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1994年  作者: 夜空
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9/11

虚しさ

「どこです主任! アフォンソ主任!!」

 頭上の大穴から、ひび割れた拡声器のようなカルロスの悲痛な叫び声が降ってきた。

 ハッチから外のキャットウォークへ逃れたはずのカルロスが、床の崩落音を聞きつけ、安全衛生管理室の  

 窓から室内の暗黒の裂け目へと身を乗り出しているのだ。

「カル、ロス……! 俺は、ここだ……!」

 アフォンソは肺の激痛を堪え、上に向かって声を絞り出した。

「生きてる……! 神様、ありがとうございます! 動けますか!?」

「足は動く! だが床が抜けて上がれない! お前は先に――」

「だめです、置いていきません! 主任、今、SCBAをそっちに落とします! ハーネスのストラップを掴んでください!」

 直後、頭上の闇から、ずっしりとした金属の塊が凄まじい勢いでぶら下がってきた。

 カルロスは、自分が抱えていた重い高圧シリンダーを、強靭な肩ストラップを命綱代わりに握りしめて大穴の底へと吊り下ろしたのだ。

 キィィ、とナイロン製のストラップがカルロスの体重とシリンダーの重みで軋む。

 アフォンソの緊急脱出用呼吸器の残量はもう数分。このガスが充満する暗闇で生き延びるには、あのシリンダーを受け取り、フルフェイスマスクを装着するしかない。

 しかし、二つ下の階層からは「ガチガチガチ」と、大穴を這い上がろうとするドゥアルテたちの不気味な音が、確実にこちらへと近づいていた。

 闇の中で揺れる重いシリンダーに、アフォンソは必死に手を伸ばした。

 指先がナイロンのストラップを捉え、辛うじてその重量をこちらの手に引き寄せる。届いた――。

 だが、安堵の瞬間は訪れなかった。

 直後、部屋の真ん中に開いた大穴から、凄まじい勢いで何かが這い上がってきた。

 ドゥアルテだった。

「が、あ――ッ!」

 大穴から顔を覗かせたドゥアルテの、毛深い腕がアフォンソの腕をがっしりと掴む。凄まじい万力のような握力だった。

 至近距離でアフォンソを見上げるドゥアルテの姿は、見るも無惨に歪んでいた。二つ下の階層へ叩きつけられた衝撃のせいだろう。普通なら上顎にあるはずの歯がすべて根元から叩き折れて消失しており、剥き出しの歯茎から黒い血が溢れている。四肢はあり得ない方向へ折れ曲がり、右腕の手首は綺麗に切り落とされていた。

 奴は耳からドロリとした不気味な黄色い液体を垂らしながら、折れた肘を器用に立てて、執念深く這いずってきたのだ。

「う、あ、あああぁぁッ!」

 アフォンソの口から、恐怖のあまり上擦った金切り声が漏れた。

 狂乱のまま、掴まれた腕を振りほどこうと、ドゥアルテの頭部に向けて夢中でブーツの底を突き出した。

 ドカッ、と鈍い衝撃。

 蹴る度に、グシャリ、ブツリという、全身の力が物理的に抜けるような悍ましい音が足裏から伝わってくる。

 もう、アフォンソの頭には、ヘリデッキで笑い語り合ったあのドゥアルテの面影はなかった。目の前にいるのは、自分を底へと引きずり込もうとする悪夢そのものだ。この怪物を、何としてでも、一刻も早く蹴り落とす。その思考しか頭には残っていなかった。

 二回、三回と、狂ったように顔面を蹴りつける。

 四回目の強烈な蹴りが鼻腔を叩き割った瞬間、ようやくドゥアルテの指から力が抜け、アフォンソの腕が解放された。

 すかさず放った五回目の蹴りで、大穴の縁で堪えていた奴の身体が大きくバランスを崩す。

 そして六回目。ありったけの力を込めてその胸部を踏み抜いた。

 ドゥアルテの身体が、ゆっくりと後方へ傾ぎ、再び暗黒の底へと落ちていく。

「ハァ、ハァ、ハァ……っ」

 落下していくドゥアルテの姿を見下ろした瞬間、アフォンソの心臓が不意に凍りついた。

 奈落へと吸い込まれていくその顔が。

 直前までの狂気に満ちた歪な表情ではなく、まるで、かつての彼に戻ったかのような――許しを請うような、酷く悲しい表情に変わっていたからだ。

「……ドゥ、アルテ……?」

 応えはない。ただ、暗闇の底から再び肉体が激突する虚しい金属音が響くだけだった。胸を掻き毟るような痛みが、アフォンソの 理性を激しく揺さぶった。

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