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1994年  作者: 夜空
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作業


 水深二百メートルを超えれば、太陽の光はほとんど届かない。それより下は、一年三百六十五日、等しく暗い。さらに深く潜れば水温は摂氏四度前後まで下がり、圧力は数十気圧、あるいは百気圧を超える。そこは長いあいだ、人類が容易に近づくことすらできなかった世界だ。暗闇の海には、自ら光を生み出す生物たちが生息している。

 その世界の実態が次第に明らかになったのは、二十世紀後半に入ってからのことだった。

 そのような場所に、人間はパイプを突き刺そうとしている。

 ブラジルという国は、長い間、自らの足元に眠る巨大な富の大きさを知らなかった。

 二十世紀初頭まで、ブラジルの経済はコーヒーと砂糖に依存していた。広大な国土と豊かな熱帯雨林を持ちながら、工業化の波に乗り遅れ、石油はほぼ全量を輸入に頼っていた。一九五三年、ジェトゥリオ・ヴァルガス大統領は「石油はわれわれのものだ」という国民的スローガンのもと、国営石油会社ペトロブラスを設立した。石油の自給自足は、独立国家としての悲願だった。

 しかし現実は厳しかった。陸上油田の埋蔵量は限られており、一九六〇年代までに発見されたほとんどの油田は、バイア州のレコンカボ盆地に集中していたが、規模は小さかった。ブラジルは依然として石油輸入国のままだった。

 転機が訪れたのは一九七〇年代だ。二度の石油危機がブラジル経済を直撃し、外貨を石油輸入に食い潰される状況が続いた。政府は方針を転換し、ペトロブラスに沖合探鉱の強化を命じた。リオデジャネイロ州沖合、大陸棚の縁に広がるカンポス盆地が、新たな主戦場となった。

 一九七四年、ペトロブラスはカンポス盆地でガルーパ油田を発見した。水深約一五〇メートル、当時の技術で到達できる浅海域だった。続いて一九八五年には、はるかに深い場所で巨大な地下構造が確認された。マルリン油田だ。水深六〇〇メートルから一〇〇〇メートルにまたがるその海底には、推定埋蔵量数十億バレルの重質油が眠っていた。これはカンポス盆地最大の発見であり、ブラジルの石油史を塗り替える規模だった。

 だが、発見することと、採掘することは別の話だ。

 水深一〇〇〇メートルを超える深海での掘削は、一九九〇年代初頭においてもなお、人類の技術的限界に近い領域だった。海底の圧力はすさまじく、通常の掘削機器はその環境に耐えられない。ライザーパイプ(海洋掘削用延長管)と呼ばれる海底と洋上を繋ぐ鋼管の連結システム、坑井の暴噴を防ぎ緊急時に元栓を閉じるBOP(噴出防止装置)の深海対応化、そして海底で作業するROV(遠隔操作無人探査機)の技術。それらすべてが、同時に解決されなければならない課題だった。

 ペトロブラスはその壁に、正面から挑んだ。

 技術力では世界に先行するアメリカとノルウェーの掘削請負会社と提携し、彼らの知識と機材を導入しながら、自前の深海技術を蓄積していった。一九九一年、マルリン油田の試験採掘が始まった。一九九四年四月には、水深一〇二七メートルでの生産に成功し、世界記録を更新した。

 だが、ペトロブラスの野心はそこで止まらなかった。

 マルリン油田のさらに深部、水深一二〇〇メートルを超える海域に、新たな構造が確認されていた。地震探査データが示す地下の輪郭は、膨大な量の炭化水素の存在を示唆していた。そこへ掘削パイプを届かせることができれば、ブラジルは石油自給へ向けて大きく前進することになる。それはもはや技術の問題というより、国家の威信をかけた挑戦だった。

 問題は、どうやってそこへ到達するかだ。

 既存のリグに新技術を載せるという選択肢もあった。だが、水深一二〇〇メートルという領域は、既存リグでは対応しきれない部分があった。ポンツーンの浮力設計、ライザーシステムの全長、超深海に対応したBOPの重量——どれをとっても、改修で済む話ではなかった。

 こうした技術的な壁を前に、ペトロブラスは新造という決断を下した。そうして生まれたのが、セラ・ド・マール号だ。

 セラ・ド・マール。ブラジル南東部の海岸沿いに連なる急峻な山脈の名前だ。かつてポルトガルからの移民たちが、その険しい崖を命がけで登り、内陸部の大地へと踏み込んでいった。開拓と挑戦の象徴として、ペトロブラスの技術者たちはそのリグにこの名をつけた。

