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六十三 マリオネットのつくりなおし

 装置が脈動した。


 タティオンの赤い瞳から光が溢れ、周囲の空間が歪んだ。この部屋の骨のような白い壁面が光に浸食されるように色を変えていく。ソウツェクの流れが逆巻き、空気そのものが変質した。温度が変わった。匂いが変わった。光の色が変わった。


 レカは立っていた場所の足元が揺らぐのを感じた。


 いや、揺らいだのはレカの足元だけではなかった。


 空間そのものが波打っていた。装置を中心に、ヨトゴォルの身体の内壁が水面のようにたわみ、距離という距離が伸び縮みを繰り返す。床も壁も天井も、どこにも定点を許さない。


 その渦の中で、突進していた巨体が止まった。ガズボだった。さきほどから装置めがけて地を蹴っていた二百五十センチの肉塊。タティオンに届くはずだった黄色い眼光。その勢いが、波打つ床に足を取られて行き場を失った。踏み込んだ足の裏が、あるはずの地面を踏み抜く。重心が泳ぐ。三百キロが、前のめりに崩れかけた。


「ぐ、ぉ……っ、なんだ、こりゃあ……!」


 舌が口の端から零れ、唾が飛んだ。壁を砕き、敵を握り潰す膂力も、踏む床がなければ何の意味も持たない。


 その背へ、影が滑り込んだ。ジャドワだった。神速の足捌きで波打つ床を一息に渡り、弟の傾いだ巨体を肩で受け止める。二人分の重心を、辛うじて一点に縫い止めた。


「無駄だ、ガズボ」


 兄の声は、こんな時でも凪いでいた。


「足場ごと、あの男に手繰り寄せられてる。近づこうとするほど、遠ざかるぞ」  深く明滅する赤い瞳が、空間の歪みの構造を読んでいた。長いこと内部をさまよい歩き、このダンジョンの内側を知り尽くした男の目だ。ガズボが牙を剥いて唸った。ほんの数十歩先に、タティオンがいる。その数十歩が、どうやっても縮まらなかった。




「レカ」


 タティオンの声が響いた。


 空間の全方位から、同時に。装置を通じてソウツェクの力を増幅したタティオンの声は、空気そのものを震わせていた。


「レカ、エリオン。見てくれ」


 タティオンが両腕を広げた。白髪の老人の体躯が、装置から引き出されるソウツェクの蒼白い光に照らされていた。その光量は尋常ではなかった。赤い瞳が爛々と輝き、六十六年間の知識と技術と執念の全てが、この一瞬に収束している。


 レカは吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。


(結節点たちよ、ソウツェクの圧力が大きすぎる。近づけそうにないな)


 タティオンの体が、変わっていく。


 レカの赤い瞳が、その一部始終を捉えていた。さきほどまで右の袖は焼け落ち、肘から先が赤黒く爛れていた。地上の崩壊で負った火傷だった。それが、蒼白い光に浸されて、見る間に癒えていく。爛れた皮膚が再生し、千切れた袖の奥で、枯れかけた老人の腕に肉が戻る。六十六年かけて鍛え、六十六年かけて衰えた体が、装置から逆流するソウツェクで塗り替えられていた。


 背筋が伸びた。常人離れした殺気を畳み込んでいた老体が、若木のように真っ直ぐになる。


 しかしレカの目を凍らせたのは、肉体ではなかった。顔だった。深い皺の刻まれた相貌に浮かんでいるのは、暗殺ギルド長の冷徹でも、父を演じる時の柔らかさでもなかった。長い歳月を費やした一品を、職人がいよいよ炉から取り出す……そういう種類の、隠しようのない高揚だった。十九年この男の下で生きてきて、レカがただの一度も見たことのない顔だった。




