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1994年  作者: 夜空
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6/11

希望

 アフォンソは思考を強制的に引き剥がし、深く、重い息を吐き出した。透明なビニールフードが、自分の激しい息ですぐに真っ白に曇る。

 今はこの部屋の壁一枚向こうに、人智を超えた不条理が潜んでいるのだ。感傷に浸っている時間など一秒もない。

「……カルロス。泣いてる暇があるなら、その頭を動かせ。シルバ、お前もだ。俺たちは今、何と対峙している? ただの随伴ガスを吸ったなら、脳が急性酸欠を起こしてその場にへたり込むはずだ。十五年この現場を見てきたが、ガス中毒の人間があんな速度で突進してくるエネルギーを残しているわけがない。医学的におかしい、あれは一体――」

「アフォンソ、推測は後だ。今はやめろ」

 シルバが重く、どこか湿った声でそれを遮った。通信士である彼の顔は、非常灯の赤に染まりながらも、見たこともないほど強張っている。

「原因なんてどうでもいい。それより、俺が見たものを聞け。お前たちが来る少し前、俺はこの部屋の覗き窓から外を見ていたんだ。通路の向こうから、ドゥアルテが走ってきた。あいつ、呼吸器をつけずにあのガスをまともに吸い込んじまってたんだ。そして、ピエールと全く同じように、狂った人形のように突進してきた」

「ドゥアルテも……?」

 アフォンソが息を呑む。

「ああ。あいつは廊下で鉢合わせた別の作業員を組み伏せると、獣みたいに首筋に噛みついたんだ。作業員が悲鳴を上げて、血が飛び散った。だが、本当に異常なのはその次だ。噛みつかれた作業員は、最初は激しく抵抗していたのに、ものの数十秒で急に動きを止めた。そして……カチ、カチと不自然に首を曲げて立ち上がると、ドゥアルテと全く同じデタラメな動きで、別の部屋のドアを叩き壊し始めたんだ。ガスを吸った奴だけじゃない、噛みつかれた奴も数秒で同じ化け物になる」

「嘘だろ……」

 カルロスがガタガタと震え出した。

「ガスを吸うだけじゃなくて、噛みつかれても……同じになるっていうんですか!? そんなの、あるわけがない!」

 三人は一瞬、沈黙した。

 ガスの電子警報音だけが、非常灯の赤い闇に虚しく響いている。

「……シルバ、救助船がここに到着するまで、どのくらいかかる?」

 シルバは部屋の隅にある、バックアップ電源でかろうじて点灯している海図を睨み、即座に計算を弾いた。

「幸運だ。ベース基地からちょうどこちらに向かっていた支援船が近くの海域にいる。全速で向かわせたと連絡があった。……『約一時間』だ。一時間で、このリグの真下に船が着く」

「一時間……!」

 カルロスの顔に、パッと希望の光が宿った。

「一時間なら、耐えられる! 部屋のドアを閉めて、ここでじっとしていれば助かるんだ!」

「いや、甘いぞカルロス」

 アフォンソは、手元に抱えていた二つの緊急脱出用呼吸器を床に置いた。自分とカルロスが今被っているものと合わせて、合計四個。

「四個しかないんだよ。一個あたり十五分程度。圧倒的に足りないだ時間が」

 そこまで言って、アフォンソは部屋の天井にある換気口を見上げた。

「それに、陽圧の喪失だ。メイン電源のブラックアウトで空調が死んだ。気圧によるバリアが消えて、この部屋はただのブリキ缶以下になった。さっきの衝撃でドアパッキンも歪んでいる……ここからガスが侵入してくるのは時間の問題だ」

 次の瞬間、シルバの顔がサッと青ざめる。

 部屋の中にいても、あと数分でガスに巻かれる。

 アフォンソは床から予備の呼吸器を一つ拾い上げ、シルバの胸元に叩きつけるように押し付けた。

「シルバ、それを被れ。これで残り少しの時間は稼げるが、一時間には足りん。どうする」

「……待て、アフォンソ。ドリルフロアまで行く必要はないかもしれない」

 シルバが濁った声を上げた。彼は呼吸器を受け取ろうとせず、部屋のデスクの引き出しを乱暴に引き開け、リグの居住区とデッキの構造図面を引っ張り出して床に広げた。

「どういうことだ、シルバ」

「さっきのピエールがいた方向、つまりドリルフロアへ続く防水扉の手前だ。あの通路の右側に、『安全衛生管理室』があるだろ。資材管理の書類で見た。あそこには、消火活動や緊急作業用のSCBAが、まるまる三セット常備されているはずだ」