 リグの建造は一九九一年に始まり、ブラジル国内の造船所で三年の歳月をかけて完成した。総重量は二万トン級。巨大な四本のコラムが、二つのポンツーンと上部デッキを支えている。稼働時にはポンツーンのバラストタンクに海水を注入し、半潜水状態で波の影響を最小限に抑える。これがセミサブ(半潜水式掘削リグ)と呼ばれる所以だ。

 デッキの中央にそびえ立つ掘削櫓の高さは地上から五十二メートル。その頂点から垂直に伸びるドリルストリング(掘削管列)は、海底面まで千二百メートル、そこからさらに地層の奥へ。セラ・ド・マール号の掘削目標深度は、海底面から四〇〇〇メートル。合計五二〇〇メートルに及ぶ鋼管列が、地球の内側へと食い込んでいく計算だ。それは一九九四年時点において、ブラジルが到達しようとしている最深の記録だった。

 リグには百名を超える作業員と技術者が乗り込んでいる。二交替の十二時間シフト制で、昼夜を問わず稼働し続ける。居住区は三層構造で、各自に割り当てられた二段ベッドの部屋は六畳ほどの広さしかない。食堂、娯楽室、医務室、無線室。陸地から百二十キロ離れたこの鉄の箱の上で、百名余りの男たちが数週間単位で交替しながら生活を共にしている。外部との連絡手段は、気まぐれな衛星通信と短波無線だけだ。

 乗組員の大半はブラジル人だが、技術職の要所にはヨーロッパ人と北米人が配置されている。それはペトロブラスとアメリカの掘削請負会社、ソナット・オフショア・ドリリング社との契約に基づくものだった。深海掘削の実績と技術力において、当時のブラジルはまだ世界の最前線に追いついていなかった。リグの総責任者であるOIM(洋上掘削総責任者)を務めるのは、テキサス出身のハロルド・ウィリアムズ。テキサコとシェルでの深海掘削経験を持つ五十五歳のベテランだ。ROVチーフオペレーターのヨハン・エリクセンはノルウェー人で、北海油田での経験を買われてペトロブラスに引き抜かれた。

 彼らは知識と技術を持ち込んだ。一方で、現場を実際に動かしているのは、汗と油にまみれたブラジル人たちだった。

 掘削デッキの現場主任を務めるアフォンソ・モレイラは、十五年のリグ経験を持つ叩き上げだ。リオデジャネイロのファヴェーラ出身で、高校を出た後すぐにペトロブラスの作業員募集に応じた。最初の三年間はラウストアバウト(雑役作業員)として泥と金属の臭いの中で働き、フロアマン(坑口作業員)デリックマン(掘削櫓作業員)ドリラー(掘削機操作技師)と段階を踏んで現場主任まで上り詰めた。工学の学位は持たないが、現場の機微を読む勘は、ロドリゴを含むどんなエンジニアも持っていない種類のものだった。

 一九九四年七月、ブラジルが二十四年ぶりのワールドカップ優勝に沸いた翌朝、セラ・ド・マール号の掘削作業は止まっていなかった。

 地球は、祭りを待ってくれない。

***

 一九九四年七月十八日

 ワールドカップ制覇の熱狂から一夜明けた大西洋は、昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。しかし、ひとたび居住区の重い防音扉を開けてキャットウォークへ出れば、そこは容赦ない金属音と潮風が支配する、鋼鉄の労働現場だった。

 午前七時。アフォンソ・モレイラは、四基の巨大なディーゼル発電機が上げる爆音の中、ドリルフロア(掘削デッキ)の指揮を執っていた。

 高校を出てすぐペトロブラスに入り、最底辺のラウストアバウトからフロアマン、デリックマン、ドリラーと、文字通り油と泥にまみれて十五年をサバイブしてきた男だ。工学の学位など持たない。だが、この大西洋の荒波の上で、二万トンの鋼鉄の塊がどう震え、地球がどう抵抗しているか、アフォンソの皮膚はそのすべてを記憶していた。