「ワシは……自分だけに都合の良い世界を作る」


 宣言だった。


 レカの横に立つエリオンの体が、微かにこわばった。


「タティのやつ、並行世界の……その構造を、力ずくで書き換えるというのか」


 タティオンは語らなかった。理論も手順も動機も、いっさい。ただ実行した。


 空間が裂けた。


 裂けた先から、光が溢れた。暖かい光だった。ダンジョンの壁面を浸す蒼白さとは異質の……柔らかく、穏やかで、どこかの春の朝のような光。


 その光の中に、姿が現れた。


 小さな体。緑の長い髪。閉じていたはずの……盲目だったはずの瞳が、開いている。赤い瞳。そして両足がある。義足でも触手でもない、普通の少女の足。五体満足の体で立ち、走り……


「父上!」


 ゼゴだった。


 壊されていない、ゼゴだった。


 その声には知性があった。言葉の抑揚があった。十代らしき女の子の、歳相応の明るさがあった。タティオンに駆け寄り、その胸に飛び込んだ。タティオンの腕が……いつも暗殺の技術だけを教える腕が……ゼゴを抱きしめた。ゼゴは笑っていた。顔をくしゃくしゃにして、父の胸に顔を埋めて。


 レカの目が歪む。


 シャルトリューズが腕の中のゼゴをぎゅっとより強く抱きしめる。


 ゼゴの隣に、もう一つの影が現れた。


 金色の髪。黒い革のボディスーツ。首にかかっているのは暗殺ギルドの紋章が刻まれたブローチだった。エリオンが歯軋りしながらその名を呼ぶ。


「ルゥリィ……ッ!」


 レカに殺されたはずの女性がゼゴの隣に立っていた。そして次に出てくるのはリリア。薄い青い瞳で微笑みながら、ルゥリィの手を握流。異母姉妹が、何の恥じらいもなく手を繋いでいた。


「父上、お久しぶりです」


 リリアの声だった。生きているリリアの声だった。あの白い光に焼かれる前の、あの橋の上で必死に呼びかけていた声ではなく……台所で味見をしながら笑っていた、あの穏やかな夕餉の声。


「父上」


 三人の娘が揃っていた。ゼゴ、リリア、ルゥリィ。全員がタティオンを「父上」と呼んでいた。暗い部屋も娼館も奴隷の鎖もない。子供同士の殺し合いもない。全てが……最初から、何も壊れていないかのように。


 ソウツェクの奔流はいよいよ強さを増し、誰もが後退しないように床に膝をつくしかない。エリオンがレカを支え、ジャドワとガズボが肩を貸し合い、ゼゴを抱いたシャルトリューズが触手で壁と床をガッチリ掴む。 


 その中心、台風の目のような凪の中で、タティオンの赤い瞳が、四人の娘を見回した。六十六年間……いや、物心ついてから一度も浮かべたことのないはずの表情が、その顔に浮かんでいた。頬の筋肉が、本心からの笑い方を忘れた男の顔で、それでも仮面ではない笑みを形作ろうとしていた。


「これが……ワシの描く世界だ」




          *




「レカ!」


 その声に、棘がなかった。


 命じる時の低い圧も、叱る時の静かな重さもなかった。装置の力で全方位から降るタティオンの声は、晴れ渡った朝の挨拶のように明るかった。理想の家族に囲まれた父が、出かけようとする娘を呼び止める……そんな声音だった。


 レカの肌が粟立った。十九年。任務のたびに血を拭われ、矜持を刻み込まれ、足音を待たされてきた十九年のあいだ、この男がこんなふうに名を呼んだことは、ただの一度もなかった。朗らかさは、作り物の優しさよりも、なお恐ろしかった。本物だったからだ。少なくとも今この瞬間、タティオンは心の底から機嫌が良かった。


 白く照らされた腕が、コピーの娘たちのほうへ、招くように差し伸べられた。


「ワシに逆らったことを全て許そう! さあ、こちらへ来い! ワシの作る世界では、殺しに思い悩むことなどない……姉妹たちと共に、他の世界からソウツェクを殺して奪うことになんの罪の意識も必要ないのだ!」


 レカは動けなかった。ソウツェクの圧力のせいだけではない。足が石のようだった。赤い瞳が……見たくないものを自動的に読み取り、分析し、理解してしまう瞳が……コピーのゼゴの健やかな四肢を、コピーのルゥリィの穏やかな笑みを、コピーのリリアの青い瞳を、隅々まで記録していた。


