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六十四 選択

 激戦の中を、ジャドワが走った。


 神速だった。二百センチの獣人の体が空気を裂き、コピーの群れの真ん中を貫くように突き進む。タティオンが生み出したコピーのゼゴ、コピーのルゥリィ、コピーのレカ……その全てが一斉にジャドワに群がったが、ジャドワの速度はそれを許さなかった。影がダンジョンの空間に溶け込むように動く。コピーのレカの短刀が空を切った。ジャドワはすでにその背後にいた。赤い瞳が一閃し、コピーのレカの首筋に鉄槌が叩き込まれた。光の粒子が散った。


 エリオンが重力魔法を展開した。掌から放たれた歪曲の波がタティオンの周囲に球状の重力場を構築し、コピーたちの動きを一斉に鈍らせる。タティオンの体が一瞬だけ膝をついた。ソウツェクで増幅された肉体でさえ、エリオンの全力の重力拘束を無視することはできない。


 しかし次の瞬間、タティオンの背後から光が噴出した。


 コピーのルゥリィが魔法を唱えていた。


 エリオンの体が硬直した。ルゥリィの魔法……エリオンが知り尽くした魔法体系。養い子に自ら教え、金槌級に到達するまでの五年間で磨かれた魔法。それとまさしく同じ詠唱が、同じ声で、コピーの口から放たれている。重力場を打ち消す対抗魔法が、ルゥリィの声で展開された。エリオンの重力拘束が音を立てて瓦解した。タティオンが再び立ち上がる。


 エリオンのフードの奥で、赤い瞳が揺れた。


「ルゥリィ、なんてことだ……」


 ジャドワがそのコピーのルゥリィの前に割り込んだ。


「気を取られるな」


 低い声だった。ニヒリスティックな微笑はなかった。赤い瞳がエリオンの赤い瞳を射抜く。似たような境遇の交信。


 エリオンが歯を食いしばった。猫耳が伏せられ、すぐに立て直された。重力魔法を再展開する。今度はコピーのルゥリィの対抗魔法に合わせて出力を変調させた。知っている魔法だからこそ対処できる。教師は生徒の手の内を知っている……タティオンとレカの関係と同じ構図が、エリオンとルゥリィのコピーの間でも成立していた。


 ジャドワが再び走った。コピーのルゥリィを避け、タティオンの側面を突く。しかしタティオンの赤い瞳が閃き、新たなコピーのレカが出現してジャドワの進路を塞いだ。壊されたそばから作り直される。何度でも。


 その最中に……。




          *




 シャルトリューズがレカに近寄った。触手の先端がレカの頬に触れかけて、途中で止まった。いつもなら遠慮なく巻きついてくるはずの触手が、今日は控えめだった。


「レカちゃん」


 甘ったるい声ではなかった。レカが知っている声……二章の貧民街で、ゼゴの毒霧の後に一瞬だけ垣間見えた、素のシャルトリューズの声。


「ウチね。色々見てきたの」


 シャルトリューズの緑の瞳がゼゴを見下ろした。腕の中の小さな体。ピンクの肌と緑の髪がダンジョンの薄暗い光の中で奇妙に調和している。


「この子の過去も。なんでウチの匂いを纏ってるかも。全部わかった」


「シャル……」


 レカの目には、ゼゴを抱く彼女の姿は、本当の親子のように映った。シャルトリューズもまた、レカを見ていた。穏やかな顔で。


「ありがとう、レカちゃん。あなたのお姉ちゃんとこうして家族みたいになれて、ウチは幸せ」


 レカは言葉を返せなかった。お姉ちゃん。自分がゼゴの姉であること。十歳の夜に殺し合いをさせられた姉であること。シャルトリューズはそれも知っている。知った上で「ありがとう」と言っている。その言葉の重さに、レカの喉が塞がった。


