六十一 収束する世界
視界が回転した。
壁面の赤黒い色が引き伸ばされ、ソウツェクの蒼白い光の筋に裂かれていく。レカの体は落下しているのか上昇しているのか判別がつかなかった。エリオンの腕を掴んだ手の感触だけが、唯一の方向を示していた。
しかしレカは……離そうとした。その途端、エリオンの手が力強く動き、レカの手首をがっちり掴んだ。
引力が加速した。装置の鼓動が、リミナルダンジョン全体を通して身体中に突き上げてくる。壁面がどくどくと鼓動する音が耳に満ちた。赤い、湿った、生きている壁。それがめくれ上がるように開き、ソウツェクの光が血管のように張り巡らされた巨大な空洞を剥き出しにしていく。
(結節点よ)
ヨトゴォルの振動が、落下し引き寄せられていくレカの身体に届いた。内臓の奥に手を突っ込まれたような圧力。声ではなく、壁面そのものの変動として伝わる情報。
(装置がオマエタチ結節点を媒介にしてソウツェクを集中させている)
レカは歯を食いしばった。引力に抗う手段がなかった。エリオンの腕を掴む力はどこか遠慮がちだが……エリオンの力は強かった。片腕でレカを引き寄せ、もう片方の手で壁面の突起を掴もうとしていた。しかし掴んだ壁面がソウツェクの光脈に弾かれ、指が弾けるように離れた。
(あの強大な意志の力を持つ結節点、タティオンが、装置を通じて余の身体機能を偏らせようとしている)
壁面から放射されるソウツェクの光が密度を増していく。光の束が二人の体を包み、引きずり、加速させていた。レカの赤い瞳が光に反応して明滅した。端子が受信している。送り込まれてくるのは光ではない……情報だった。
(五十年前にユスフが自らを溶かして失敗したこと……身体の内側から構造を変えること……それを、あの男は装置という外部ツールで実行しようとしている)
ヨトゴォルの声は淡々としていた。身体の末端が侵食されていく報告。自動診断。
「五十年前にいったい何があったってんだよ!」
そう口に出すが、誰に届いたかも定かではない。ヨトゴォルにもエリオンにも聞こえなかったかもしれない。レカにはそれ以上のことを考える余裕がなかった。光が、視界の全てを埋め尽くしていた。
その瞬間……壁面から記憶が噴出した。
装置の振動がヨトゴォルの身体に蓄積された全データを揺さぶり、堰が切れた。光の奔流の中に、映像が混入した。レカの赤い瞳が、自動的にそれを受信した。拒む余地はなかった。
*
最初に見えたのは、石段だった。
螺旋を描く石段。灯りのない下降路。壁面から滲むソウツェクの蒼白い光だけが足元を照らしている。今のリミナルダンジョンと同じ……しかし五十年前のソウツェクの光は、はるかに濃く、はるかに温かかった。壁面の色さえ違う。赤黒い腐肉のような今の壁面ではなく、青空のようなすみきった水色。開放の色。生きている色だった。
三人の背中が見えた。
先頭を歩いている男は、大柄だった。広い肩幅。使い古された革の鎧。腰に下げた長剣の柄が松明の光を反射している。振り返った横顔が一瞬だけ見えた。若い。二十二歳。短く刈った黒髪。額の傷。笑っていた。暗い螺旋の石段を降りながら、笑っていたのだ。後ろの二人に向かって、何かを言っている。
「エリオン、タティ、すっげえ場所じゃねえか、ここは!」
ユスフ。先生。勇者存在。
二番目に歩いているのは、少年だった。百五十センチに満たない細い体。銀色の髪。頭巾の隙間から猫の耳が覗いている。狐の尾が歩くたびに揺れていた。赤い瞳ではなかった。深い緑の瞳が、松明の炎を映して揺れている。十七歳。今のエリオンと同じ顔……しかし今のエリオンにはない、怖いもの知らずの光が目の奥にあった。世界がまだ壊れていなかった頃の光。
三番目は、細く高かった。十六歳。痩せた体。長い黒髪を後ろで束ねている。顔が見えた瞬間……レカの心臓が跳ねた。タティオン。十六歳のタティオン。今の面影がすでにある。細い顎。薄い唇。しかし目が違った。赤い瞳……生まれつきの赤い瞳……は同じだった。しかしその奥にあるものが違った。計算がなかった。慈愛の仮面もなかった。代わりにあったのは……恐怖だった。
十六歳のタティオンは、怖がっていた。
石段を踏む足が微かに震えている。先頭のユスフが振り返るたびに、慌てて表情を作り直す。大丈夫です、先生。平気です。そう言おうとして、声が出せない。だから代わりに唇を引き結ぶ。
前を歩くエリオン……いや、十七歳のエリオンが、振り返りもせずに手を伸ばした。後ろに。タティオンの方に。タティオンはその手を見て、一瞬だけ躊躇い……握った。細い指が、先輩弟子の手を掴んだ。エリオンは振り返らなかった。ただ手を引いた。石段を降りていく。三人で。