 誘惑だった。


 罪が消えるなら。


 ルゥリィが生きているなら。


 ゼゴが普通の少女のままなら。


 リリアが死んでいないなら。


 そして、これまでの人生を全てなかったことにして、血に塗れた手のままでも誇りを持って生きていけるなら。


 レカの膝が震えた。それは恐怖ではなかった。もっと甘く、もっと深い場所から来る震え。ルゥリィを殺した夜……あのバルコニーで膝を抱えてうずくまっていた夜に、タティオンが差し出した「逃げ道」と同じ構造だった。あの時は「自由」を見せた。牧場を買えばいい、この街を離れればいい。その言葉の温かさに包まれて、レカは「逃げない自分」を選んだ。タティオンの計算通りに。


 今度は……罪そのものの消去を見せている。


 お前が殺した人間は存在しない。お前が壊した子供は最初から壊れていない。お前の手は汚れていない。最初から何も起きなかった世界。


(……いいの、か)


 思考が揺れた。理性ではなく、もっと古い場所……十歳の暗い部屋で、父の足音を待っていた子供の場所……が、その光に手を伸ばそうとしていた。あの光の中に入れば、あの暗い部屋はなかったことになる。娼館もない。殺し合いもない。ルゥリィの金色の髪が肩にかかって細い息が止まるあの感触も、ない。


(あーしは……)


 コピーのゼゴが走り回っている。五体満足の足で。コピーのルゥリィがリリアの隣で笑っている。あの顔。あの表情。父に愛されている確信に満ちた顔。レカが一度も……本当の意味では一度も……浮かべたことのない顔。


 エリオンの気配が隣にあった。銀の髪の奥の赤い瞳が、レカと同じ光景を見ていた。二つの世界線の記憶を持つ男は、ルゥリィの姿を見て……何を感じているのか。レカには問えなかった。しかしエリオンの呼吸がほんの一瞬だけ乱れたのを、暗殺者の耳は聞き逃さなかった。


 タティオンが穏やかに語りかけた。


「レカ。エリオン。お前たちが抱えている重荷を、ワシは消せる。並行世界の構造ごと書き換えれば、罪も責任も初めからなかったことになる。誰も死なず、誰も壊されず、誰も奪われない世界。それは夢物語ではない。ワシは五十年かけて、その方法を見つけた」


 その声は穏やかだった。脅迫でも命令でもなかった。父が子に語りかける声だった。本物の……少なくともタティオン自身はそう信じている……慈愛が、その声に含まれていた。


「お前たちは十分苦しんだ。もういいだろう」


 レカの視界が滲んだ。


 泣きたかった。泣いて、あの光の中に崩れ落ちたかった。全部なかったことにほしかった。ルゥリィの最後の息を。子供たちの紫に変色した唇を。ゼゴの腐った両足を。橋の上のリリアを。全部。


 レカは歯を食いしばった。涙を呑んだ。呑み込んだ涙の塩辛さが喉を灼いた。


「……あーしが殺した人間は、消えない」


 声が出た。震えていた。しかし出た。


「消しちゃいけない」


 コピーの三人がレカを見た。


 その瞳に、翳りがひとつもなかった。コピーのゼゴにも、コピーのリリアにも、コピーのルゥリィにも。あの暗い部屋を知らない目だった。ルゥリィの金色の髪から細い息が抜けていく感触を知らない目。動かなくなった子供の首すじに指を当てた記憶のない目。何も背負っていないから、まっすぐにレカを見て、笑える。レカは笑えなかった。それが、今のレカには、自分が人間である証拠だった。


「あーしの罪は、あーしのものだ」


 タティオンの表情が止まった。


 コピーの娘たちに囲まれた男の顔から、先ほどまでの穏やかさが……消えたのではなく、その下にあったものが透けて見えた。計算。制御。設計。レカの言葉を聞いた瞬間に走る、次の一手への思考。レカはその反応を知っている。十九年間、見続けてきた。


