六十二 集結
花壇のそばで、ガズボは寝転がっていた。腹の上にゼゴが寝転がり、つんだ花の香りをかいでいる。簡易の巨大ベッドになった彼は、その姿勢のまま、黄色い瞳を閉じていた。
ゼゴの細い体は、ガズボの腹の上で、すっかり力を抜いていた。両脚の断面から伸びたイバラの蔓が、いつもの剣呑な硬さを忘れ、毛皮の上にだらりと垂れている。消すべき動きも、断ち切るべき振動も、今はどこにもなかった。長い緑の髪が、たてがみの茶色に流れ込むように広がり、包帯に覆われた頬が、その腹に預けられている。鼻先で甘く香る花を、ゆっくりと吸い込んでいた。
盲いた赤い瞳は何も映さず、その耳はもう何ひとつ拾わない。それでもゼゴは、皮膚で聴いていた。腹の奥から伝わってくる、大きく、遅い拍動を。傷だらけの神経が、巨大な心臓の一打ち一打ちを、骨の芯まで掬い上げていく。弦の震えだけが安らぎだった少女にとって、その大きな体の奥で鳴る低い響きは、これまで触れたどんな楽器よりも深く、温かかった。動くもの全てを消さなければ得られなかった静けさが、ここには、ただ、あった。誰も殺さずに済む、静寂だった。
周囲に散らばる色とりどりの花弁と、石組みの隙間から伸びる白い花を背にして、二百五十センチの巨体が黄色い光の中に横たわっている。閉じた瞳の裏に、さっき見た映像がまだ沈殿している。シープルの骨。兄の手。泣いた自分の涙が、まだ頬の毛皮に冷たく残っていた。
彼は生まれて初めて穏やかな瞬間を過ごしているのかもしれない。
その時、空気が変わった。深い場所から……ダンジョンそのものの地殻の底から、蒼白い光の圧力が津波のように押し寄せてきた。装置の振動だった。遠い場所でタティオンが起動した装置が、ヨトゴォルの身体に蓄積された全ての記憶を、一気に吐き出させている。
ジャドワがいた。
花壇の向こう側に立っている兄の体が、蒼白い光を全身で受け止めていた。ガズボの閉じた瞼の裏に、映像が灯った。
*
匂いがした。
獣のものだった。何十人もの獣人が密集した場所特有の、体臭と糞尿と干し草と、それから恐怖の匂い。ガズボの鼻腔が知っている匂いだった。体が覚えている匂いだった。三十年以上前に捨ててきたはずの、しかし毛穴の一つ一つに刷り込まれて消えない匂い。
奴隷農場。
木の柵と、泥の地面と、石とレンガの囲い壁。人間の農場主が、獣人を家畜のように飼育している場所。大型の雌が仔を産み、仔は選別される。使えない個体は……処分される。使えるかどうかの基準は人間が決めた。体格。従順さ。牙の大きさ。赤い瞳を持つかどうか。基準は年によって変わった。変わるたびに、仔が死んだ。
映像の中に、幼いジャドワがいた。
まだ百二十センチにも届かない細い体。茶色い毛並みが泥に汚れている。その背中に、もっと小さな体がしがみついている。末弟シープル。ガズボの視点からは顔が見えなかったが、声が聞こえた。
「にいちゃん、おれ、海とか山とか草原とか見てみたいな」
シープルの声は、記憶の奔流の中でも薄く、透き通っていた。弱い体から絞り出される声はいつも掠れていたのに、この言葉だけは妙に澄んでいた。言葉の意味がわかっていたかどうかすら怪しい。海も山も草原も見たことがないのに、どこで知ったのだろう。誰かが教えたのか。それとも柵の向こうの空を見上げて、空の向こうにそういうものがあると、体が知っていたのか。
「ここは、ずっと石とレンガと土くればかりでさ」
幼いジャドワの手が震えていた。シープルの頭に置かれた手が、爪の先まで震えていた。その震えは怒りだった。幼い赤い瞳は、まだ覚醒していなかったが、代わりに憎悪が灯っていた。こんなに幼い体に、こんなに深い怒りが収まるはずがないと、ガズボは思った。収まらなかったから、兄はああなったのだ。
*
映像が裂けた。
奴隷農場の泥の地面が割れ、その亀裂の向こうに、別の光景が覗いた。並行世界の記憶。装置がヨトゴォルの境界面を揺さぶり、「この世界」の記憶だけでなく、並行世界の記憶までが漏出している。
