや核兵器や資源枯渇よりも、憂慮すべきリスクだとね。私が考えるのは、尋常の貧困支援ではないよ? 全ての富を平均化させる、ブロックチェーンを用いたベーシックインカムだ。誰も逃れられない寄付型経済を昨日思いついてね。これでこの世から全ての貧困をなくせる。そういう計画にシフトしようと思うんだ。名付けて、パラクロノス計画」


 インタビューワーの眉が上がった。


「パラ、クロノス? 時間の神を超える計画ですって?」


 政治家の口元がわずかに上がった。不敵な、しかし裏表のない笑みだった。


「そうだ。人類は未だ幼年期で……核兵器の花火も、勝手にお喋りするAIも、まだまだ年齢制限を解除できるところまで成熟していないのさ。それよりも優先すべきものがある」


 レカはぼーっとそれを見ていたが、ふと、胸の底が小さく疼いた。


「ジャドワ……」


 映像が切り替わる。


 とある大陸のサバンナ。


 乾いた草原に、巨大な影が横たわっていた。体長五メートルを超える超巨大な猛獣。……死んでいた。サバンナで王者として君臨し、老齢で衰えてもなお群れを率い、最後はハンターの銃声に沈められた巨大な猛獣の特集映像。


 カメラが死体に寄った。


 ラ猛獣の目が……死体にもかかわらず……凄まじい生気を放っていた。閉じかけた目の中に、まだ何かが燃えているように見えた。鬣が風に揺れている。横たわった巨体。その顔に……どこか懐かしい、粗暴な意志の残滓がある。


「ガズボ」


 レカの唇がその名をつぶやく。テレビの中ではハンターがインタビューに応じていた。なんでも、この地域で何人もの人を食い殺していたんだそうだ。ハンターの父親も犠牲者だったそうで……数日間の死闘の末に、このライオンを倒したらしい。


 レカはテレビを消そうとして……やめた。


 見る。最後まで見る。


 映像が切り替わった。


 国立博物館の特集。新たに収蔵された展示品の紹介。


 精巧な触手の形をした造形物がスクリーンに映った。作者不明。材質不明。蛍光ピンクの燐光を放つその造形物は、ガラスケースの中で静かに輝いている。見る者を戸惑わせるほどの生命感を持っているという。


 学芸員がカメラに向かって語る。


「これほど繊細で、これほど危険な美しさを持つものは見たことがない」


 学芸員が付け加えた。


「不思議なことに、この造形物が発見された時、傍らに小さな人形が寄り添うように置かれていたんです。同じ材質で、同じ燐光を発する。小さな……まるで子供のような人形が。二つは一緒に収蔵されています」


「シャル」


 レカの目が……画面から離れなかった。


 ピンクの燐光。触手の形。……そしてその傍に、小さな人形。子供のような。同じ燐光を放つ。


 悲しいのか、嬉しいのか、レカには判断がつかなかった。


 ただ……どちらの感情も愛おしいと思った。




          *




 そこへ……もう一つの着信が入った。端末の画面に名前が表示された瞬間……レカの手が止まった。


 エリオン。


 通話ボタンを押した。端末の向こうから聞こえてきた声は……老いていた。


「よう」


 しわがれた、穏やかな声だった。少年の声ではなかった。不老の呪いのないこの世界で……六十七年分の歳月を積み重ねた男の声。


 それだけ言って、少し間が空いた。


「レカ、怪我はもういいのか?」


「もうすっかり。日常生活は全然問題ないんだ」


 また間が空いた。エリオンらしい間だ、とレカは思った。前の世界でも、エリオンは必要なことしか喋らなかった。この世界でも変わっていない。ただ……声だけが違う。老いた男の声の奥に、前世の少年の面影が重なって、レカは喉が詰まった。


「レカ。招待状、届いたか」


「うん」


「大学へ戻ってこい。タティのやつも、きっと安心するだろう」


 レカは窓の外を見た。


 暖かい光。整備された街路。子供たちが遊んでいる。少年と少女が一緒に走っている。パン屋から焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。……ミーチャのパンの匂いと、どこか似ていた。


「……まだ考えてる。人生、いろんな道があるからね」


「そうか」


 エリオンはそれ以上を促さなかった。前世でも、エリオンはレカを急かさなかった。


「この世界は」


 とエリオンが言った。


「まだ不完全だ。やるべきことは山ほどある」


「知ってる」


「ただ」


 一拍。


「お前が参加しなくても、世界は回る」


「それな」


 老いた笑い声が受話器から漏れた。かすかに。しかし確かに。前世のエリオンは……あまり笑わなかった。この世界のエリオンは……老いて、少しだけ、笑えるようになったのかもしれない。


「お前が参加したいなら来い。参加したくないなら来なくていい。どちらを選んでも……俺はお前の意思を尊重する」


 レカは何も言えなかった。


「ただ、一つだけ言っておく」


 エリオンの声が……少し低くなった。老いた声の中に……前世の赤い瞳の色が、一瞬だけ灯った。


「お前はまだ若い。この世界で……お前が好きになれるものが何かを見つける時間がある。それを見つけたら……それが答えだ」


 電話が切れた。




          *




 レカは端末を置いた。


 窓の外を眺めた。


 暖かい光が街路に落ちている。子供たちの声が聞こえる。パンの匂い。風。……穏やかな世界。


 前世のレカは……「世界を救う責任」をタティオンに課された。それを自らの意志で引き受けたのだと錯覚していた。マリオネットの糸は見えなかった。見えないまま……踊り続けた。


 今度はエリオンが「世界をよくする活動」への参加を誘っている。善意の誘いだ。正しい活動だ。……しかしタティオンの命令とは違う。参加してもいい。参加しなくてもいい。どちらを選んでも……レカは道具ではない。


 選ぶ権利がある。選ぶ機会がある。今ここにある。


 社会運動かもしれない。大学でなにかをすることかもしれない。ただ窓の外を眺めることかもしれない。それを自分で決められること。……何を選んでも、誰にも操られていないこと。


 操り人形の糸は……断ち切られた。


 自ら刺す刃は……もう必要ない。


 レカは窓の外を眺め続けた。まだ何も決めていなかった。何も決めなくてよかった。決めなくてもいい朝が……ここにあった。

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