 エリオンが一歩前に出た。


 兜の奥の赤い瞳が……以前とは違う深さで……タティオンを見ていた。レカを娘として愛した記憶と、ルゥリィを娘として愛した記憶。その両方を背負った男の瞳。


「タティ、聞いてくれ。お前にわかってほしかったことだ。この世界を、罪を抱えたまま、それでもましな場所にすること」


 エリオンの声は低く、静かだった。怒りではなかった。もっと深い……諦めに似て、しかし諦めではないもの。


「タティオン、お前が五十年前に捨てた道だ」


 タティオンは黙った。


 一瞬……ほんの一瞬だけ、コピーの娘たちの光が揺らいだ。タティオンの集中が、エリオンの言葉に切り裂かれた一瞬。五十年前。ユスフが溶けていった最深部。帰路で瀕死のエリオンを背負いながら言った……「方法が足りなかっただけだ」。あの日から五十年。方法を見つけた。見つけた方法を今まさに実行している。捨てたのは道ではない。正しさという足枷だ。


 タティオンの赤い瞳が、静かにレカを見た。


「なあ、レカ。エリオン兄さん。誇りは選ぶものだ、そうだろう?」


 その言葉を、レカは覚えていた。タティオンが何度も口にした言葉。暗殺者としての矜持を教える時に。任務の後で膝を抱えるレカの肩に手を置く時に。父として……あるいは上官として……レカに刻み込んだ言葉。


「今、ワシはここで選ぶ」


 タティオンの声が変わった。穏やかさが剥がれた。その下にあるのは……怒りでもなく、失望でもなく……冷徹な判断だった。壊れたものは作り直す。応じないものは取り替える。六十六年間、タティオンを支えてきた原理。


「レカ。お前のスティレットがワシに向けられるか」


 タティオンは言った。レカの瞳の中に……拒絶を、読み取った。一章の終わりに「逃げない」を選ばせた少女が、今度は「受け入れない」を選んでいる。そのことの意味を、タティオンは瞬時に理解した。


「ならば……」


 一拍。


「マリオネットの作り直しだな」


 レカの背筋が凍った。


 タティオンが右手を上げた。装置から引き出されるソウツェクの光が、その指先に集中した。空間が再び裂ける。コピーのゼゴ、コピーのリリア、コピーのルゥリィの姿が薄れ……代わりに、一つの影だけが残った。


 コピーのレカ。


 それが、出現した。


 タティオンの前に立っている。革のボディスーツ。腰の短刀。ホワイトゴールドのポニーテール。外見は本物のレカと寸分違わない。


 違うのは……目だった。


 コピーのレカがタティオンの方を向いた。その赤い瞳には意志がなかった。拒絶がなかった。問いかけもなかった。従順さだけが、澄んだ水のように満ちていた。


 タティオンがコピーのレカの肩に手を置いた。


 コピーのレカが……うっとりとした顔で……その手に頬を寄せた。


 レカの内臓がねじれた。


 比喩ではなかった。胃の底から喉の奥まで、物理的な嫌悪が突き上げてきた。吐き気だった。あの腕の中にいるのは自分ではなかった。自分の形をした……服従だった。レカの顔と髪と瞳と体格をした、従順な人形。タティオンの命令に頷き、タティオンの腕の中で安らぎ、タティオンの言葉を疑わず、タティオンの愛を信じて微笑む……それだけの存在。


 タティオンの手が、コピーのレカの髪を撫でた。


 レカは……その仕草を、知っていた。


 幼い頃。暗い部屋に父が来た日。粗末なベッドの縁に座って、小さな頭を撫でてくれた。あの手。あの仕草。あの時だけ世界が変わった。あの手が来ない日は……レカは存在していないのと同じだった。


 今、同じ手が、コピーの頭を撫でている。


 同じ仕草で。同じ優しさで。


(おとーさんが愛してたのは……)