 ガズボがレカの横に来た。巨体が装置の空洞の床を軋ませる。レカを見下ろした。黄色い瞳の中に、いつもの粗暴な光とは別の何かがあった。


「なあ、姐御。オレと兄貴は、エルフが憎かった。人間が憎かった」


 ガズボは装置の残骸に腰を下ろした。巨体が軋む金属の上に沈む。千切れかけた耳を気にするふうもなく、ベロンと舌を出して唇を舐めた。


「だが……オレは憎み続けるには不真面目すぎて、兄貴は真面目すぎたんだ」


 ガズボの中で何かが落ち着いていた。ガズボの口元が歪んだ。笑いなのか何なのか、判別のつかない歪み方だった。レカはガズボの横顔を見ていた。兄弟の間にあったものを、レカもまた映像で見ていた。仲間たちと、かつてないほど強固な絆で結ばれている気がした。




          *




 タティオンの目が動いた。


 レカでもエリオンでもなく……シャルトリューズの腕の中のゼゴに向けられた。赤い瞳が、深い場所から何かを探すように細められた。


 装置が稼働している。タティオンの構築したもう一つの現実がうなりをあげる。理想世界の残響。その中に、笑っているゼゴがいた。五体満足のゼゴ。盲目ではない緑の瞳。走れる両足。「父上!」と声を上げて駆け寄ってくる少女。タティオンが「作り直した」理想のゼゴ。


 しかし本物のゼゴは、タティオンの方なんか気にしていなかった。


 シャルトリューズの腕の中にいた。コピーのゼゴの笑顔は眩しく、無垢で、完璧だった。しかし本物のゼゴの顔には……それよりもはるかに静かな、しかしはるかに深い安息があった。閉じた瞼の下で赤い光が穏やかに灯り、小さな指がピンクの触手を握ったまま離さない。壊されたままの存在が、血のつながらない他者の体温の中で息をしている。


「ゼゴ」


 タティオンがコピーのゼゴに呼びかけた。穏やかな声だった。しかしその穏やかさの裏側で、何かが軋んでいた。


「あっちのお姉さんが抱きしめている子は、本当のゼゴじゃないんだ」


 コピーのゼゴが小首を傾げた。健康な緑の瞳がタティオンを見上げる。理想の父に愛されるべき、理想の娘の顔。


「罪の塊だ。悪いが、消し去ってくれないか」


 コピーのゼゴは大きく頷いた。


「わあったい!」


 明るい声だった。本物のゼゴが発したことのない、屈託のない声。コピーの体が跳ねるようにシャルトリューズの方へ向かった。


 シャルトリューズの触手が一斉に展開した。


 ピンクの髪がギュルっと巻いて太い触手の束になる。その先端から紫に燐光する毒霧が噴出した。


 コピーのゼゴが悲鳴を上げた。悲鳴が空洞に反響した。コピーの体が痙攣し、緑の瞳が裏返り、五体満足の健康な体が崩れ落ちる。シャルトリューズの毒はコピーの構造を一瞬で解体した。ソウツェクで作られた理想の娘が、紫の霧の中で消えていく。


「えっへへ」


 シャルトリューズは得意げに笑う。


「うちの毒はこの子には全く効かないけど、その子には効くみたいね」


 タティオンの表情が……崩れた。


 レカはそれを見た。父の顔が崩れるのを、初めて見た。六十六年間、この街の全てを掌握してきた男の赤い瞳に、動揺が走った。怒りでも悲しみでもない。それよりも根深い何か。理解の外側にあるものを見た時の、空白。


 シャルトリューズがタティオンを見た。


「おい! ジジイ!」


 普段の甘ったるさも軽薄さもない声だった。触手からの毒の揮発を恐れる必要もない、覚悟を決めた女の声。


「残念だけど、この子はあんたの子じゃないわぁ」


 緑の瞳がタティオンの赤い瞳を射抜いた。


「ウチの子よ」


 シャルトリューズは腕の中のゼゴの額に唇を寄せた。触手がゼゴの小さな体を包み込む。子供を産めない体で二十九年間生きてきた女が、初めて「母」として口づけをした。ゼゴの閉じた瞼が微かに震えた。盲目の瞳の奥で赤い光が一瞬だけ強くなり、また静まった。温もりを感じている。それだけが、この場の全てに勝る事実だった。