レカの胸がきしんだ。あの関係性は、もうここにはないのだと。
*
映像が加速した。
最深部。壁面が消え、空間そのものが剥き出しになった場所。ソウツェクの光ではない光……並行世界の全てが同時に透けて見える、名前のない輝き……が三人を包んでいた。情報が流入していた。世界の構造。多元並行の全図。プロタゴニスト世界線とエキストラ世界線。収奪と衰退の構造。タティオンの赤い瞳が……十六歳の震える少年の瞳が……情報を受け取って、見開かれていた。
ユスフが歩み出た。
壁面に……いや、壁面ではない。ヨトゴォルの身体そのものに……手を置いた。掌が沈んでいく。肘まで。肩まで。ユスフの体が溶け始めた。輪郭がぼやけ、肉体が透明になり、ヨトゴォルの身体に浸透していく。自らを供物にして、内側から構造を変えようとしていた。
「先生ッ!」
エリオンの叫びが聞こえた。十七歳の声。掠れて、裂けて、空間に消えていく声。
ユスフは振り返らなかった。振り返れなかったのかもしれない。もう顔が溶けかけていた。しかし最後に……溶けていく口元が……笑ったように見えた。
変わらなかった。
一人の人間が溶けたところで、多元並行世界全体に広がるヨトゴォルの身体は変わらなかった。ユスフの犠牲は……何も変えなかった。何も。
タティオンが立ち尽くしていた。十六歳の少年が、師の消えた場所を見つめていた。赤い瞳が乾いていた。涙を流す段階を通り越していた。
「方法が足りなかっただけだ」
十六歳のタティオンが呟いた。
その言葉が……五十年間の全ての起点だった。
*
映像が途切れた。しかし次の映像が、間を置かずに流れ込んできた。遠征の記憶が終わった瞬間……それに接続するように……帰還後の五十年間が、断片的に、しかし残酷な明瞭さで噴出し始めた。
タティオンがまず何をしたか。
エルフの森だった。夜。松明の列が森の奥に伸びている。暗殺ギルドの黒い装束を纏った男たちが……まだ二十代の、痩せた青年のタティオンに率いられて……森を焼いていた。
鎖に繋がれたエルフの女たちが、パラクロノスの裏通りに連行されていく。長い耳。涙に濡れた顔。サラの姿が見えた。
(ゼゴの、お母さん)
レカは見ただけで分かった。必要な情報はヨトゴォルを通じて流れ込んできた。ここでは過去はそのまま知識になるようだ。九百年を生きた純潔エルフの女は……鎖で繋がれてなお、背筋を伸ばしていた。サラだけではなかった。名前を与えられることすらなかった女たちが、娼館の奥の部屋に消えていく。
レカの息が止まった。
(あーしの……母親も……あの中に……)
*
映像は止まらなかった。タティオンの私邸の庭。子供たちが集められている。先刻思い出したばかりの十歳の記憶。しかし今度はレカの視点ではなく、上から……ヨトゴォルの記憶として……庭の全体像が見えた。子供の数が、レカの記憶よりもはるかに多い。十人。二十人。もっといたかもしれない。レカの記憶にない顔が何人もある。覚えていないのではなかった。覚えられないほど多くの子供が、タティオンの……選別に使われていた。何度も。何度も。レカが勝ち残った回だけではなかった。
レカの口から声にならない声が漏れた。引力に引きずられながら、手が無意識に顔を覆おうとした。しかし片手はエリオンの腕を掴んでいた。離せなかった。もう片方の手が顔に触れた。頬は乾いていた。涙が出なかった。出る余裕がなかった。
*
並行世界の断片が混入し始めた。
装置がヨトゴォルの境界面を揺さぶっているために、「この世界」の記憶だけではなく、隣り合う世界の記憶が漏れ出していた。
レカは見た。
よく似た世界。よく似た街。よく似た貧民街。しかし……そこに立っているのは、レカではなかった。
ホワイトゴールドの髪。赤い瞳。しかし短髪で、革のボディスーツではなく冒険者の軽装を身に纏っている。エルフの混血の女。貴族の屋敷で「愛玩用エルフ」として育てられ、用済みとして路上に捨てられた女。三十歳を超えても子供の外見が抜けきらない体が、人間の血が勝ち始めて急速に変化していた頃。
その女が……冒険者ギルドの扉を叩いていた。
扉が開いた。内側から銀髪の少年が顔を出した。猫耳と狐尾。赤い瞳。エリオンだ。
戸を叩いたのは、ルゥリィだった。
エリオンの口から言葉として聞いた事実が……今、映像として目の前で動いていた。言葉と映像では受け取り方が違った。言語なら意味だけが入ってくる。映像は……全部が入ってくる。ルゥリィの指が扉の縁を掴む力。爪が割れている。裸足の足裏が石畳の冷たさに縮んでいる。エリオンがその足を見た瞬間の……目の奥で何かが動く表情。それは、天井を突き破って落ちてきた十一歳のレカを見た時のエリオンと、全く同じ表情だった。