ガズボの瞼の裏に映ったのは、奴隷農場だった。
しかし、中身が違った。
柵の中にいるのは獣人ではなかった。エルフだった。長い耳を持つ細い体が、泥の中に座り込んでいる。鎖に繋がれている。横たわっている。立ち上がれずにいる。そして柵の外に立っているのは……獣人だった。太い腕を組み、エルフの選別を行っている。使える個体と、使えない個体を。使えない個体は……
構造は同じだった。
中身が入れ替わっているだけだった。支配する側と支配される側が入れ替わっただけで、柵の形も、泥の匂いも、仔を選別する基準も、処分の手順も、何一つ変わっていなかった。
ジャドワの赤い瞳が、深く明滅した。
ガズボは兄の横顔を見た。記憶の奔流越しに、黄色い光の中に立つ横顔を。赤い瞳の明滅が止まり、その色が暗く沈んだ。ジャドワは、この場所で知ったのだ。獣人が解放されたところで、構造は変わらない。構造は種族を超えて、世界を超えて、同じ形で繰り返される。柵の中と外が入れ替わるだけだ。
*
青白い光のほん奔流の中、彼らのそばで、ゼゴの赤い瞳が明滅していた。
低く、不規則なリズムだった。ゼゴの体には、シャルトリューズの触手族の腺と神経が移植されている。六年前に埋め込まれ、定着し、進化した触手族の組織が、ゼゴの端子回路をフィルタリングしていた。
シャルトリューズに関連する記憶だけが、優先的に受信されている。
シャルトリューズは、ゼゴを抱いていた。
触手が何本もゼゴの細い体に巻きついている。力は入れていない。壊さないように。しかし絶対に離さないように。ピンクの肌と浅黒い肌が密着し、触手の粘液がゼゴの包帯を濡らしている。ゼゴの盲目の瞳が、何も映さないまま、シャルトリューズの方を向いていた。
記憶の奔流が、ゼゴの端子を通じて、シャルトリューズの周囲の空間に映像を投射した。
シャルトリューズが見たのは……自分だった。
*
触手族の集落。
地下だった。パラクロノスの街の、ずっと下にある地下空間。天井の低い洞穴の中に、ピンク色の体が密集している。大小さまざまな触手族が、粘液の膜で壁面に張り付き、天井からぶら下がり、床面に横たわっている。集落と呼べるほど整然としてはいなかった。群棲という方が近かった。
その中で、一体だけ、他と形が違った。
若いシャルトリューズ。十四か十五の頃だろうか。体の輪郭が他の同年代の個体と微妙に異なっている。触手の数が多すぎた。色が濃すぎた。そして……体表から揮発する液体の密度が、他の個体の何倍にも達していた。
「巫女」と呼ばれていた。
触手族最後の女の生き残り。種族存続の希望。大切に扱われていた。聖なるもののように。周囲の個体が触手を伸ばし、若いシャルトリューズの体を磨き、餌を運び、寝床を整えた。寡黙で、おとなしく、従順だった。今のシャルトリューズからは想像もつかない、沈黙に包まれた少女だった。
そして……不妊が判明した。
映像の中の時間が飛んだ。若いシャルトリューズの前に、触手族の長老たちが集まっている。粘液の匂いが充満した地下空間で、沈黙があった。長い沈黙だった。シャルトリューズの緑の瞳が、長老たちの顔を一つずつ見ていた。
手のひらが返った。
聖なるものとして崇められていた少女が、一瞬で不要品になった。集落全体の空気が変わるのに、何秒もかからなかった。触手が伸びた。シャルトリューズに向けて。さっきまで体を磨いていた触手が、今度は絞め殺すために伸びた。殺すつもりはなかったのかもしれない。追放するつもりだったのかもしれない。しかしシャルトリューズには……区別がつかなかった。
怖かった。
それだけだった。
追い詰められたシャルトリューズの体が、反射的に毒を放った。体表から。触手の先端から。口腔粘膜から。全身の腺が一斉に開き、彼女の人生で初めて、全力の毒霧が噴出した。それは不妊の原因になるほどに強く、他の触手族であっても容易に死に至らしめた。