          *




 タティオンの防御に隙が生じた。


 レカが動いた。父の動揺を見た瞬間、体が先に走っていた。短刀を抜く暇もなかった。暗殺者の脚力で石の床を蹴り、タティオンの間合いに飛び込む。右の拳を振りかぶった。父の顔を……崩れたその表情を……殴りたかった。理由は自分でもわからなかった。ゼゴを壊した男が、コピーのゼゴを消されたぐらいで動揺するな。その資格がどこにある。レカは歯を食いしばり、叫ぶ。


「死ね!」


 タティオンの赤い瞳が動揺の底から持ち上がった。


 六十六年の暗殺術が、揺らいだ精神の下でもなお正確に機能した。レカの拳が届く寸前……タティオンの手がレカの手首を掴み、捻り、体を引き寄せてから、もう一方の腕で胴体を抱え上げた。一連の動作は一秒にも満たなかった。レカの足が床から離れた。教師の手が生徒の重心を完全に奪い、投げ飛ばした。


「レカ、激情に任せて身体を固めるなと、あれほど言ったはずだぞ?」


「ぐっ……!」


 レカの体が宙を舞った。


 壁面に向かって飛んでいく。このまま叩きつけられれば……すでに限界の近い体が……。


 衝撃が来た。


 しかし壁ではなかった。


 柔らかくはない。むしろ岩のように硬い。しかし壁の冷たさとは違う、熱を持った硬さだった。ガズボの腕だった。二百五十センチの巨体がレカの軌道に割り込み、三百キロの質量で受け止めていた。レカの体がガズボの胸板にぶつかり、衝撃が分散された。それでもレカの肋骨が軋み、口の中に血の味が広がった。


「オルア! ふぬけてんじゃねえぞコノアマ!」


 ガズボの怒声が耳元で爆発した。しかしレカを抱え直すその腕は、怒声とは裏腹に丁寧だった。レカの体を地面に下ろしながら、ガズボの黄色い瞳がタティオンの方を見た。粗暴な光が戻っていた。いや……粗暴さの中に、別のものが混じっていた。


「死ぬな! 姐御! 死ぬならオレの腹の中にしろ!」


 ガズボはレカを置いて走る。義務ではない。命令でもない。タティオンの計画がどうなろうと、世界がどうなろうと、ガズボには関係なかった。放っておけないくらい好きな奴がいて、好きな奴が戦っている場所に走った。それだけだ。ただ、それだけのことだった。


「オラ!」


 ガズボの拳がタティオンの防御を粉砕した。ソウツェクで固められた境界面の層が、三百キロの全質量を乗せた一撃で砕け散る。タティオンの体が吹き飛んだ。六十六歳の肉体を超人的な身体能力が支えていたが、ガズボの全力はその支えごと叩き潰した。


 しかしタティオンは崩れながらも反撃した。


 赤い瞳が閃いた。


 タティオンの針のような一撃がガズボの胸骨をひと突きし、体が痙攣した。


「ぐがっ!?」


 三百キロの肉体が、一瞬だけ空中で止まった。タティオンの神経への攻撃が脊髄を走り抜け、四肢の制御を奪っていく。致命傷だった。しかしガズボは倒れながらも……足を踏み出した。もう一歩。膝が折れかけた巨体が、それでも前に出た。タティオンを押しのけた体が、装置の残骸の上に崩れ落ちる。


 道が、開いた。


 タティオンとレカの間に立ちはだかっていた防御の壁が、ガズボの突進で消えていた。レカが父に到達するための、最後の道。ガズボはそれを、自分の体で開けた。


 ガズボの巨体が横倒しになった。黄色い瞳が半開きのまま、天井の方を向いていた。灰色の肌が急速に色を失っていく。千切れかけた耳が、ぴくりとも動かなかった。口から血が溢れ、べろんと出た舌が石の上に垂れた。


 レカは叫んだ。


「ガズボ!」


 返事はなかった。


(ダメだ、冷静になれ……っ!)