「安全衛生管理室……!」

 アフォンソの脳裏に、あの赤い廊下の配置が浮かび上がった。

 確かにあそこなら、居住区を出てすぐの場所だ。危険極まりないドリルフロアの真ん中まで突っ込むより、遥かに距離が短い。

「あそこなら、往復しても三分とかからない」

 シルバが図面の点を入れた一画を指で叩いた。

「そこにある三セットのシリンダーを回収できれば、それぞれが三十分、合計で九十分ほどの空気が上乗せされる。手元の予備と合わせれば、船が着く一時間後まで、確実に持ちこたえられる計算だ」

「九十分……!」

 カルロスの声に、今度こそ本物の希望が混ざった。

 アフォンソは床の図面を見つめ、それから個室の重い鉄扉に目をやった。

 シルバの提案は完璧だった。最もリスクが低く、最も生存確率が高いプロの選択だ。

 だが、問題が一つだけある。

「……あの部屋の鍵だ」

 アフォンソは呟いた。

「安全衛生管理室は、普段は盗難防止のために厳重に施錠されているはずだ。マスターキーは、現場主任か安全監督官が持っている。シルバ、お前は持っていないか?」

「俺の部屋にあるのは通信室のバックアップキーだけだ。あそこは開けられない。だが……お前の工具袋に、デッキ作業用の大型のパイプレンチとバールがあるだろ。ドアのノブごとラッチを叩き壊せば、あの手のスチール扉なら一発でこじ開けられるはずだ。手早くやれば一分もかからん」

 シルバの言葉は的確だったが、その声は妙に低く、かすれ、どこか他人事のように冷え切っていた。

 アフォンソが違和感を覚えて顔を上げた、その時だった。

 カチ。

 狭い室内で、骨と関節が不自然に擦れ合うような嫌な音が響いた。

 シルバがゆっくりと立ち上がる。その足取りは、先ほどまでの彼らしい力強さが消え失せ、まるで目に見えない糸で無理やり引きずられているかのように歪んでいた。

「シルバ……?」

 アフォンソの問いかけに、シルバはもう視線を合わせなかった。彼の瞳は焦点を失い、赤い非常灯を反射しながら、アフォンソの遥か後ろの壁をじっと凝視している。半開きになった口元から、粘り気のある涎がツッと一筋、床に垂れた。

「ひ、っ……!」

 カルロスが短い悲鳴を上げて、部屋の隅へと後退する。

「アフォンソ……」

 シルバが、自分の喉をかきむしるようにしながら、掠れた声を絞り出した。それは、彼が人間の理性を繋ぎ止めている、最後の叫びだった。

「お前たちが来る前に……俺は生身で、廊下の空気を吸っちまった。もう駄目だ、自分の中のシステムが書き換わっていくのが分かる。俺の、後ろのポケットに、通信室のキーがある。救助船が来たら、それを使って通信室のログを……陸へ持ち帰れ。何が起きたかを伝えるんだ」

「シルバ、お前……!」

「俺はここに残る!」

 シルバの首が、カチ、と再び奇妙な角度に傾いた。彼は必死に首を振り、自分の頭を拳で殴りつけながら、アフォンソを睨みつけた。

「いいから行け! 俺が完全に『あっち側』へ行っちまったら、お前たち二人を噛み殺すことになる! 俺の体はもう動かねえ……いや、動きすぎちまうんだ。別の何かに、命令されてる……!」

 シルバの指先が、ガチガチと激しく痙攣を始める。その太い指は、すでに自分のデスクの木目を引き裂くほど深く突き立てられていた。

「バールで扉を壊して、シリンダーを取ってこい。……二人で生き残れ、アフォンソ!」

 シルバが最後の理性を振り絞って怒鳴ると同時に、アフォンソは覚悟を決めた。ここで躊躇すれば、シルバの犠牲が無駄になる。そして、自分たちもこの部屋で化け物に変貌するか、ガスに巻かれて死ぬだけだ。

「カルロス、行くぞ!」

 アフォンソは腰のツールベルトから大型のバールを引き抜き、床の予備の呼吸器を鷲掴みにした。

「シルバ……すまない」

 アフォンソは内側の大型レバーを跳ね上げ、鉄扉を勢いよく押し開けた。

 背後で、シルバの喉から「――ぁ」という、言葉にならない音が漏れ聞こえる。

「作戦変更だ。俺たちが目指すのは、すぐ先の安全衛生管理室。シリンダーを三本回収。……行くぞ」

 アフォンソとカルロスは、血のような赤い光に染まった廊下へと再び飛び出した。バールを握るアフォンソの手が、怒りと恐怖で激しく震えていた。




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