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1994年  作者: 夜空
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絶体絶命

「ハァ、ハァ……、ハァ……ッ」

 アフォンソは震える手で、カルロスが命がけで下ろしてくれたSCBAのフルフェイスマスクを顔に押し当てた。弁が開き、冷たい高圧空気が肺を満たす。同時に、血の匂いと腐食ガスが遮断された。残量が数分だった緊急脱出用呼吸器を剥ぎ取り、重いシリンダーのハーネスを素早く肩に背負う。

 アフォンソは穴の直ぐそこまで寄り、背中を真っ黒な穴に向けた。少しの間とは言え緊急脱出用呼吸器を外したのだ。

 化け物にならない可能性はないとは限らないので、念には念を入れ、いつでも死ねるように体勢を取った。

 一息つき、アフォンソは頭上の大穴を見上げた。

「カルロス! 外に出ろ、カルロス!」

 声を張ったが、上の階からの返答はなかった。非常灯のわずかな光の中に、先ほどまで身を乗り出していたはずの青年の姿はない。

 ――怖気づいて、逃げたのだ。

 元々カルロスは、リグの荒くれ者たちの中でも一際臆病で、いつも怯えているような男だった。そんな彼が、あの地獄のような安全衛生管理室から呼吸器を三セットも抱え、ここまで自分を助けようと繋ぎ止めてくれたのだ。それだけで奇跡に近かった。

(……俺の命を救ったんだ。今は感謝しないと)

 胸の中で新人に感謝し、アフォンソは思考を巡らせた。ここからどう動くべきか。

 上の階へ這い上がるための足場は完全に崩落している。上に戻るルートは諦めるしかなかった。

 その時だった。

 タタタタタタタタッ!!

 頭上の安全衛生管理室、あるいはこの資材室の外の通路から、複数の「足音」が響いてきた。それも、かなりの速度でこちらに向かって走ってきている。

 先ほどの崩落の轟音と、ドゥアルテを蹴り落とした際のアフォンソの悲鳴を聞きつけ、集まってきたのだ。『あっち側』に行ってしまった、かつての同僚たちが。

「くそっ……!」

 足音は容赦なく近づいてくる。この満身創痍の身体では、今から部屋を飛び出して逃げ切ることは不可能だ。

 アフォンソはバールを握り直し、暗闇の中で周囲を見回した。非常灯の赤い光の端に、備品を収納するための大型のスチール製物入れが視界に入る。

 選択肢は一つしかなかった。アフォンソは痛む身体を引きずり、音を立てないよう細心の注意を払いながら、その物入れの扉を開けて中へと滑り込んだ。

 内側から静かに扉を閉め、完全に視界が閉ざされる。隙間から漏れるわずかな光だけを頼りに、アフォンソは呼吸音さえ殺して身を潜めた。

 スチール製の物入れの中は、オイルと埃の匂いが立ち込めていた。アフォンソはフルフェイスマスクの内側で、肺が痛むほどに呼吸を細く、静かに絞った。

 扉のわずかな隙間に片目を押し当て、外の様子を観察する。

 直後、資材室の入り口に、非常灯の赤黒い影が躍り出た。

 現れたのは、三人の男たちだった。

(……っ!)

 先頭に立つ男の姿が隙間から見えた瞬間、アフォンソの心臓が激しく跳ねた。

 短く刈り込まれた茶髪。そして、眉間にある、嫌でも目につく特徴的な大きな黒子。

 ネイだった。

(おいおい、冗談だろ……。よりによって、あいつまで『あっち側』かよ)

 アフォンソは心の中で激しい悪態をついた。

 だが、ネイの姿はアフォンソの知るそれとは決定的に異なっていた。彼の右手と左手からは、十本の指がすべて根元から消失していたのだ。まるで、何かに一本残らず食いちぎられたか、あるいは自ら毟り取ったかのように。

 ネイは指のない両手をだらりと下げ、フシュー、フシューと、荒い鼻息を室内に響かせた。上を向き、下を向き、まるで獲物の匂いを追う犬のように執拗に周囲の空気を嗅ぎ回っている。

 逃げ場のない沈黙の中、ネイが唐突に動きを止めた。

 そして、妙な行動を取り始めた。

 直立したまま、身体を前後左右に、カクカクと大きく振り始めたのだ。

 最初は、ゆっくりとした奇妙な揺らぎだった。しかし、そのメトロノームのような動きは、秒を追うごとに速度を増していく。

 ネジが狂った機械のように、次第に、早く、激しく。

 ――ガガガガガガガガガガガッ!!

 最終的には、骨が砕け、肉と皮膚がその場で千切れて飛び散るのではないかと思うほどの、常軌を逸した超高速の身震いへと変わっていく。関節が激しく衝突し合う不快な音が、資材室の壁に反響した。

 アフォンソの全身から冷や汗が噴き出す。

 ピタッ、と。

 ブレるほどの残像を残していたネイの身体が、一瞬で制止した。

 その視線――いや、眉間の黒子が、真っ直ぐにアフォンソのいる物入れへと向けられる。

 次の瞬間、ネイが地を蹴った。

 狂ったような速度で、アフォンソの入っている物入れに向かって、一直線に突っ込んでくる。

 身を躱す間も、身構える間もなかった。

 ――ぐしゃりッ!!

 硬いスチール扉のすぐ向こう側で、大量の泥を叩きつけたような、内臓が破裂したかのような不快な質量音が、凄まじい衝撃とともに響き渡った。

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