映像が割れた。
別の断片が流れ込んだ。同じ顔。同じ髪。しかし今度のルゥリィは……暗殺ギルドの裏口に立っていた。革のボディスーツ。短刀。タティオンの手が、ルゥリィの肩に置かれている。レカの代わりに。あるいはレカと入れ替わりに。
さらに別の断片。
暗い路地。月もない夜。暗殺者として育てられたルゥリィが……赤い瞳を持つ、ホワイトゴールドの髪の女を、背後から刺していた。
その女は……レカだった。
冒険者の軽装を着たレカ。ルゥリィの立場に置かれたレカ。エリオンに育てられたレカ。背中から刃物が突き出し、膝が折れ、石畳に顔をつけて……動かなくなっていくレカ。
タティオンの命令で。
レカがルゥリィを殺したのと、完全な鏡像だった。
レカの意識が引き裂かれかけた。映像が重なっている。自分がルゥリィを殺す夜と、ルゥリィが自分を殺す夜。同じ路地。同じ月のない空。同じ刃物の光沢。同じ……背中に届く手の角度。
(これが……並行世界)
言葉にならなかった。あの小さな空洞でエリオンの口から聞いた時、レカは理解したつもりだった。ルゥリィは姉だった。タティオンの庶子だった。レカと同じ。別の世界では配置が逆で、姉が妹を殺した。理解した。理解したはずだった。
しかし「見る」ことは「聞く」こととは違った。
ルゥリィの足裏の汚れ。レカの背中から突き出た刃の反射。冒険者ギルドの扉を叩くルゥリィの……希望に震えた拳。暗殺ギルドの裏口に立つルゥリィの……死んだ目。全てが同時に流れ込んでくる。処理しきれなかった。しかし装置の引力は止まらなかった。映像は流れ続けた。
泣く暇もなかった。
*
一つの情報経路が、エリオンだけに集中した。
レカの端子にはその映像が直接流れ込まなかった。しかしエリオンの腕を掴んだ手を通して……振動として……断片だけが伝わってきた。
ヨトゴォルの身体内部で、この世界のエリオンの遺体が吸収されていた。あらゆる出来事は今や手触りとしてわかる。
(これが、ヨトゴォルが世界を感じる感覚……)
降下の直後に見た遺体。白金の外套。銀髪。猫の耳。貫かれた胸。開いたままの赤い瞳。あの遺体が……ヨトゴォルの神経節に還っていた。ユスフが五十年前に自ら溶けたのと同じ物理法則で。肉体が透明になり、輪郭が溶け、記憶だけが残った。
装置の起動が記憶の再配置を引き起こしていた。吸収されたエリオンの記憶が……堰を切って……並行世界エリオンの身体に流れ込み始めた。
レカはエリオンの腕を掴んだまま、その変化を手のひらで感じた。エリオンの筋肉が痙攣した。指が硬直した。少年の体が弓なりに反った。赤い瞳が見開かれ……その奥で、何かが再配置されていた。
この世界のエリオンの五十年間。アトリエ。灰色の絵の具。テレピン油の匂い。天井を突き破って落ちてきた十一歳のレカ……汚れた顔。擦り傷だらけの腕。赤い瞳がエリオンの赤い瞳と初めて合った瞬間の……あの、怯えた光。ルゥリィを路上から拾い、育て、金槌級にまで鍛えた年月。ルゥリィが「あなたのような存在は絶対に必要です」と言った時の声。出立式の裏手でペンダントを返しかけて「今度でいい」と引っ込めた手。ジャドワのパイクに胸を貫かれた最後の瞬間……視界の端に、広場のレカの顔が映っていた。
光の奔流が密度を増した。装置の引力が、最終段階に近づいている。レカとエリオンの体が加速した。壁面の赤黒い色が完全に消え、ソウツェクの蒼白い光だけが視界を占めた。
記憶の映像はまだ散発的に流れ込んでいた。断片。残滓。遠征の石段を降りる三人の背中。十六歳のタティオンの震える手。ユスフの溶けかけた笑顔。エルフの森を焼く松明の列。鎖に繋がれた女たち。庭で刃物を握らされた子供の手。
全てが同時に存在していた。五十年前と今。この世界と並行世界。加害者と被害者。父と娘。姉と妹。殺す側と殺される側。映像は重なり、混ざり合い、しかし決して一つにはならなかった。一つにならないことが……この世界の構造そのものだった。
ヨトゴォルの振動が、最後にもう一度だけ届いた。
(全ての結節点が、一人の人間の意志に引き寄せられている。人間の意志の関係の網の目……その結節点である赤い瞳の能力者たち……その運命が、一つの場所に収束していく)
レカの赤い瞳が、光の奔流の先に何かを捉えた。タティオンの長身の輪郭。装置の制御面に手を置いたシルエット。その背後に、蒼白い光を放つ装置の骨格が……リミナルダンジョンの神経節に根を張って……脈動していた。
エリオンの手に力が入った。レカの手に力が入った。
二人は引き寄せられていく。タティオンの意志が創った引力場の中心へ。五十年間の全てが収束する一点へ。




