揺れ
七月二十日
夕食の時間が終わると、セラ・ド・マール号は少しだけ人間らしくなる。
昼間のリグは機械だ。パイプの軋む音、ポンプの低い唸り、ドリルストリングが地底を噛み砕く振動——それらが重なって、リグ全体がひとつの巨大な生き物のように呼吸している。その中で働く男たちも、機械の一部として動く。手信号、数値、報告。余分な言葉は要らない。
だが夕食後は違う。
食堂のテーブルには誰かが忘れていったトランプが一組放置されており、娯楽室のテレビからはブラジルのバラエティ番組の笑い声が漏れてくる。W杯が終わって三日が経ち、祝祭の熱はまだ完全には冷めていない。廊下のあちこちに国旗の切れ端が貼られたまま、誰も剥がそうとしない。
アフォンソは食堂の隅のテーブルに座って、コーヒーを飲んでいた。
*
最初に騒ぎが起きたのは、食堂だった。
原因はネイだった。いや、正確にはネイのサンドイッチだった。
ドゥアルテが今夜の夕食の残りとして出してくれた食パンと缶詰のツナ、それからデッキ作業員のパウロがどこからか持ってきたペースト状の何かを組み合わせて、ネイは自作のサンドイッチを完成させた。
パウロは向かいの席で、やけに機嫌が良さそうだった。
ネイが一口かじる。
パウロの口元が少し緩んだ。
ネイは気づかない。
二口目。
パウロはちらりと隣のシルバを見た。
「なあ」
身を乗り出し、何かを耳打ちする。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、シルバが顔を背けた。
シルバの肩が震えている。
ネイが首を傾けながらシルバに尋ねる。
「なにかありました?」
「いや……何でもない」
シルバはそう言いながらも笑いを堪えきれていなかった。
今度はシルバがセバスティアンへ耳打ちする。
セバスティアンの表情が崩れた。
さらにイゴールへ。
イゴールはテーブルに肘をつき、額を押さえた。
笑いは静かに伝染していった。
数分後には、食堂の半分近くが理由もなくニヤニヤしていた。
ネイだけが事情を知らない。
「……何ですか?」
誰も答えない。
「いや、別に」
カルロスが言った。
「そうそう」
セバスティアンも頷く。
だが二人とも笑っている。
ネイは手元のサンドイッチを見た。
そして周囲を見回した。
「何か入ってます?」
「入ってるな」
パウロが真顔で言った。
「何がですか」
「愛情」
食堂のあちこちで肩が震えた。
「絶対違いますよね」
「気にするな」
イゴールが言った。
「皆さん顔が変です」
「変じゃない」
シルバが即答した。
その声が少し裏返った。
ネイは疑わしそうな顔をしたが、とりあえずもう一口かじった。
その瞬間、パウロが再び吹き出しそうになり、テーブルに額を押しつけた。
「だから何なんですか」
「いつか話す」
「嫌な予感しかきません」
だがネイは結局、最後まで食べた。
その夜の食堂で、いちばん楽しそうだったのはパウロだった。
*
娯楽室では、カルロスとオタヴィオがチェスをしていた。
正確にはチェスを「しようとしていた」。
問題はオタヴィオがチェスのルールを半分しか知らないことだった。厳密に言えば、駒の動かし方は全部知っているが、ポーンのアンパッサンだけが理解できない、という状態だった。そしてカルロスが今、三度目の説明をしているところだった。
「だからこのポーンが二マス進んだとき、隣にいる相手のポーンは——」
「斜めに取れる」
「聞けよ。その二マス進んだポーンを、一マスしか進まなかった場合と同じ扱いで——」
「斜めに取れる」
「……そうだが、条件があって——」
「カルロス」とオタヴィオが言った。「俺は一生アンパッサンを使わないと思う。だから次の手を指してくれ」
カルロスは三秒間、天井を見上げた。それからナイトを動かした。
「チェック」
「えっ」
オタヴィオは盤面を見つめ、自分のキングの周囲を指で辿り、逃げ場がないことを確認した。
「……俺の負けか」
「そうだ」
「もう一回」
「アンパッサンを覚えてから言え」
「それとこれは関係ない」
二人のやり取りを横で見ていたイゴールが、ソファから立ち上がってカルロスの隣に座った。
「俺が教えてやる」とイゴールはオタヴィオに言った。
「ありがとう」
「アンパッサンというのはな——」
「斜めに取れる」
