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1994年  作者: 夜空
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8/11

落下

「カルロス! まだか、早くしろッ!」

 ドガァン! と再び扉が内側に膨らみ、アフォンソの肩骨に凄まじい衝撃が走った。

 ドアの隙間からは、ドゥアルテの「ガチガチガチ」という、激しく歯を打ち鳴らす音がすぐ耳元で聞こえる。指先をへし折るような勢いで、引き裂かれたスチール扉の隙間から、血塗れの黒い手が何本も室内に伸びてきていた。ドゥアルテだけじゃない。外の廊下で襲われていた奴らも、もう『あっち側』へ行ってここに集まりつつあるのだ。

 アフォンソの靴は血と消火粉末の混ざった床でズズッと滑る。もう、一分も持たない。

「う、あ、あった! ありました主任! 三セット、全部あります!」

 暗闇の奥、スチールロッカーを激しくひっくり返す音とともに、カルロスの狂喜に近い声が響いた。ずっしりとした金属製の高圧シリンダーと、フルフェイスマスクが繋がったSCBAのハーネスを、カルロスは両腕に狂ったように抱え込んでいる。

「よし、よくやった! ……カルロス、奥の壁を見ろ。窓があるはずだ。そこからキャットウォークへ出ろ!」

 安全衛生管理室はリグの外壁に面している。

 アフォンソは背中でドアを押し返しながら、部屋の奥の闇を顎で指した。非常灯の赤い光がかすかに差し込む先には、直径五十センチほどの円形の脱出用ハッチがある。

「窓から……? でも、主任はどうするんですか!?」

「いいから先に行け! その重いシリンダーを外のハッチから先に放り出すんだ! 俺もすぐに行く!」

 カルロスは涙を拭う暇もなく、抱えたシリンダーを引きずるようにして丸窓へと飛びついた。中央のレバーを力任せに回すと、湿った海風とガスの混ざった外気が室内に流れ込んでくる。カルロスは言われた通り、命綱であるSCBAのセットを外の通路へと必死に押し出し、自らの身体を狭いハッチの向こうへと滑り込ませた。

「主任! 早く! 早く来てください!」

 外のキャットウォークに出たカルロスの叫び声を確認し、アフォンソは息を呑んだ。

「――しゃあッ!」

 アフォンソは扉を限界まで一度強く押し返し、反動を利用して、ドアから一気に身を翻した。

 直後、抑えを失った鉄扉が文字通り「バキィン!」と音を立てて完全に吹き飛び、ドゥアルテたちの影が暗闇の室内へと雪崩れ込んでくる。

 アフォンソは振り返り、カルロスの所へと全速で床を蹴った。

 あと、わずか三歩。

 その瞬間だった。

 床の底から、聞いたこともない「ギギィッ……」という、極限まで引き絞られた金属の悲鳴が響いた。

 アフォンソの足元――その鋼鉄の床プレートが、自噴による構造全体の歪みと、直前のピエールたちの激突による負荷に耐えかね、溶接部分から一気に剥離した。

「なっ――」

 足場が、唐突に消失する。

 視界が不自然に浮き上がり、アフォンソの身体は、完全に引きちぎられた床の暗黒の裂け目へと、重力に従って真っ逆さまに落ちていった。

***

――ガシャァンッ!!

 強烈な衝撃がアフォンソの背中を打ち抜いた。

 ひっくり返った事務デスクと、書類棚のプラスチックケースが粉々に砕ける音が暗闇に響く。肺の空気が強制的に押し出され、透明なフードの内側が真っ赤な血飛沫で汚れた。

 強烈な痛みに脳が焼き切られそうになったその瞬間、火花のような記憶の断片がアフォンソの視界を過った。

『ふふ、見てアフォンソ。次の休暇はね、この海が見える街へ一緒に行きたいな』

 ルシアの、弾むような明るい声だった。

 遠距離恋愛になる前、まだ二人が同じ時間を共有し、純粋に未来を語り合っていた頃の眩しい光。

 旅行会社のパンフレットを広げて見せてくる、悪戯っぽく、けれど本当に嬉しそうに笑うルシアの柔らかい瞳。その温もりと、心から満たされていたあの時間の記憶が、走馬灯のようにアフォンソの脳裏を駆け抜けていく。

「が……はっ、ル、シア……っ、げほっ!」

 視界が強引に現実に引き戻される。

 フラッシュバックが消え去った後に残ったのは、あまりにも優しすぎた記憶の残像と、赤い非常灯すら届かない完全な暗闇。

 落下したのは、一つ下の階にある予備の「資材保管室」だった。崩落した床プレートごと落ちたアフォンソは、部屋の隅にあった備品に衝突する形で叩きつけられ、奇跡的に命を拾っていたのだ。

 全身の激痛に耐えながらアフォンソが這い起きると、部屋の中央に巨大な「穴」が空いているのが見えた。安全衛生管理室から崩落した重い床プレートは、この部屋の床までも一緒に巻き込んで、さらに底へと踏み抜いていたのだ。

 ガシャァン! と、その穴の遥か底――二つ下の階層から、不快な金属音が遅れて響いてくる。

 アフォンソを追いかけてきたドゥアルテたちは、勢い余ってその大穴へと真っ逆さまに吸い込まれ、二つ下の階まで叩きつけられたのだ。普通の人間の身体なら即死する高さ。だが、その暗黒の底からは、すぐに「カチ、カチ……」という、あの不気味な骨の軋み音が再び湧き上がってきた。

「ハァ、ハァ、ハァ……っ」

 アフォンソは痛む脇腹を押さえ、バールを杖代わりにして手探りで立ち上がった。

 

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