表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1994年  作者: 夜空
PR
5/11

狂気

 アフォンソとカルロスは顔を見合わせた。

「行くぞ」

 アフォンソが言った。

 二人はほぼ同時にドアへ向かった。

 ロドリゴの怒鳴り声が廊下の向こうから聞こえる。何を言っているのかまでは聞き取れない。

 アフォンソがドアノブに手を掛けた、その瞬間だった。

 再び衝撃が来た。

 今度は違う。リグ全体が、内側からねじられたように震えた。

「うおっ!」

 カルロスが足を滑らせる。

 アフォンソも壁に肩を打ちつけた。

 どこか遠くで巨大な金属が軋む音がした。

 キィィィィン――。

 耳障りな高音。

 聞いたことのない音だった。

 居住区全体が微かに振動している。

 床の下から伝わる振動ではない。

 リグそのものが悲鳴を上げているような音だった。

「何だ……?」

 カルロスが呟く。

 その直後。部屋のスピーカーから、耳を劈くような高音の電子音が鳴り響いた。

 ガス検知器の作動を告げる緊急警報だ。

『警告、全クルーに告ぐ。ドリルフロアおよびムーンプール周辺で可燃性ガスを検知――』

 合成音声のアナウンスが、ノイズとともに途切れた。

 照明が一度だけ明滅した。

 白い光が消える。

 戻る。

 また消える。

 そして完全に落ちた。

 部屋が闇に沈んだ。

 一拍遅れて、非常灯が赤く点灯する。

 その赤い光の中で、アフォンソは異変に気づいた。

 静かだった。

 異様なほど静かだった。

 いつも聞こえているはずの音がない。

 発電機。

 ポンプ。

 換気装置。

 絶えずリグを満たしている機械の唸り。

 それが消えていた。

 聞こえるのは警報音だけだ。

 甲高い電子音が断続的に鳴り続けている。

 廊下では誰かが叫んでいた。

 足音が走る。

 ドアが乱暴に開閉される。

 だが誰も状況を理解していないようだった。

 アフォンソにも分からなかった。

 十五年働いてきた。

 嵐も見た。

 設備故障も見た。

 小規模なガスキックも経験している。

 だが、これは違った。

 何かがおかしい。

 根本的に。

 説明のつかない何かが起きている。

 その時だった。

 どこか遠くから、低い轟音が聞こえた。

 まるで海の底で雷が鳴ったような音だった。

 ゴォォォォォ――。

 床が微かに震える。

 カルロスの顔から血の気が引いた。

「主任……」

 その声には恐怖が滲んでいた。

 アフォンソは答えなかった。

 答えられなかった。

 なぜなら、自分も同じものを感じていたからだ。

 何かが上がってきている。

 そんな気がした。

 理由はない。

 だが本能がそう告げていた。

 廊下の向こうで、再びロドリゴの怒鳴り声が響いた。

「全員起きろ! ドリルフロアだ!」

 今度ははっきり聞こえた。

 アフォンソは壁に手をつきながら、通路の階段口にある黄色い非常用ボックスを叩き開けた。

 中には、ペトロブラスが近年導入したばかりの、海外製の緊急脱出用呼吸器が並んでいる。透明なビニールフードが付いた最新型だ。

「カルロス、被れ!」

 自分のフードを頭から引き被り、内蔵シリンダーからシューッと空気が供給されるのを確認する。

 続いて、戸惑うカルロスにも呼吸器を押しつけた。

「息を止めるな。ゆっくり吸え」

 カルロスが震える手でフードを被る。

 アフォンソはさらにボックスの中へ手を伸ばした。

 予備の呼吸器を二つ、引きちぎるように掴む。

 ドリルフロアの連中が全員すぐに装備できているとは限らない。

 特にネイだ。あいつは何か起きるたびに真っ先に現場へ走る。

「それ持て」

 アフォンソはもう一つの呼吸器をカルロスへ放った。

 カルロスは慌てて受け取る。