イゴールも三秒間、天井を見上げた。
「……いや、だから条件が」
「違うのか」
*
アフォンソは食堂を出て、廊下を歩いた。
医務室の前を通ると、ドアが少し開いていて、中から薬品の匂いと、かすかな音楽が漏れていた。 静かなボサノバだった。
アフォンソは立ち止まった。
ルシアがカルテの山と向き合って、小さなデスクに座っていた。紺色のカバーオールの上から、薄い水色のカーディガンを羽織っている。鉛筆を持ったまま、何かを読み込んでいる。音楽に合わせて、右足が微かにリズムを刻んでいた。本人は気づいていないようだった。
アフォンソはそのまま廊下を歩き続けた。
ルシアはロドリゴの恋人だ。三年前、そうなったらしい。それ以上でも以下でもない。アフォンソはそう思っている。皆、そう思っているが、医務室の前では毎回、俺の足が一瞬だけ余分に重くなる。それだけのことだ。
廊下の突き当たりにある給茶コーナーで、アフォンソは金属製のサーバーからプラスチックのコップにコーヒーを注いだ。濃い、苦い、いつものリグのコーヒーだ。
アフォンソはコップを持って、外部デッキへ出た。
*
空に星はなかった。厚い雲が空を覆い、水平線との境界が曖昧になっている。リグの作業灯が海面を照らしているが、その光もすぐに暗闇に飲み込まれる。波は穏やかだ。昨日よりほんのわずかうねりが増した気がするが、作業に支障が出るほどではない。
ハロルドがデッキの手すりに寄りかかって、海を眺めていた。
「眠れないのか」とアフォンソはポルトガル語で言った。
ハロルドは振り返り、英語で答えた。「眠れない夜は星を数える。今夜は星がないから、波を数えてる」
「何個数えた」
「三つ」
「少ないな」
「波を数えるより、波に数えられてる気がしてきた」
アフォンソはよくわからなかったが、笑った。ハロルドも笑った。テキサスの男は、詩人のようなことを言うことがある。
「今日のフックロード、ロドリゴから聞いたか」
「聞いた」とアフォンソは言った。「ヨハンの気泡も」
「そうか」
二人はしばらく黙って海を見た。遠くでリグの機材が低く唸っている。掘削は今夜も止まらない。海の下、千二百メートルの暗闇の底で、ドリルストリングが今も地層を噛み砕いている。
「俺はこの仕事を三十年やってる」とハロルドは言った。「テキサス湾岸からアラスカ、北海、今はここだ。リグというのはな、アフォンソ、機嫌が悪くなる前に必ず何かを言う。音だったり、数字だったり、匂いだったりする。問題は、それがリグの言葉だと気づかずに聞き流す奴が多いことだ」
「聞き流した場合は?」
「たいていは何でもない。ただの気まぐれだ」
「たいていは」
「ああ」とハロルドは言った。「たいていは」
ため息が、風に溶けていった。
*
娯楽室では、チェスはいつの間にかトランプに変わっていた。
テーブルを囲んでいるのは、カルロス、オタヴィオ、イゴール、ネイ、セバスティアン、パウロ。そこに通信士のシルバと夜間警備のカウアンも加わって、総勢八名の大所帯になっていた。カウアンは巡回の合間に顔を出したらしく、作業ベルトをつけたまま椅子に座っている。シルバは「陸の本社に報告が終わった」と言いながら滑り込んできた。
ゲームはポーカーだった。賭けているのは金ではなく、明日の皿洗い当番だ。チップの代わりに、プラスチックのボトルキャップが使われている。
そこへ、もう一人が入ってきた。
フランス人の地質学者、ピエールだった。
「輪に入れてもらえるかね」とピエールは流暢なポルトガル語で言った。いつもより機嫌がよさそうだった。手には自分のコーヒーカップを持っている。
「ピエールさん、ポーカー知ってるんですか」とネイが言った。
「もちろん。そもそも、ポーカーとは十六世紀のフランスで生まれたポックを起源とするカード遊びではないかと言われ——」
「わかりました、座ってください」とカルロスが遮った。
ピエールは満足そうに椅子を引いた。
最初の数ゲームは、特に何も起きなかった。ネイが強気にレイズして手を開けると二ペアしかなく笑われ、シルバが「俺は読める、絶対に読める」と言い続けながら三連敗し、カウアンが「運命は俺に味方している」と言いながら負けた。
変化が起きたのは、三ゲーム目あたりからだ。
ピエールが、勝ち始めた。
