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1994年  作者: 夜空
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3/11

違和感


 七月十九日の朝も、大西洋は静かだった。

 居住棟の廊下は、昨日と同じ時間帯に同じ静けさを保っていた。夜勤明けの足音、シャワー室の水音、どこかの部屋から漏れてくる寝息。リグの朝は、いつも同じように始まる。W杯(ワールドカップ)の興奮は、すでに日常の層の下に沈みつつあった。壁のブラジル国旗の切り抜きも、昨日より少し端が剥がれている。

 アフォンソ・モレイラは作業着のファスナーを上げながら、食堂へ向かって歩いていた。

 角を曲がったとき、向こうから歩いてくる人影に気づいた。難燃性の白い医務室用カバーオール。黒髪。少し癖のある、耳の下あたりで束ねた髪。

 ルシアだった。

 一瞬、足が止まりそうになった。止まらなかったのは、止まれば負けだという、根拠のない意地があったからだ。アフォンソはそのまま歩き続けた。ルシアも歩いてくる。廊下の幅は二人がすれ違えるだけの余裕しかない。

「おはよう」

 すれ違いざま、ルシアが短く声をかけてきた。

 アフォンソは視線を正面に向けたまま、「ああ」とだけ返した。酷く愛想の無い返答だと思ったが、それ以上の言葉を選べなかった。

 ルシアは立ち止まらず、そのまま居住区の奥へと歩き去っていく。すれ違う瞬間、彼女の髪から微かに漂った石鹸の匂いが、アフォンソの鼻腔をかすめて消えた。ただそれだけのことなのに、アフォンソの胸の奥には、冷たい未練の残火がパチパチとはぜるような感覚が残った。それがいつからこうなったのか、アフォンソには正確にはわからない。

 食堂の手前で立ち止まり、壁に背を預けた。頭の中がひどく静かだった。

 扉の隙間から、ブラジル人の朝食に欠かせない、焼き立てのパォン・デ・ケイジョの香ばしい匂いが漂ってくる。だが、アフォンソの鼻腔には、それがどうしても昨日ムーンプールで嗅いだ、あの別の何かの臭いに思えてならなかった。

 午前七時の朝礼で、チーフエンジニアのロドリゴがセンサー点検の結果を報告した。

「異常なし」

 ロドリゴはクリップボードの数字を示しながら、淡々と続けた。

「デリック上のフックロードセンサーも、ポンプ室の計測系も、すべて規格内だ。電気的な接触不良も見られない。機器としては完全に正常だ」

 アフォンソは腕を組んだまま、黙って聞いていた。

「つまり」とロドリゴは論理的に続けた。「これまでのブレは、地層の変化によるものと考えるのが妥当だ。深度が増すにつれて岩盤の性質が変わるのは想定の範囲内だ。OIM(洋上掘削総責任者)のウィリアムズにも報告したが、予定通り掘削継続の判断が下りた」

「海底の気泡はどう説明する」

「ヨハンの記録を見た。増加傾向ではあるが、量は依然として許容範囲内だ。BOP(噴出防止装置)のガス滲みとは考えにくい。地層割れ目からの自然なガス抜けとして処理する」

 クルーの何人かが、安堵したような顔をした。ドリラーのカルロスは「やっぱり機器のノイズだったんですかね」と軽い口調で言い、フロアマンの一人が「そりゃそうですよ、このセラ・ド・マール号はまだ新しいし」と同意した。

 アフォンソは何も言わなかった。

 朝礼が終わり、クルーがそれぞれの配置へ散っていく中で、ロドリゴがアフォンソの隣に残った。

「納得してないか」とロドリゴが静かに言った。

「データは正常だ」とアフォンソは答えた。「それはわかる」

「だが」

「ああ」

 二人はしばらく黙って立っていた。機材室の天井から、居住区を陽圧に保つための換気扇の回る音が重低音となって聞こえる。

「センサーが正常なら、数値は正しい」とロドリゴは言った。「正しい数値が誤差の範囲内なら、何万ドルのコストをかけて現場を止める根拠にはならない。それがルールだ」

「わかってる」

「お前の勘は信頼してる。だが勘だけでは動けない」

 アフォンソはロドリゴを見た。ロドリゴも真っ直ぐに返してきた。申し訳なさでも、言い訳でもない。ただ、エンジニアとしての誠実さだった。それがわかるから、アフォンソはそれ以上何も言わなかった。