 思考が止まった。止まった場所に、答えがあった。


 タティオンが愛していたのは、レカではなかった。


 従順な娘だった。命令に従い、期待に応え、罪悪感を持たず、疑問を抱かず、父の腕の中で微笑む……そういう存在を、タティオンは愛していた。レカがたまたまその枠に嵌まっていただけだ。枠から外れた瞬間……「それだけは……ちょっと」と言った晩餐の夜、「道具じゃない」と叫んだ書斎の朝……タティオンはきっとこうすることを決めたのだろう。そして躊躇わず「作り直し」を選んだ。壊れたら作り直す。それがタティオンの原理であり……レカへの愛情の正体だった。


 レカの胸の奥で、何かが消えた。


 怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと静かで、もっと確実な……消失。十九年間、暗い部屋の底で燃え続けていた小さな炎が、音もなく消えた。父に愛されたいという渇望。その渇望こそがレカをマリオネットにしていた糸の、最も太い一本だった。


 糸が……切れた。


 レカは初めて、父への愛情が消え去るのを感じた。消え去る瞬間は、痛くなかった。思ったよりずっと静かだった。ただ、胸の内側が空洞になった。心の中になにも、何もなくなった。


 コピーのレカがタティオンの胸に顔を埋めている。うっとりと。満足げに。レカが十九年間欲しくて欲しくてたまらなかったものを、殺しの対価にしか受け取れなかったものを、苦悩と共にしか受け取れなかったものを……コピーは何の苦痛もなく享受している。


 レカの足が動いた。


 考えるより先に。


「う、うわああああ!!」


 暗殺者の足だった。床を蹴る音もなく、呼吸を乱すこともなく、タティオンとコピーのレカの間合いに一瞬で踏み込んだ。短刀が鞘から抜ける金属音。暗殺ギルドの便利屋、いや、暗殺者が十九年間磨き上げた、最も速い抜刀。


 気がついた時には飛びかかっていた。


 タティオンの反応は正確だった。コピーのレカを片腕で退かし、もう一方の手でレカの短刀を受けた。素手で。


 ぐさ……っ。


 刃が掌を裂き、血が散った。しかしタティオンの体は微動だにしなかった。装置から供給されるソウツェクが、六十六歳の肉体を異常な速度で修復していく。刃が抜けた後、掌の裂傷が……レカの目の前で……閉じていった。そしてレカの腕を、握られた短刀ごとがっちり掴む。


「やはり、お前は美しいな」


 タティオンが呟いた。血に濡れた手でレカの短刀を握ったまま。その声に怒りはなかった。感嘆だけがあった。作品を眺める職人の……道具を品定めする暗殺者の目。


「お前はワシの最高傑作。お前の今が、過去が、未来が、殺したくなるほど美しい」


 ゾッとした。


 レカはゾッとした。


 ゾッとしたまま、レカの体が先に動いた。


 タティオンに握られていないほうの手、その左の拳が、固く握り込まれた。短刀ではない。技も計算もない、ただの拳。それを、すぐ脇でうっとりと頬を寄せていたコピーの自分へ、叩き込んだ。


 顔の真ん中だった。


 鈍い音がした。コピーのレカの首が、あらぬ方向へ跳ねる。従順だけを湛えていた赤い瞳が、初めて何かを映した。衝撃を。痛みを。レカは止まらなかった。


「うおおおお!!」


 崩れかけたコピーの胸ぐらを左手で掴み、膝を腹へ突き上げ、肘を後頭部へ落とす。骨の砕ける手応えが、幾度も左腕を伝った。自分の顔をした服従が、自分の手で、めちゃくちゃに壊されていく。息が獣のように荒れていた。十九年欲しがって手に入らなかったものを、何の苦痛もなく享受していた人形。それを、一片も残さないつもりで打ち据えた。