全員が死んだ。
親が死んだ。兄弟が死んだ。長老が死んだ。集落の全ての触手族が、紫色の毒霧の中で痙攣し、泡を吹き、動かなくなった。殺すつもりはなかった。ただ怖かっただけだ。しかし結果として……触手族最後の生き残りになった。
映像の中の若いシャルトリューズが、死体に囲まれた地下空間の中央に立っている。動いていなかった。触手の一本も動いていなかった。緑の瞳が見開かれたまま、何も見ていなかった。粘液が死体の上に滴り落ちる音だけが、響いていた。
*
シャルトリューズの触手が、ゼゴの体を抱く力を……ほんの僅かだけ、強めた。
記憶の奔流の中で、自分の過去の最も暗い部分を見ながら、腕の中の「娘」を離さなかった。震えていた。触手の先端まで震えていた。しかし離さなかった。
声が漏れた。小さな声だった。大きな声を出せない体から絞り出された、ほとんど吐息のような声だった。
「嫌なもの……全部、溶かしちゃったんだ」
溶かしたのだ。全部。仲間を。故郷を。自分以外の全てを。彼女は孤独だったのだ。この地下空間の、死体に囲まれた十五歳の夜から。
シャルトリューズの触手が、ゼゴの緑の髪を撫でた。ゼゴの盲目の赤い瞳が、微かに揺れた。☠️ャルトリューズの記憶の断片を受信しているのだろうか。それとも……触手の震えが、皮膚を通じて伝わっているだけだろうか。
どちらでも構わなかった。
シャルトリューズは、ゼゴを抱いていた。自分の毒で全てを溶かした女が、自分と同じ毒を体内に持つ少女を、溶かさずに抱いている。
*
アトリエ。
大時計塔の根元にある、石造りの小さな部屋。壁に絵がかかっている。灰色の絵。色のない街の風景画。何十枚も、何百枚も。五十年分の灰色が壁を埋めている。
天井が破れた。
十一歳のレカが落ちてきた。ホワイトゴールドの髪がぐしゃぐしゃに乱れ、赤い瞳が驚きと恐怖でいっぱいに見開かれている。屋根伝いに逃走中に足を滑らせた、と後で聞いた。何から逃げていたかは、聞かなかった。聞く必要がなかった。その体に刻まれた傷跡が全てを語っていた。
何年も前に路上から拾った少女がもう一人いた。エルフの混血。召喚から引き取られた後、三十歳を超えても子供の外見のまま、貴族の屋敷で「愛玩用エルフ」として育てられ、用済みとして捨てられた少女。冒険者ギルドの扉を叩いた日の目は、怯えと覚悟が半々だった。ルゥリィ。その名を呼ぶたびに、エリオンの声は柔らかくなった。
育てた。
二人を。片方は時々アトリエに来て飯を食い、暗殺者の仕事の愚痴を零す十代の娘に育った。もう片方は路上から出発して、冒険者ギルドの金槌級にまで這い上がる戦士に育った。
そして心臓を貫かれた最後の瞬間。出立式。ジャドワのパイクが胸を突き抜けた衝撃。地面に倒れる感覚よりも先に、視界が暗くなった。最後に見えたのは、大時計塔の根元の空。灰色の空だった。いつもと同じ色の空だった。
*
同時に、並行世界の別のエリオンの五十年間が重なった。
よく似た世界。よく似たアトリエ。天井から落ちてきた十一歳のレカ。同じホワイトゴールドの髪、同じ赤い瞳。育てた。愛した。暗殺者になっていくのを見守った。
しかしその世界では……レカがルゥリィに殺された。
夜の路地で。命令で。暗殺ギルドの通達で。ルゥリィが魔法で強化された刃物を振るい、レカが倒れた。並行世界のエリオンはルゥリィを追い、ルゥリィを見つけ、自分の手で殺した。この世界のルゥリィは、エリオンにとって、兄弟子の子でしかなかった。
レカが死んだ夜と同じ闇の中で。
そして、エリオンとタティオンのこの世界での仲は、決定的に決裂した。
二つの五十年が、一人の身体の中で衝突した。
エリオンは、ルゥリィを育て、レカを助け、心臓を貫かれて死んだ。エリオンは、レカを育て、レカを失い、ルゥリィを自分の手で殺した。どちらの世界でも、エリオンは「娘」を失ったのだ。ただ対象が入れ替わっているだけだった。