「引き続き記録を取ってくれ」

 ロドリゴはそう言って、フロアを後にした。

 午前中の作業は順調だった。

 長さ二十七メートルのスタンドパイプを二本追加し、泥水の循環を確認し、接続部の目視点検を終えた。新米のネイは泥水が戻ってくるシェイカーパネルの前で黙々と記録を続けており、チアゴの操るクレーンは今日も正確だった。数値は安定している。フロアの温度は高く、作業員たちの額に汗が光っている。

 何一つ、おかしくはなかった。

 だが、アフォンソの体の奥では、昨日から続くざわめきが静まっていなかった。

 異常が再発したのは、午後二時を過ぎたころだった。

 最初はフックロードだった。千二百メートルの水深と地層の奥へと伸びる、数万トンにおよぶ鋼鉄のドリルストリングを吊り下げているメーターの数値が、一瞬、規定値を大きく下回った。昨日より深く、昨日より長く。重たい鋼鉄の紐が、下から何かに「押し上げられた」かのような奇妙な数値。それは三秒ほど続いてから、正常に戻った。

「カルロス!」

「見ました!」ドリラーズキャビンに座るカルロスも、今度は確認していた。「昨日より振れ幅が大きい。三秒も続きました」

 アフォンソはモニターを見つめた。数値は今、安定している。だが、昨日とは明らかに違った。昨日は一瞬だった。今日は三秒あった。

 そのわずか二分後、今度は地層へ泥水を送り込むスタンドパイプ圧が跳ね上がった。

 今度は昨日より高く、上限限界値に近いところまで達した。ポンプ担当のイゴールが「おっ」と声を上げ、圧力を逃がすレバーに手を伸ばした。だが操作する前に、数値は自分で正常範囲に戻った。

「イゴール、今の圧力をログに記録しろ!」

「してます! だけど自動弁は動いていません、勝手に戻りました!」

 アフォンソはフロアを見回した。クルーの顔に、昨日とは違う緊張が走っていた。誰ももう「誤差だ」とは言わなかった。

 さらに五分後、今度はシェイカー(泥水振動篩)の方からネイの悲鳴のような声が上がった。

「主任、泥水の色が変わっています!」

 アフォンソはシェイカーパネルに駆け寄った。地球の底から循環して戻ってくる泥水の色が、わずかに変化していた。通常の黒褐色より、心持ち白っぽく濁っている。気のせいと言えば気のせいの範囲だが、十五年間泥水を見続けてきたアフォンソの目には、確かに違って見えた。

「いつからだ」

「さっき、ポンプ圧が跳ねた直後からです。少しずつ、膜が混じるみたいに……」

 アフォンソはシェイカーを流れる泥水を手で掬い、ヘルメットのシールドを上げて匂いを嗅いだ。

 かすかに、いつもと違う匂いがした。硫黄に似た、だがそれよりも生物的な、鼻の奥を刺すような甘ったるい不快な臭気だ。

「ロドリゴを呼べ。今すぐだ!」

 ロドリゴが息を切らせて到着するまでの十分間、アフォンソはフロアを離れなかった。

 ロドリゴはログを確認し、泥水のサンプルを試験管に採取し、シェイカーの記録を見た。それからアフォンソと並んで、循環してくる泥水をしばらく眺めた。

「硫黄臭は確かにある」とロドリゴは静かに言った。「泥水の変色も、デジタル記録上に出ている」

「フローチェックをかけるぞ」

 アフォンソの言葉に、ロドリゴは力強く頷いた。ガス湧出(キック)の疑いがある以上、手順は一つしかない。OIMの許可を仰ぐ暇はなかった。

「カルロス、ポンプを止めろ! フローチェックだ!」

 ロドリゴの鋭い指示が飛ぶと同時に、ロドリゴはインカムのスイッチを入れた。

「こちらドリルフロア、ロドリゴ。異臭と圧変化を確認。これより掘削を一時停止し、フローチェックを実施する」

 無線からウィリアムズの緊迫した声が戻る。『了解した。手順通りにやれ。十分間だ』。

 カルロスがドローワークスをロックし、マッドポンプが静止した。フロアから音が消えた。

 二万トンの巨体を震わせていた巨大なディーゼルエンジンとポンプの重低音が途絶え、代わりに波によるリグの上下動で鉄が軋む高い音と、遠くから届く波の音だけが不気味に響いた。

 クルー全員が、泥水が戻ってくる出口の流量計を凝視した。

 フローチェックは、地層圧を監視する最もシンプルで確実な確認だ。泥水を送るポンプを完全に止めた状態で、海底の坑井から泥水が自発的にあふれ出てこないかどうかを見る。もしあふれてくれば、地下からガスや原油が押し寄せてきている絶対的な証拠だ。流れがなければ、坑井は安定している。