「おいネイ! ボルトの締めトルクを確認しろ! 昨日の勝ち戦で頭がのぼせてるんじゃねえぞ!」

 アフォンソの怒声が、耳栓越しに二十一歳の新米へと飛ぶ。

 今日の作業は、目標深度五二〇〇メートルの地層へ向けて、ドリルストリングを一本ずつ継ぎ足していく、最も緊張するプロセスの一つだった。

 ドリラーズキャビン(制御室)に座るドリラーがドローワークス(大型巻き上げ機)を慎重に操作し、チアゴの操るクレーンによって運ばれた長さ約九メートルの鋼鉄製ドリルパイプが、垂直に吊り上げられる。床下から伸びる、すでに千メートル以上の深海へと繋がっているパイプの頭であるツールジョイント(接続部)に、新しいパイプのネジ山が合わさった。

 |パワーアイアンラフネック《油圧式自動パイプ接続装置》が咆哮を上げてパイプを挟み込み、凄まじいトルクで回転させてネジを締め上げる。キィィィンという金属の悲鳴とともに火花が散り、接続が完了する。

 同時に、パイプの内部には高圧のマッド(掘削泥水)が送り込まれていく。地下深くてんびんのように釣り合う莫大な地層圧を、泥水の自重だけで力ずくで押さえつける、リグの命綱だ。アフォンソは、床一面に飛び散る油まみれの泥水をブーツで踏みしめながら、計器の数値——ポンプ圧力と回転トルクを鋭い目で見つめていた。

「アフォンソ」

 背後からの声に振り返ると、そこにはテキサス出身のOIM(洋上掘削総責任者)、ハロルド・ウィリアムズが立っていた。テキサコやシェルで修羅場をくぐり抜けてきた五十五歳のベテランは、ヘルメットの下の鋭い目を細めた。

「泥水の粘度に気を配れよ。ここから先はペトロブラスにとっても未知の領域だ。地球の腹を割りに行くんだ、何が飛び出すか分からんぞ」

「分かってますよ、ボス。地球はブラジルの優勝を祝っちゃくれないようだ」

 アフォンソが不敵に笑うと、ウィリアムズは満足そうに頷き、ブリッジへと戻っていった。

 午後、アフォンソはリグの心臓部であるポンプ室へと向かった。

 そこでは、チーフエンジニアのロドリゴが、マッドポンプ(泥水循環ポンプ)の巨大なピストンの前で、図面を片手に不機嫌そうな顔をしていた。

 昨夜、ルシアを愛おしそうに引き寄せていた親友の姿が脳裏をよぎる。アフォンソは胸の奥のざらつきを押し殺して声をかけた。

「ロドリゴ、三番ポンプの調子はどうだ。さっきからドリルフロアの泥水圧に、わずかだが妙なパルスが混じっている」

 ロドリゴは工具を握ったまま、難燃性の紺色のカバーオールに覆われた背中を向けたまま答えた。

「データ上は正常範囲内だ、アフォンソ。お前は現場の『勘』を過信しすぎる。このセラ・ド・マール号のシステムは最新鋭なんだ、ファヴェーラ上がりの古いやり方に囚われるな」

 工学の論理を信じるロドリゴと、十五年の泥臭い経験を信じるアフォンソ。二人の優秀さゆえの小さな摩擦が、ロドリゴの無機質な言葉とともに火花を散らす。かつて同じ貧民街で泥にまみれていた二人の距離が、ルシアという存在と、この鉄の箱の上での立場の違いによって、少しずつ狂い始めているようだった。

 夕刻、アフォンソはリグの真ん中にぽっかりと開いた穴——ムーンプールを覗き込んでいた。

 リグの床下からは、遥か下の暗い大西洋の荒波が直接見えている。海面からさらに千二百メートルの深海へと、一本の太い鋼鉄の管——マリンライザー管が、まるで地球に突き刺された一本の針のように伸びていた。その最深部、太陽の光が完全に途絶えた暗闇の海底には、ノルウェー人のヨハン・エリクセンが操縦するROVが、冷たい水圧に耐えながらBOPの監視を続けているはずだった。

 ライザー管を支える大型テンショナーが、波によるリグの上下揺れを吸収しながら、油圧の重々しい唸りを響かせている。

 その時、アフォンソの鼻腔を、潮の香りとは違う、わずかに甘く不快な臭気がかすめた。

(……タバコか? いや、違う。これは一体……?)