 レカはその身体を飛び越え、タティオンに向かう。




          *




 シャルトリューズはガズボが倒れるのを見ていた。


 触手が震えた。一本ではなく、全ての触手が同時に震えた。ピンクの体表が波打ち、毒の分泌が一瞬だけ止まった。ガズボの巨体が横たわる金属の床を、緑の瞳が見つめていた。


(ガズボ……)


 しかし足は止まらなかった。


 シャルトリューズは腕の中のゼゴを見下ろした。小さな体。閉じた瞼。触手を握る指。この子を守らなければならない。この子だけは。


 ゼゴをヨトゴォルの気配が濃い方向に押しやった。壁面の振動が強い方角。ダンジョンの深部。あの声がいる場所。あそこなら安全だと、シャルトリューズの触手族の本能が告げていた。


「行きなさい、あっちなら安全だから」


 ゼゴの小さな手がシャルトリューズの触手を掴もうとした。盲目の子が、温もりの源を手放すまいと、細い指を伸ばした。シャルトリューズはその手を……ゆっくりと外した。


(ウチの子。ウチの子なの。たった数日しか一緒にいられなかったけど、ウチの子なの)


 その思いを断ち切り、シャルトリューズは前を向いた。


 装置が目の前にあった。シャルトリューズの触手が装置の表面に触れた。シャルトリューズは装置に飛びかかった。全身の触手が外殻に張りつく。吸盤ではなく、繊毛のような突起が装置の表面に食い込む。触手の先端から毒液が溢れ出した。


 毒液の全力解放。


 シャルトリューズの体が変わった。普段は抑制している毒の分泌が、全ての制限を解かれた。頭部の触手だけでなく、体の全表面から紫に燐光する液体が噴き出す。触手族最後の生き残りが持つ、同族すら死に至らしめる奇形の毒。その全てが装置に注ぎ込まれた。


 装置の内部で共鳴が始まった。装置の内壁が変色し、腐食し、構造が崩れていく。


 代償として、シャルトリューズの体も限界を超えていた。


 触手が一本ずつ色を失っていく。ピンクの肌が灰色に変わっていく。毒液の全力解放は、シャルトリューズ自身の体を内側から蝕んでいた。生まれてからずっと毒に苦しめられてきた体が、最後に毒を全て吐き出して、空になっていく。


 シャルトリューズの口が開いた。声はもう小さかった。いつもの小声よりもさらに小さい。毒の揮発を気にする必要はもうなかった。体に毒が残っていないのだから。


「ウチの毒って、嫌なもの全部溶かすためにあったならって思ってた」


 触手が装置から剥がれ落ちた。力を失った体が金属の床に滑り落ちる。灰色になった肌。空になった体。緑の瞳だけがまだ光を保っていた。


「でも、溶かしたくない物もできたよ」


 シャルトリューズの視線が、壁の方角に向いた。ゼゴが這っていった方角。もう見えないはずだった。しかし緑の瞳はその方角だけを見ていた。


 触手が動かなくなった。


 瞳の光が消えた。




          *




「く、装置が……」


 レカの攻撃に集中していたタティオンは、ようやく装置の異常に気づく。メキメキと全体が軋んだ。シャルトリューズの毒が内部構造を侵食し、外殻が各所で変色と腐食を始めていた。しかし装置はまだ稼働していた。タティオンへのソウツェク供給は大きく乱れていたが、完全には断たれていない。


 その時……ジャドワが動いた。


 その体がダンジョンの壁面を蹴った。全速力だった。ジャドワの体が装置に突進した。シャルトリューズの毒液で腐食した外殻を撃ち抜いた。


 装置が裂けた。


 外殻が破断し、内部に蓄積されていたソウツェクが一気に噴出した。蒼白い光が閃光になって空洞全体を灼いた。ソウツェクの奔流が制御を失い、爆発的に四散する。壁面が悲鳴のように震え、装置の残骸から光の柱が天井に向かって噴き上がった。並行世界の血流が、堰を失って暴れ狂う。


 エリオンが叫んだ。


 言葉ではなかった。重力魔法の全力展開が叫びの形を取っただけだった。エリオンの両手から放射された重力場が、ソウツェクの爆発を球状に包み込んだ。抑えているのではない。全力で押し返しているのだ。