 マッドポンプが停止した直後、流量計の針がバックフロー(残流)を示してわずかに揺れ、やがて完全にゼロの位置で静止した。

 そこから十分間、誰も口を開かなかった。沈黙がフロアを支配した。

 流量計の針は、ピクリとも動かなかった。泥水は、完全に静止していた。

「異常なし」とロドリゴは言った。「坑井は安定している。ガスによる押し上げじゃない」

 クルーのあいだで、一斉に小さく息を吐く音がした。カルロスが「よかった……」と額の汗を拭いながら呟いた。

「掘削を再開する」とロドリゴは無線でウィリアムズに報告した。「泥水の変色と硫黄臭については、ラボで成分分析をかける。結果が出るまで一日かかる」

 ポンプが再起動した。フロアに強烈な爆音と振動が戻ってきた。

 アフォンソは流量計から目を離さなかった。数値は正常だ。フローチェックは正しい手順で実施され、地下からの流入がないことが証明された。異常はなかった。それは科学的な事実だ。

 だが、体の奥のざらついたざわめきは、まったく静まっていなかった。

「気になるか」とロドリゴが隣で静かに言った。

「フローチェックは正しかった」とアフォンソは答えた。「それはわかってる」

「だが嫌な予感がする」

 ロドリゴはしばらく黙っていた。

「気のせいだ」

 それだけ言って、ロドリゴはフロアを降りていった。

 夕方、ムーンプール区画に向かうと、ROV(遠隔操作無人探査機)のオペレーター席に座るノルウェー人のヨハン・エリクセンは、珍しく振り返った。

「来ると思った」と彼は言った。北海油田を渡り歩いてきた男の顔には、明確な警戒の色があった。

 アフォンソは隣の椅子に座り、海底千二百メートルから送られてくるモニターを覗き込んだ。

 海底のBOPの周囲を捉えるカメラの画面で、気泡の数が、昨日の倍以上になっていた。相変わらず散発的ではあるが、もはや「自然なガス抜け」とは言えない量だ。鋼鉄の構造物のあちこちから、小さな泡が絶え間なく湧き出ている。

「いつから増えた」

「午後二時過ぎだ。急に数が跳ね上がった」

 アフォンソは時刻を頭の中で照合した。ドリルフロアでフックロードが大きくブレた時間と、完璧に一致する。

「ロドリゴに報告したか」

「さっき報告した。記録データも送ってある」

「ヨハン」アフォンソは砂嵐の混じるモニターを見つめたまま言った。「お前はどう思う。本当のところ」

 ヨハンはしばらく黙っていた。画面の向こう、光の届かない漆黒の底で、泡が湧き続けている。

「北海で似たような現象を見たとき」とヨハンはゆっくりと言った。「それは三日後に、小さなキックになった。地層が悲鳴を上げている証拠だ」

「その時はどうした」

「掘削を一時停止して、マッドウェイト(泥水の比重)を上げた。力ずくで押さえ込んだのさ」

「今回は」

「フローチェックで『異常なし』が出た」とヨハンは静かに言った。「それは事実だ。だが……」

 彼は指先で、モニターに映る不自然な気泡の群れを指さした。

「これが増え続けているのも、また事実だ。科学が嘘をつかないとしても、自然はもっと嘘をつかない」

 アフォンソはムーンプールの開口部を見た。

 鉄の床に開いた穴の下で、暗い海水がゆっくりと呼吸するように揺れている。水面の下、千二百メートルの暗闇の底。ROVの放つ強力なハロゲンライトが狭い範囲だけを白く照らし、その外側には、人間が決して近づけない、何が潜んでいるかもわからない無限の闇が広がっている。

「記録を続けてくれ」

「している」

 その夜も、アフォンソは眠れなかった。

 ベッドの上で天井を見つめながら、頭の中で起きた現象を整理した。

 フックロードのブレ――昨日より大きく、長い、三秒間。

 スタンドパイプ圧の跳ね上がり――上限近くまで達した。

 戻り泥水の変色と、生物的な硫黄臭。

 海底BOP付近での気泡の急増――フックロードのブレと時刻が一致。

 しかし、フローチェックの結果は異常なし。

 センサー点検の結果も異常なし。

 手順は百パーセント正しかった。判断も、目の前にある確実なデータに基づいていた。ウィリアムズもロドリゴも、プロフェッショナルとして正しい仕事をしていた。

 それでも、眠れなかった。

 隣のベッドでは、カルロスが規則正しい寝息を立てている。リグの脈動が、鉄の壁を通して体に直接伝わってくる。掘削は止まっていない。今この瞬間も、地球の内側へ向かって、二万トンの圧力を背負った鉄のパイプが回り続けている。


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