二つの世界のエリオンが一つになった。どちらかが消えたのではない。どちらかが勝ったのでもない。二つの五十年が一人の男の中に並存している。レカを育てた記憶と、レカを失った記憶が。ルゥリィを育てた記憶と、ルゥリィを殺した記憶が。その全てを背負って、膝をついた小さな体が、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
*
レカとエリオンの間に、無言の了解が成立した。
記憶の奔流の中で、レカは見ていた。ルゥリィの出自を。タティオンの庶子であること。レカと腹違いの姉妹であることを。さっき……装置の引力に引きずられる直前に、映像として目撃していた。
エリオンは、ルゥリィを娘として愛した記憶を統合した。この世界の五十年分と、並行世界の五十年分の、二つの愛が一つの身体の中にある。
二人とも知っている。
しかしここでは言葉にしなかった。装置の引力が全員を一点に収束させている最中だった。壁面の蒼白い光が強度を増し、空気全体がソウツェクの圧力で軋んでいる。言葉にする時間は、後にある。
あるいは……もうないかもしれない。
レカはエリオンの腕を、もう一度掴んだ。離そうと思った手が、離れなかった手が、今度は自分の意志で掴み直した。
*
記憶の奔流が収まり始めた。
蒼白い光の強度が一段上がり、壁面の映像が掻き消された。装置の引力が最終段階に入っている。ダンジョン全体がタティオンの意志に向かって収束していく圧力が、空気そのものを歪めていた。
レカとエリオンは、装置の前に引き戻された。
視界が回転を止めた。蒼白い光に照らされた空間の中央に、装置があった。結晶と金属と、ソウツェクの凝縮体でできた構造物が、低い振動を放っている。その制御面に……タティオンが手を置いていた。焼けた右腕と、無傷の左手。六十六歳の暗殺者の背中は真っ直ぐだった。
引力が、空間そのものを手繰り寄せていた。
花壇と装置を隔てていた通路が、ソウツェクの圧力に押し縮められ、距離が意味を失っていく。離れていたはずの場所が、一つの中心へと畳み込まれていく。
ガズボが身を起こした。腹の上で休んでいたゼゴを、何本もの触手が下から掬い上げる。シャルトリューズが娘の細い体を抱え直し、黄色い光を背にして立ち上がった。ジャドワが、壁面に根を下ろしていた巨体を裂け目から引き剥がす。門番が、留置の場所を離れた。
四つの体が、その中心へ──タティオンの立つ装置へと、引き寄せられていく。
ガズボの咆哮が、正面から響いた。
「オラアアアアアア!!」
二百五十センチの巨体が、装置に向かって突進している。黄色い瞳が見据えているのはタティオンだった。獣の突進。理屈のない、感情のない……いや、感情だけの突進だった。
「テメエがエルフや獣人を奴隷にしなけりゃみんな幸せだったんじゃねえかあ!!」
ジャドワの気配が側面にあった。シャルトリューズがゼゴを抱えたまま、通路の奥からこちらへ向かっていた。
「レカちゃん……色々大変だったみたいね」
蒼白い光の中に踏み込んでいる。触手の先端が微かに燐光を帯びていた。ゼゴの盲目の赤い瞳が、装置の振動に反応して明滅している。
全員が……一つの場所に。
タティオンの意志が創った引力場の中心に。
壁面が最後に一度だけ、深く振動した。足裏から脊椎を伝い、頭蓋の内側に届く振動。ヨトゴォルの身体が、この空間に集結した全ての意志の網の目を……観測していた。
(人間の意志の網の目。その全ての糸が、この一点に集まっている)
レカの赤い瞳がタティオンを見た。エリオンの赤い瞳がタティオンを見た。ガズボの黄色い瞳がタティオンを見た。ジャドワの赤い瞳が装置を見た。シャルトリューズの緑の瞳がゼゴを見た。ゼゴの盲目の赤い瞳が……何も見ずに、全てを感じていた。
七人。
この世界線に残された七つの意志が、タティオンの装置を中心に、収束した。