最初は偶然に見えた。次も偶然に見えた。三度目になると、カルロスが少し眉を寄せた。四度目になると、チアゴが黙ってピエールの手元を見た。
チアゴは今夜、ほとんど喋っていなかった。リグ歴二十年の男は、娯楽室でも寡補だ。笑うときは笑うが、騒がない。ただ静かに座って、コーヒーを飲んで、カードを出す。その目が、六ゲーム目のあいだじゅう、 ピエールがシャッフルするときの指先を追っていた。
「ピエールさん」とチアゴが静かに言った。
「なんだね」
「そのシャッフル、混ざってないな」
一瞬、テーブルが静かになった。
ピエールは動じなかった。コーヒーカップをテーブルに置き、背もたれに体を預け、穏やかな顔でチアゴを見た。
「ほう」とピエールは言った。「気づいたか」
「最初から気づいた」
「では最初から言えばよかったのでは」
「どこまでやるか見たかった」
また沈黙があった。
「ピエールさん」とネイが恐る恐る口を開いた。「イカサマしてたんですか」
「イカサマという言葉は品がない」とピエールは言った。「教育、と言ってほしい」
「意味がわかりません」
「イカサマは結果のためにルールを歪める。私がやっていたのは君たちが騙されないように教育をしようという善意でやっただけだよ。あ、ちなみに——」ピエールは人差し指を立てた。「シャッフルの際に見た目は完全に混ぜているように見せながら、特定のカードの位置を意図的に固定する技法だ。フォルスシャッフルと呼ばれる。完全に混ざっているように見えて、混ざっていない。フランスの賭博師の世界では古くから使われている技法で、どれくらい凄いのかと言うと、習得にはなんと——」
「ピエール」とドゥアルテが調理場の入り口から顔を出した。いつのまにか来ていたらしい。「誰も聞いてない」
「いや、聞いていると思うが」
「聞いてない」
「チアゴは興味があるはずだ」
全員がチアゴを見た。チアゴは無表情のまま首を横に振った。
「聞いてない」
「なら」とピエールは少し考えて、「聞くべきである、素晴らしい話をしよう。そもそもカードの技法の歴史は古く、ローマ時代の——」
「ピエール」とドゥアルテが再び言った。「コーヒーのお代わりを持ってくる。その間に話をやめろ」
「親切だな」
娯楽室がどっと笑った。ピエールは少しも傷ついた様子を見せず、むしろ満足そうに笑った。自分が笑われているのか、笑いを生んでいるのか、その区別が彼にはあまりないようだった。
チアゴがカードを全部回収して、新しいゲームのために配り直した。
「ピエールさんは今度からシャッフルさせない」とカルロスが言った。
「賢明な判断だ」とピエールは言った。「だが配られるのは許可してくれるね」
「……まあ」
その後のゲームは、淡々と続いた。特に面白いこともなく、一ゲームずつ積み上がっていった。最後のゲームが終わったとき、皿洗い当番はネイ、シルバ、ピエールの三人になっていた。一番勝ったのは、チアゴだった。
翌朝、ドゥアルテが調理場の引き出しから、使い込まれた一組のカードを見つけた。どこにも傷はなく、印もなく、ただ少しだけ手垢で艶が出ていた。それがチアゴのカードだということは、誰も知らなかった。
*
夜の十時を過ぎた頃、ヨハンが娯楽室の入り口に現れた。
珍しいことだった。ヨハンは基本的に娯楽室には来ない。ノルウェー人は陽気な集団の中では少し距離を置く傾向がある、とアフォンソは経験から思っている。それが悪いわけではない。
「なんか飲むか」とアフォンソが英語で声をかけた。
「コーヒーがあれば」
アフォンソはヨハンに厚手のプラスチック製マグを渡した。ヨハンは一口飲んで、微かに眉をひそめた。
「苦いな」
「慣れる」
「三ヶ月経っても慣れない」
「もう少しかかる」
ヨハンはテーブルのポーカーゲームを眺めた。ネイがまた強気にレイズして、カルロスに手を確認されようとして拒否し、口論になっていた。
「何を揉めているんだ」とヨハンが聞いた。
「ポーカーだ。ネイが毎回見栄を張る」
「チェスの方がわかりやすいな」
「オタヴィオにアンパッサンを教えてみろ」
ヨハンは少し考えた。「……パス」
アフォンソは笑った。ヨハンも、わずかに口の端が上がった。
ヨハンはしばらくコーヒーを飲みながら、ゲームの喧騒を眺めていた。大きなガラス水槽の外から魚を眺めているような顔をしていた。