「ぐう、持ってくれ……っ!」


 少年の体が歪曲の反動で軋む。足が石の床にめり込んだ。着ているローブが吹き飛び、銀髪が逆立ち、猫耳が風圧に伏せられた。赤い瞳が明滅する。その体内のアーティファクトの負荷が限界に迫っていた。


 しかしエリオンは手を下ろさなかった。


 ソウツェクの奔流が重力場の内側でうねり、渦を巻き、少しずつ……本当に少しずつ……収束していく。ジャドワの突進で解放されたエネルギーが、エリオンの重力魔法で押さえ込まれていく。装置は決定的に損傷した。もう元には戻らない。


 タティオンの体が……よろめいた。


 装置との接続が断たれた。ソウツェク供給が完全に途絶えた。六十六歳の肉体を支えていた力が消え、超人的な身体能力が急速に萎んでいく。


 今までの死力を尽くした攻撃が、タティオンの精神を揺さぶった。壊されたままのゼゴがシャルトリューズの腕の中で安らいでいた光景が。ガズボが義務でも命令でもなく走った事実が。ジャドワの一撃が装置を破壊し、弟弟子の重力魔法がソウツェクの暴走を封じたことが。精神の崩壊と防御の崩壊が、同時に、一人の男を裸にした。


 光が萎んでいく。


 タティオンは装置の残骸の手前に立っていた。右膝を庇うように立っている。痛みが復活したのだ。肩で息をしている。赤い瞳の光が揺れていた。


 しかしタティオンは倒れなかった。暗殺ギルド長の目がレカを見返した。


 レカは二つの亡骸の間に立っていた。


 ガズボの巨体が右に横たわっていた。シャルトリューズの灰色の体が左に横たわっていた。責任を持たなかった男と、責任を拒否してきた女。義務で死んだのではない。ガズボはレカが好きだから走った。シャルトリューズはゼゴを守りたかったから飛びかかった。


(誇りは選ぶもの)


 タティオンの言葉が、レカの中で反響した。


 レカは一歩を踏み出した。


「父さん」


 声が震えなかった。震えないことに、自分で驚いた。


「本当のことを言うと、これまで何度もあなたを恨んだことがある」


 タティオンの赤い瞳が動かなかった。聞いている。


「でもね」


 レカはもう一歩踏み出した。


「この過酷な世界を生き抜く力と術と知識を与えてくれたのは、父さん、あなたなんだ」


 タティオンの瞳に、何かが揺れた。計算でも制御でもない光。


「あーしは今、あーしの半生に決着をつける」


 レカが走った。


 タティオンも動いた。まるで何事もなかったかのように立ち上がる。今し方の装置の崩壊の余波で、自慢のフロックコートはボロボロになり、痩せているが筋の張った肉体が顕になっている。


 六十六歳の肉体。


 しかしその体術は衰えていなかった。装置のソウツェク供給が断たれていても、タティオン自身の暗殺術は健在だった。レカが学んだ全ての技法の原型。レカの突きはタティオンの突きの劣化版であり、レカの回避はタティオンの回避の簡易版だった。教師は生徒の手の内を全て知っている。


 レカの右のフェイントをタティオンが読んだ。左の蹴りをタティオンがいなした。レカの連続攻撃の全てが、タティオンの最小限の動きで処理されていく。打撃を繰り出すたびに、自分がこの男に教わったことを思い知らされた。


(あーしの技は全部この人のものだ)


 攻防の中で、レカは済んだ気持ちでそう思った。


(この人の体が覚えている動きの模倣にすぎない)


 タティオンの反撃がレカの腹を穿った。赤い瞳の力を乗せた掌底がレカの肋骨を軋ませ、体が浮いた。


「かはっ!?」


 壁に叩きつけられる寸前に体を捻って着地したが、膝が折れかけた。口の中に血の味が広がった。


 エリオンが援護に入った。重力魔法がタティオンの動きを一瞬拘束する。しかしタティオンは重力の束縛を暗殺術の足捌きで滑り抜けた。エリオンの攻撃も、タティオンにとっては五十年前から知っている弟弟子の手の内だった。