「現場の誰かに渡す。捨てるな」

「は、はい!」

 アフォンソは頷くと、歪んだ個室の鉄扉へ体重をかけた。

 ラッチが外れ、なんとかこじ開けた隙間から、カルロスを伴って居住区の廊下へと飛び出した。

 非常灯の赤い光だけが、長い通路を血のように染めている。

 機械の唸りが消え去った廊下は、不気味なほど音が響いた。二人の足音と、呼吸器の排気弁が刻むシュウ、シュウという単調な金属音だけが闇に溶けていく。

 目指す先には、ドリルフロアへと繋がる重い防水扉があるはずだった。

 だが、その数十メートル手前、十字に交わる通路の真ん中に、誰かが立っていた。

 作業服の背中に書かれた名前が見える。

 ピエールだった。

 フランスから派遣されてきている、衒学的だが優秀な技術者だ。

「ピエール!」

 アフォンソはフード越しに声をかけた。

 ロドリゴの怒鳴り声を聞いて、彼も防水扉を開けて現場へ向かおうとしているのだと思った。

 ピエールは動きを止めた。

 糸を切られた操り人形のような、唐突な静止だった。

 経済的で、無機質なその動きのまま、ゆっくりと振り向いた。

 二人は、その顔を見て息を呑んだ。

 ピエールの顔は血まみれだった。どこかを強打したのか、あるいは自らむしり取ったのか、額から流れた赤黒い筋が顎まで達している。

 だが、それ以上に異様だったのは「目」だ。

 非常灯の赤い光を反射するその瞳は、完全に焦点が合っていなかった。アフォンソたちを見ているようで、その遥か後ろの虚空を凝視しているようでもある。

 半開きになった口からは、粘り気のある涎が引きも切らずに垂れ、服の胸元を汚していた。

 ガス中毒か。あるいは頭部の重傷による錯乱か。

 アフォンソがそう判断し、一歩足を踏み出そうとした、その瞬間。

 ピエールの視線が、不自然に固まった。

 二人を、明確に捉えた。

「――ぁ」

 ピエールの喉から、言葉にならない音が漏れた。

 次の瞬間、彼は突進してきた。

 その走り方は、人間のそれではなかった。

 関節の動かし方を忘れたかのように、両腕を無造作に、デタラメに振り回している。まるで、見えない何者かに無理やり引きずられている死体のようだった。それでいて、速度だけが異常に速い。

 鉄板を激しく踏み鳴らす、狂った足音が狭い廊下に反響する。

「ひ、っ……!」

 カルロスが短い悲鳴を上げた。

 アフォンソの本能が、プロとしての経験すべてをなぎ倒して「逃げろ」と叫んでいた。

 理屈もクソもない。唯一の出口である防水扉の前に立ちはだかるそれは、もう自分が知っているピエールではなかった。

「走れ!」

 アフォンソはカルロスの腕を乱暴に掴むと、ドリルフロアとは反対側、居住区の奥へと引き返した。

 背後から、鉄板を激しく打ち鳴らすデタラメな足音が迫ってくる。狂ったように振り回される両腕が、通路の壁のパイプや消火器にぶつかり、ガシャン、ガシャンと凄まじい音を立てていた。その音が、すぐ後ろまで迫っていると分かる。

 アフォンソはカルロスの腕を引いて傾く廊下を走りながら、必死に頭を回転させた。

 居住区の奥へ逃げても、行き止まりになれば終わりだ。どこかの個室に入り、ピエールを遮断するしかない。だが、どの部屋の鍵が確実に閉まるか――。

 その時、前方の暗闇から、バタンとドアが開く音がした。

 赤い非常灯の光の中に、一人の男のシルエットが浮かび上がる。

「アフォンソ! カルロス! こっちだ、早くしろ!」

 シルバだった。

 頼りになる男のその声に、アフォンソは残る力を振り絞って足を動かした。

「シルバ、閉めろ! 後ろからピエールが来てる!」

 アフォンソは叫びながら、カルロスをシルバの部屋の中へと突き飛ばした。シルバが太い腕で二人の服を掴み、室内に引きずり込む。アフォンソが滑り込むのとほぼ同時に、シルバが重いスチール製の扉を渾身の力で叩きつけた。