 コピーのレカが光の粒子になって崩れ始める。それを見届ける前に、レカは右手を返した。


 タティオンは今の光景を黙って見ていた。何も動かず、止めもせず。レカはカッとなって叫ぶ。


「この異常者が!!」


 レカは手を掴まれたまま、握られた短刀ごと、切っ先を老人の胴へ突き入れる。


 刃は沈んだ。確かに、肉の奥まで。


 しかし、何も起きなかった。


 血の一滴も流れない。装置から供給されるソウツェクが、刃の通った道を、刺さるそばから塞いでいく。傷が、刃を抱いたまま、レカの目の前で閉じていった。 


 タティオンは、眉ひとつ動かさなかった。掴んでいたレカの手首を、ゆっくりと放す。胴に短刀を生やしたまま、まるで何事もないかのように、レカを見下ろしていた。


 レカは短刀をタティオンの体から引き抜き、後退した。


 その瞬間……。


 足の裏に、振動が走った。


 ヨトゴォルの壁面が……微かに、しかし確実に……鳴動した。温度のない震え。感情のない振動。空気の圧力が変わり、意識の底を掠めるように、あの声の気配が戻ってきた。


 壁面の振動が、足裏を通じてレカの骨まで届いた。


 それだけだった。


 それだけで……レカには十分だった。


 鬱陶しかった声。使えない神様。並行世界胡坐式生命、拡散系知的生命体。感情もなく、行動を指示する機能もなく、ただ観測し、伝えることしかできない存在。しかしその存在が……ここに戻ってきたことが、レカの足の裏から背筋を通って、頭のてっぺんまで伝わった。


(結節点よ)


 声がレカの身体全体に響く。


(ここが、お前のマリオネットとしての転換点であり、スティレットとしての転換点でもある。さあ、お前はどうする? 何を選ぶ?)


(……いたのかよ)


 心の中で呟いた。声に出す余裕はなかった。


 壁面が微かに鳴動した。応答とも反応ともつかない振動。しかしそれは……パラクロノスで見たあの夢から、貧民街の路地から、並行世界の回廊から……ずっと傍にあった振動と同じものだった。


 レカは短刀を構え直した。もう片方の手は手刀の形にし、構える


 エリオンが横に並んだ。兜の奥の赤い瞳と、レカの赤い瞳が、一瞬だけ交差した。言葉は要らなかった。タティオンを止める。それだけが、今この場にいる二人の間で共有された意志だった。


 タティオンは装置の前に立っていた。コピーのレカは……本物のレカの攻撃の衝撃で維持が途切れたのか……光の粒子になって散り始めていた。タティオンはそれを一瞥もしなかった。壊れたものへの未練は、この男にはない。


 装置がうなりを上げた。


 ソウツェクの蒼白い光がタティオンの全身を包み、その肉体を増幅していく。六十六年の技術と五十年の研究が凝縮された力。暗殺ギルド長としての戦闘能力に、装置が引き出す多元並行世界の血流が加わっている。


 しかし……レカの赤い瞳は捉えていた。


 微かな不安定。


 装置からタティオンへ流れるソウツェクの供給に、ほんの一瞬だけ、律動が乱れる箇所があった。心臓の鼓動が一拍だけ飛ぶような、呼吸が一瞬だけ引っかかるような……微細な断裂。タティオンの顔に、それを感知した痕跡が走った。眉根の皺。しかし原因を特定する余裕はなかった。レカとエリオンが、すでに間合いに入っている。その断裂は、足場にも及んでいた。


 あれほど寄せ付けなかった空間の歪みが、装置の乱れた律動に合わせて、ほんの一瞬ずつ緩む。その隙を、二つの巨影が逃さなかった。


 ガズボが地を蹴った。今度は床が応えた。踏み込んだ足が、確かな手応えを返す。その隣を、神速のジャドワが並走した。二百五十センチと、二百センチ。袂を分かって幾年、思想も生き方も噛み合わなかった兄弟が、いまは肩を並べて、同じ一点へ、タティオンへ、駆けた。


 レカとエリオンが正面から。ガズボとジャドワが側面から。四方から、間合いが詰まる。タティオンの赤い瞳が、その全てを冷たく見渡した。右手が、再び宙を裂く。また、光が溢れた。コピーのゼゴが。コピーのルゥリィが。コピーのリリアが。コピーのレカが。打ち砕かれたそばから、何事もなかったように作り直され、タティオンの前へ並んでいく。従順な娘たちが、無垢な顔で、攻め寄せる者たちへ向き直った。壊れたら作り直す。応じなければ取り替える。何度でも。


 激戦が始まった。

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