 レカは壁に手をついて立ち上がった。肋骨が折れているかもしれない。呼吸のたびに胸が軋む。赤い瞳の視界が明滅した。体の限界が近かった。捨て身の一撃で装置を粉砕したシャルトリューズの姿が頭を過ぎった。ガズボの巨体が倒れる音が耳に残っていた。


(あーしに、何が残ってる)


 タティオンの構えが目に入った。


 完璧だった。隙がない。呼吸のリズム、重心の置き方、足の開き。レカはこの構えを知っている。幼い頃から何千回と見せられた構えだ。そしてこの構えを崩す方法も教わった。しかしタティオンが教えた崩し方を、タティオンが知らないはずがない。教師は生徒の引き出しの中身を、引き出しを作った張本人として全て把握している。レカの中にある暗殺術の全ては、この男の掌の上だった。


 技法ではだめだ。


 駆け引きでもだめだ。何を繰り出しても、この男の六十六年に含まれている。


(だったら……)


 レカの目が、タティオンの向こうに横たわるガズボの体を捉えた。義務で走ったのではない男。その隣に、灰色になったシャルトリューズの体。命令で飛びかかったのではない女。


 二人は技法で死んだのではなかった。選んで死んだのだ。何も計算しない拳。何も防がない身体。壊れることを前提にした、一方通行の距離の詰め方。それは暗殺術のどの教本にも載っていない。タティオンが教えなかったことだった。教えなかったのではなく……教えるという発想がなかったのだ。六十六年間「他者は壊れるもの」として扱ってきた男は、壊される前に自分から壊れにいく人間のことを想定していない。


 レカはタティオンの構えから目を離した。


 もう読む必要がなかった。


 構えの隙を探すのをやめた。回避の動線を組むのをやめた。フェイントの順序を頭から消した。暗殺者として十九年間積み上げてきたもの全てを、レカは一瞬で手放した。


 残ったのは、体重だけだった。五十二キロ。レカの全部。


 レカは走った。


 真正面から。フェイントなし。回避動線なし。技法なし。ただ、前に。


 タティオンの赤い瞳が……一瞬だけ、開いた。この走り方は、レカに教えた何にも当てはまらない。攻撃と防御を同時に捨てた直進。暗殺者の技法ではなかった。致命傷を与える代わりに、致命傷を受ける走り方だった。


「うわあああああああ!!」


 レカの咆哮を前に、タティオンの反撃がレカの左肩を貫いた。骨が砕ける感触がした。レカの視界が白く弾けた。激痛が全身を走った。しかしレカの体は止まらなかった。貫かれた肩ごと前に出た。痛みの向こう側に、父の体があった。


 レカの右手がタティオンの胸に届いた。


 暗殺者の手ではなかった。技術も計算も精度もない、ただの拳。しかしその拳には、レカの全体重と、走った勢いと、壊れることを受け入れた体の全てが乗っていた。


 鈍い音がした。


 タティオンの胸骨が折れた。


 赤い瞳の光が揺らいだ。六十六歳の体が、初めて大きく後退した。装置の残骸に背中がぶつかり、そのまま崩れ落ちた。レカも崩れた。貫かれた左肩から血が流れ、右手の拳が砕けていた。二人は装置の残骸を挟んで、互いに崩れ落ちた。


 タティオンがレカを見ていた。


 倒れた体勢のまま、赤い瞳がレカを見つめていた。折れた胸骨から血が滲み、呼吸が浅くなっていく。しかし瞳の光はまだ消えていなかった。


「お前は」


 タティオンの声が掠れた。穏やかさの欠片もない、剥き出しの声だった。


「神の描いた完璧な作品なんだ」


 レカの目が見開かれた。


「お前の生きてきた全てのできごとが」


 タティオンの手が伸びた。レカの頬に触れようとして、途中で力を失い、金属の床に落ちた。しかし言葉は続いた。


「殺したくなるほど美しい」


 その瞳に浮かんでいたのは……何だったのか。


 愛情だったのか。所有欲だったのか。レカを作品と呼ぶ言葉は、娘への賛辞なのか、道具への評価なのか。「殺したくなるほど」という言葉は愛の極致なのか、支配の極致なのか。