 バタン! と激しい金属音が響く。

 すかさずシルバが内側の大型レバーを全力で引き下げ、デッドボルトを噛み合わせた。ガチリ、と重い金属音がして、ドアが完全に施錠される。

 その、わずか一秒後だった。

 ドンッ!!

 扉の外側から、凄まじい衝撃が走った。ピエールが速度を落とさずに、そのままドアに激突したのだ。スチール製の扉がビキィッと嫌な音を立てて震える。

「う、わあぁッ!」

 カルロスが床を這いずりながら部屋の隅へと後退した。

 シルバとアフォンソは背中でドアをぶ厚い壁のように抑え込んだ。呼吸器の透明なフードが、自分の激しい息ですぐに真っ白に曇る。

 外からは、ガリガリ、ガリガリと、爪で鉄板を引っ掻くような不快な高音が聞こえていた。それから、狂ったようにノブを何度も何度も激しくガチャガチャと回す音。

 アフォンソは息を殺し、ドアの小さな覗き窓から外の様子を窺った。

 赤い非常灯の下、ピエールがいた。

 彼はドアに顔を信じられない強さで押し付け、ガラス越しに室内を覗き込もうとしていた。鼻が不自然にひしゃげ、ガラスにべっとりと血と涎が擦り付けられる。

 その目は、ガラスのすぐ向こうにいるアフォンソを見ていなかった。虚空を凝視したまま、ただ機械的にドアを開けようと指を血だらけにしながら爪を立てている。

「……ピエール、どうしちまったんだ」

 ドアを抑えるシルバが、低い声を震わせた。浅黒い顔から血の気が引いている。

 やがて、外のガチャガチャという音が、ピタリと止んだ。

 ピエールは動きを止め、ゆっくりと首を傾げた。人間の可動域を超えた角度まで、カチ、カチと不自然に首が曲がっていく。

 そして。

 ピエールは、アフォンソたちのいる部屋に背を向けると、再びあの操り人形のようなデタラメな足音を響かせ、廊下の闇の向こうへと走り去っていった。

 足音が完全に遠ざかり、再び部屋に「異様な静けさ」が戻ってくる。

 アフォンソはドアから背中を離し、ずるずると床にへたり込んだ。

 ガスの警報音だけが、部屋のスピーカーから小さく鳴り続けている。

「助かった、シルバ……。よくドアを開けてくれた」

 アフォンソが吐き出すように言うと、シルバは無線機のインジケーターを見つめたまま、硬い声で答えた。

「ロドリゴの怒鳴り声とガス警報で飛び起きたんだ。メイン電源が落ちたから、すぐに非常用バッテリーに切り替えて陸に緊急通信を入れた。……救助は呼んだよ。遭難信号を受理したと返答があった」

「陸はなんて?」

「支援船をこちらに向かわせるそうだ。だが、ヘリを飛ばすにしても、このガス濃度じゃリグへの着陸は不可能だ。……それよりアフォンソ、一体何が起きてるんだ。リグのエンジンが全部止まった。キックか?」

 シルバの問いに、アフォンソは答えられなかった。

 十五年の経験から言えば、これは間違いなく深刻なキックだ。だが、そのガスを吸ったであろうピエールのあの姿は、どんな掘削事故のデータにも存在しない。

「主任……ピエール、あれ、ガス中毒なんかじゃ……ないですよね……?」

 部屋の隅で、カルロスが泣き出しそうな声で髪をかきむしる。

 アフォンソは震える手で、首にかけた呼吸器の予備を強く握りしめた。ルシアのことが、最悪のイメージとともに脳裏をよぎっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