「モニターのその後の数値はどうだ」とアフォンソは小声で聞いた。
「変化なし」とヨハンは同じく小声で答えた。「気泡の量は増えていない。位置も変わっていない」
「そうか」
「ただ」
「ただ?」
ヨハンはマグの縁を指でなぞった。「ROVの地層探査ソナーが、坑口の周囲、海底面から三十メートルほどの地下に、昨日まではなかった微細な亀裂のようなものを捉えている。映像では確認できない。ソナーのデータだけだ」
「ロドリゴには」
「今日の午後に伝えた。精査中だと言っていた」
アフォンソは何も言わなかった。娯楽室の喧騒が、少し遠く聞こえた。
「報告書に書いておく」とヨハンは言った。「それだけのことだ。今のところは」
「そうだな」
ヨハンは残りのコーヒーを飲み干し、マグをカウンターの返却ラックに置いた。きねいに収まった。
「おやすみ」とヨハンは言って、娯楽室を出た。
アフォンソはしばらくラックの上のマグを見つめていた。
*
十一時が近くなると、娯楽室の人数が減ってきた。
シルバが「明日の定時連絡がある」と言って立ち上がり、カウアンが「さすがにそろそろ巡回しないとまずい」と言ってようやく腰を上げた。ピエールは「フランスのカード技法についてまだ話が途中だが」と言いながら、ドゥアルテに背中を押されるようにして出ていった。
残ったのはネイとパウロとセバスティアンの三人で、彼らはトランプをやめて、ブラジルのワールドカップについての激論を始めていた。
「ロマーリオがいなければ勝てなかった試合です」とネイは言った。
「ベベットがいなければもっと無理だ」とパウロが言った。
「二人いたから勝ったんだろ。どっちも凄いでいいだろ」とセバスティアンが言った。
「そういう話じゃない」とネイが言った。
「じゃあどういう話だ」とセバスティアンが言った。
「誰が一番すごいかという話だ」
「それを決めることに何の意味がある」
「意味がないから話すんだ」
アフォンソはそのやり取りを聞きながら、席を立った。
「もう寝る」
「お疲れ様です、主任」とネイが言った。「俺たちももうすぐ」
「急がなくていい。明日の朝礼には来い」
「もちろんです」
廊下に出ると、リグの低い振動が足の裏から伝わってくる。掘削は止まらない。地底の奥で、ドリルビットが今も地層を砕き続けている。
アフォンソは居住区へ向かいながら、今日一日を思い返した。フックロードのブレ。海底の気泡。ヨハンが言った亀裂。ハロルドの言葉。——リグというのは、機嫌が悪くなる前に必ず何かを言う。
だが今夜のリグは静かだった。穏やかだった。娯楽室では男たちが笑っていた。ピエールが誰も求めていない技法の講釈を垂れた。チアゴが静かに全員を負かした。ネイが三ヶ月前のペーストを平然と食べた。医務室ではルシアがボサノバに合わせて足を揺らしていた。デッキではハロルドが波を数えていた。ヨハンが正確にマグを戻していった。
アフォンソは扉を開け、居住区に入った。
カルロスはすでにベッドに入っており、低い寝息を立てていた。アフォンソは静かに作業着を脱ぎ、上段のベッドに上がった。薄い毛布を引き上げ、目を閉じた。
リグの振動が、眠りを誘う。
波のうねりが、ほんの少し大きくなった気がした。気のせいかもしれない。
アフォンソは目を閉じたまま、呼吸を整えた。
眠りが来る、その直前——。
*
セラ・ド・マール号が、揺れた。
揺れ、という言葉では足りない。
リグ全体が、まるで巨大な何かに下から殴りつけられたように、垂直に跳ね上がった。アフォンソは上段 ベッドから床に叩き落とされた。カルロスが叫んだ。
部屋の棚から金属の水筒が転がり落ち、壁に激突した。非常灯が点灯し、廊下から怒号と驚きの声が重なって聞こえてきた。
揺れは三秒、あるいは五秒——体感では数十秒に感じた——続いた後、ぴたりと止まった。
嵐ではない。波ではない。
アフォンソは床に手をついたまま、頭を上げた。非常灯の赤い光が廊下に広がっている。カルロスがベッドから降りて、半分眠った目でアフォンソを見ていた。
「今の揺れは何だ?」とカルロスが言った。
アフォンソは何も言わなかった。
海底では、何も起きないはずだった。
起きるはずのないことが、起きた。
廊下の向こうから、ロドリゴの声が聞こえた。険しく、鋭く、急いでいた。