 答えは出なかった。


 レカにもわからなかった。タティオン自身にもわからなかっただろう。最後まで愛情と所有欲の区別がつかないまま、タティオンの赤い瞳から光が消えた。


 手が床に落ちたまま、動かなくなった。


 タティオンは、死んだ。




          *




 レカは立ち尽くしていた。


 いつ立ち上がったのか、自分でもわからなかった。貫かれた左肩から血が滴っている。砕けた右手の拳が熱を持ち、指を曲げることもできなかった。肋骨が軋み、呼吸のたびに胸の奥で何かが擦れる音がした。両手が体の横に垂れ、血だけが指先から落ちていた。


 装置の空洞の周囲に、三つの体が横たわっていた。


 ガズボの巨体が右に。シャルトリューズの灰色の体が左に。タティオンの体が装置の残骸の手前に。ジャドワの体はソウツェクの奔流で消し飛んでいた。そして少し離れた壁際に、ゼゴが座り込んでいた。シャルトリューズの亡骸の傍に。動かなくなった触手に小さな手で触れ続けていた。もう温もりは返ってこない。触手はピンクではなく灰色で、ぬるりとした粘液も乾いていた。それでもゼゴは離れなかった。盲目の子は視覚で死を確認できない。触覚だけが全てだった。冷たくなっていく触手の感触が、ゼゴに何を伝えているのか。ゼゴの閉じた瞼の下から、赤い光が一筋だけ頬を伝っていた。涙ではなかった。赤い瞳の魔力のオーラの光が溢れただけだった。しかしその光の筋は、涙のように見えた。


 レカは動けなかった。


 足音がした。


 小さな足音。少年の歩幅。エリオンだ。レカは振り返れなかった。父を殺した手で、誰かの顔を見ることができなかった。砕けた右手。ルゥリィを殺した手。子供たちを殺した手。タティオンの胸骨を折った手。この手で、誰の顔を見ることができるのか。


 エリオンがレカの前に回り込んだ。フードの奥に赤い瞳が二つ。銀髪が汗と埃で額に張りついている。猫の耳がちょっとだけ前に傾いた。レカの顔を見ている。


 エリオンが手を開いた。


 錆びたロケット型のペンダント。


「エリオン。これは……」


 真鍮の鎖は根元から断ち切れていた。金属の表面は傷だらけで、錆が浮いていた。安物だった。最初から安物だった。あの時、獣人隊長の遺体の懐から取り上げた時から。


「預かっていた。お前にとって、どういう意味があるのかはわからないが……」


 エリオンが言った。


 レカはそのペンダントを見つめた。見つめて……動けなかった。


 愛する人がペンダントを持っている。いつ拾ったのか。中を開けたのか。「おとうさん、はやくかえってきてね」という文字を読んだのか。ルゥリィを娘同然に育てた男が、その文字を見た時、何を思ったのか。


 レカにはわからなかった。


 しかしこの人がペンダントをふたたび渡してくれることだけが、目の前にあった。エリオンの手がレカの手を取った。レカの砕けた右手ではなく、貫かれた左肩の側の手。もう満足に動かせない血に濡れた手のひらを上に向けさせて、その上にペンダントを置いた。金属の冷たさが、レカの手に伝わった。


 手の中に重さが戻った。


 ペンダントの重さ。知っている重さ。獣人隊長の遺体から取り上げた時の重さ。暗い路地を歩きながら懐で感じた重さ。アトリエで落とした時の重さ。この重さが、手に戻ってきた。


 中の文字は、もう読まなくても見えた。


 ……おとうさん、はやくかえってきてね。わたしまってるよ。


 記憶が奔流した。全てが蘇った。獣人隊長の遺体。暗い路地。血の匂い。ペンダントを開けた時の、あの瞬間。手が止まった瞬間。暗殺者の手が、安物のペンダントの文字の前で止まった瞬間。


