危機
一歩外へ踏み出した瞬間、アフォンソの視界は赤い闇と、それを切り裂く強烈な悲鳴に満たされた。
「……っ、ハ、ハ、ハ――」
後ろを走るカルロスの、緊急脱出用呼吸器の排気弁を通した歪んだ呼吸音が通信インカムから聞こえる。パニックで完全に息が上がっている。この呼吸では十分も持たない。
「カルロス、前だけ見ろ! 息を整えろ!」
アフォンソはバールを右手で握り直し、血のような非常灯が明滅する廊下を走った。
だが、前方から響く音からだけは、どうしても耳を逸らすことができなかった。
肉を断つ音。骨が軋む音。
そして、人が人に対して絶対に上げないはずの、獣じみた低い濁声。
「あ、ああ、う、うあああああッ!」
居住区の分岐通路の陰で、一人の作業員が床に組み伏せられていた。その上に馬乗りになっているのは、オタヴィオだ。
オタヴィオの首は、ガチ、ガチとあり得ない角度に傾いたまま、執拗に床の男の顔面を噛みちぎっている。作業員の悲鳴が、肉の塊を咀嚼する不快な音へと変わっていくのを、アフォンソは走りながら周辺視野で捉えた。
「う、わ、ああ! 主任! ドゥアルテが……ドゥアルテがそこに!」
カルロスが裏返った声を上げる。
廊下の先、個室のドアを素手で殴りつけていた男が、こちらの足音に反応してゆっくりと首を巡らせた。ドゥアルテだ。その顔面は飛び散った返り血で赤黒く染まり、瞳孔は完全に開ききって狂気に濁っている。
「無視しろ! 走れッ!」
アフォンソは速度を上げた。感傷に浸っている暇も、助ける余裕も、敵を排除する武器もない。自分たちの手にあるのは、ドアを壊すためのバールだけだ。
背後で、ガチガチという歯の噛み合う音が、猛烈な勢いでこちらへ近づいてくる。ドゥアルテが四足歩行に近い、生物としてデタラメなフォームで突進してきているのだ。人間の骨格を無視したその速度は、異常という他なかった。
「カルロス、そこだ! どけ!」
ドリルフロアへと続く分厚い防水扉の、わずか数メートル手前。
通路の右側に、緑色の識別ラインが塗装された重いスチール扉が現れた。扉のプレートには『安全衛生管理室』の文字がある。
アフォンソは滑り込むようにしてその扉の前に立ち、背後で恐怖に腰を抜かしかけているカルロスを、自分の体で壁際へと押し込んだ。
「ここだ……! 着いたぞ!」
アフォンソはバールを両手で構え、厳重にロックされているはずの鉄製ドアノブの隙間へと、その鋭利な先端を力任せに突き立てた。
「くそっ、この、硬てえな……!」
アフォンソはバールの平爪をドアノブの台座とドア枠の隙間に力任せに抉り込み、全体重をかけてレバーに引いた。みしみしと不穏な金属音が響くが、鍵のラッチは容易には外れない。
カチ、カチ、カチカチカチカチ
背後から迫る足音が、信じられない速度で廊下の床を叩いている。
振り返ったカルロスの視野に、返り血で濡れたドゥアルテの姿が飛び込んできた。その顎は不自然に外れ、生々しい血と涎を撒き散らしながら、飢えた獣そのものの勢いで飛びかかろうとしている。距離はもう十五メートルもない。
「主任! 来ます、来ちゃうッ!」
「カルロス、壁の消火器を使え! ピンを抜いてノズルを向けろ!」
アフォンソは背中越しに怒鳴り、バールの尻を手の平で激しく叩いた。ガン、と硬質な音が狭い廊下に反響する。
「あ、あああああッ!」
カルロスは半狂乱になりながら、安全衛生管理室のすぐ脇の壁に設置されていた赤いブラケットから、大型の粉末消火器をひったくった。
震える指で黄色い安全ピンを力任せに引き抜き、黒い高圧ホースをドゥアルテの顔面へと向ける。
レバーを、思い切り握りしめた。
シュバアアアアアアアッッ!!
猛烈な圧力とともに、真っ白なリン酸アンモニウムの消火粉末が激しく噴射された。
廊下の一画が一瞬にして視界ゼロの白い闇に包まれる。
「――ガ、あ、あッ!?」
突進してきたドゥアルテの顔面に、高圧の化学粉末が直撃した。いくら痛覚を失った化け物とはいえ、視界を完全に遮られ、微細な粉末が目と鼻の粘膜を強制的に塞いだことで、その凄まじい突進の軌道がわずかにブレた。ドゥアルテは激しく咳き込みながら、デタラメに腕を振り回して白い霧の中で足掻いている。
「ハ、ハ、ハ、ハ……!」
カルロスは涙と汗でフードの中を濡らしながら、狂ったようにホースを振り回し、白い粉を撒き散らし続けた。だが、携帯用消火器の噴射時間は長くてせいぜい十五秒程度だ。ホースの圧力が目に見えて弱まっていく。
「アフォンソ主任! もう出ない、出ないです!」
「おおおおおッッ!!」
アフォンソはバールを限界まで引き絞り、最後は自身のブーツの底でバールの柄を思い切り蹴り抜いた。
ギギィ、ガキィンッ!
激しい金属の破壊音とともに、ついにスチール扉のラッチがねじ切れ、ドアが少し内側へと跳ね返った。
「開いた! カルロス、入れッ!」
アフォンソは消火器を投げ捨てたカルロスの襟首を掴み、こじ開けた扉の隙間へと強引に押し込んだ。自身も滑り込むようにして部屋へと飛び込み、すぐさま振り返って、壊れた鉄扉を背中で力任せに押し閉める。
直後、白い消火粉末の霧を突き抜けてきたドゥアルテの身体が、閉まったばかりの扉に激しく激突した。
スチール製の扉が内側へ向かって大きく歪み、アフォンソの背中に凄まじい衝撃が伝わる。
「う、ぐ……っ!」
アフォンソは歯を食いしばり、足を踏ん張ってドアを体重で抑え込んだ。内側のドアノブはバールで完全に破壊してしまったため、鍵をかけることはできない。今、このドアを支えているのはアフォンソの肉体そのものだけだった。
「カルロス! 早く、奥のロッカーだ! SCBAを探せッ!」
非常灯の赤い光が届かない、暗闇の『安全衛生管理室』の中で、アフォンソの悲鳴のような怒号が響き渡った。