 しかし今度はもう一つの記憶が重なった。


 暗い部屋。安い香の煙。扉の向こうの足音を待つ耳。幼い手が布団の端を握っていた。娼館の一室。壁の向こうから聞こえる声。客の声。女の声。


(そっか、あーし……あーしも……)


 足音を待つ。タティオンの足音を。来る日もあった。来ない日の方が多かった。来る日だけ、世界が変わった。「よくやった」と撫でてくれる手。「強くなったな」と言ってくれる声。来ない日は……。


(……あーしは、待っている限り、存在していないのと同じだった)


 レカも、この言葉を知っていた。


 声に出したかどうかも覚えていない。でも、待っていた。あの暗い部屋で、レカも待っていた。


 ……おとうさん、はやくかえってきてね。


 ペンダントの文字の主語が反転した。


 獣人隊長の子供の声が、幼いレカ自身の声に重なった。あの子が書いた言葉は、レカが言えなかった言葉だった。あの子が父に宛てた祈りは、レカが父に宛てられなかった祈りだった。あの時、自分が殺した遺体の懐からペンダントを取り上げた時、手が止まった理由が……判明した。レカはあの文字に他人の痛みではなく、自分でも気づかないまま自分の痛みを読んでいた。


 ペンダントを握りしめたレカの手が震えていた。


 涙は出なかった。泣く体力すら残っていなかった。肩から血が流れ、肋骨が軋み、右手の拳は砕けている。体が震える余力すら本当はないはずだった。しかし手だけが震えていた。ペンダントを握る左手だけが、意志とは無関係に。金属の冷たさが、手のひらの熱で少しずつ温まっていく。それだけのことが、レカの全身から力を奪った。


 エリオンが口を開いた。


「お前は正しかったかどうか、俺にはわからない」


 レカは顔を上げた。上げようとして、首が動かなかった。俯いたまま、エリオンの声だけを聞いた。


「だが、お前の気持ちを愛している」


 レカの呼吸が止まった。


「……気持ち?」


 掠れた声が出た。自分の声だと認識するまでに時間がかかった。


「怒ったこと」


 エリオンの声が続いた。フードの奥の赤い瞳がレカを見ていた。


「泣いたこと。逃げたこと。戻ってきたこと。全部だ」


 エリオンの声が……変わった。英雄の声でも、冒険者ギルド長の声でも、アトリエの画家の声でもなかった。もっと深い場所から来る声だった。二つの世界で五十年を生きた男の声。ルゥリィを娘同然に愛した記憶と、レカを娘同然に愛した記憶を、同時に抱えている男の声。


「タティオンはお前を作品だと言った。俺はそうは思わない」


 エリオンの手がレカの震える手に触れた。ペンダントを握りしめた拳の上に、小さな手が重なった。少年の手。しかしその手には絵筆と剣を握り続けた五十年分の硬いタコがあった。


「お前は作品じゃない。お前はただ……お前の気持ちで動いた、それだけの人間だ」


 レカの目から涙が零れた。


 いつ零れ始めたのかわからなかった。泣く体力はないはずだった。しかし涙は体力とは関係のない場所から出てきた。拒絶でもない涙だった。感謝でもない涙だった。ただ……聞いてもらえた、ということへの涙だった。


 レカの身体からふっと力が抜けた。


 捨て身の一撃で限界を超えた体が、ようやく崩れた。貫かれた肩、砕けた拳、折れた肋骨。全てが同時にレカの体を引き倒した。


 エリオンが受け止めた。倒れかけたレカの背中に腕が回った。細い腕だった。しかし揺るがなかった。


 エリオンの腕の中で、レカは瀕死だった。呼吸が浅く、肌が冷たく、意識が遠のきかけていた。しかしペンダントを握った手だけが力を失わなかった。左手の指が錆びた金属に食い込み、手のひらの中で「おとうさん、はやくかえってきてね」……その思いが、温まっていた。それは全ての子供の願いであり、レカの願いでもあった。今ここに、本当に父親にしたい相手がいる。その腕の中で、レカの命は消えようとしていた。

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