 だが、夕暮れの大西洋が吹き付ける強風が、その臭いを一瞬でかき消してしまった。

「アフォンソ主任! 本社からのファックス、無線室に届いてますよ! シルバのやつがまたふざけた返信を打とうとしてます!」

 上方のデッキから、新米のネイが暢気な声を張り上げている。

 アフォンソはもう一度、暗い海へと伸びるライザー管を見つめた後、ヘルメットの顎紐を締め直し、鉄のはしごを登り始めた。

 水深千二百メートルの暗闇の底で、何かが静かに目を覚まそうとしていることなど、まだ誰も気づいていなかった。

 七月十九日の朝も、大西洋は静かだった。

 居住棟の廊下は、昨日と同じ時間帯に同じ静けさを保っていた。夜勤明けの足音、シャワー室の水音、どこかの部屋から漏れてくる寝息。リグの朝は、いつも同じように始まる。W杯の興奮は、すでに日常の層の下に沈みつつあった。壁のブラジル国旗の切り抜きも、昨日より少し端が剥がれている。

 アフォンソ・モレイラは作業着のファスナーを上げながら、食堂へ向かって歩いていた。

 角を曲がったとき、向こうから歩いてくる人影に気づいた。難燃性の白い医務室用カバーオール。黒髪。少し癖のある、耳の下あたりで束ねた髪。

 ルシアだった。

 一瞬、足が止まりそうになった。止まらなかったのは、止まれば負けだという、根拠のない意地があったからだ。アフォンソはそのまま歩き続けた。ルシアも歩いてくる。廊下の幅は二人がすれ違えるだけの余裕しかない。

「おはよう」

 すれ違いざま、ルシアが短く声をかけてきた。

 アフォンソは視線を正面に向けたまま、「ああ」とだけ返した。酷く愛想の無い返答だと思ったが、それ以上の言葉を選べなかった。

 ルシアは立ち止まらず、そのまま居住区の奥へと歩き去っていく。すれ違う瞬間、彼女の髪から微かに漂った石鹸の匂いが、アフォンソの鼻腔をかすめて消えた。ただそれだけのことなのに、アフォンソの胸の奥には、冷たい未練の残火がパチパチとはぜるような感覚が残った。

 食堂の手前で立ち止まり、壁に背を預けた。頭の中がひどく静かだった。

 扉の隙間から、ブラジル人の朝食に欠かせない、焼き立てのパォン・デ・ケイジョの香ばしい匂いが漂ってくる。だが、アフォンソの鼻腔には、それがどうしても昨日ムーンプールで嗅いだ、あの別の何かの臭いに思えてならなかった。

 午前七時の朝礼で、チーフエンジニアのロドリゴがセンサー点検の結果を報告した。

「異常なし」

 ロドリゴはクリップボードの数字を示しながら、淡々と続けた。

「デリック上のフックロードセンサーも、ポンプ室の計測系も、すべて規格内だ。電気的な接触不良も見られない。機器としては完全に正常だ」

 アフォンソは腕を組んだまま、黙って聞いていた。

「つまり」とロドリゴは論理的に続けた。「これまでのブレは、地層の変化によるものと考えるのが妥当だ。深度が増すにつれて岩盤の性質が変わるのは想定の範囲内だ。OIMのウィリアムズにも報告したが、予定通り掘削継続の判断が下りた」

「海底の気泡はどう説明する」

「ヨハンの記録を見た。増加傾向ではあるが、量は依然として許容範囲内だ。BOPのガス滲みとは考えにくい。地層割れ目からの自然なガス抜けとして処理する」

 クルーの何人かが、安堵したような顔をした。ドリラーのカルロスは「やっぱり機器のノイズだったんですかね」と軽い口調で言い、フロアマンの一人が「そりゃそうですよ、このセラ・ド・マール号はまだ新しいし」と同意した。

 アフォンソは何も言わなかった。

 朝礼が終わり、クルーがそれぞれの配置へ散っていく中で、ロドリゴがアフォンソの隣に残った。

「納得してないか」とロドリゴが静かに言った。

「データは正常だ」とアフォンソは答えた。「それはわかる」

「だが」

「ああ」

 二人はしばらく黙って立っていた。機材室の天井から、居住区を陽圧に保つための換気扇の回る音が重低音となって聞こえる。

「センサーが正常なら、数値は正しい」とロドリゴは言った。「正しい数値が誤差の範囲内なら、何万ドルのコストをかけて現場を止める根拠にはならない。それがルールだ」

「わかってる」

「お前の勘は信頼してる。だが勘だけでは動けない」

 アフォンソはロドリゴを見た。ロドリゴも真っ直ぐに返してきた。申し訳なさでも、言い訳でもない。ただ、エンジニアとしての誠実さだった。それがわかるから、アフォンソはそれ以上何も言わなかった。

「引き続き記録を取ってくれ」

 ロドリゴはそう言って、フロアを後にした。

 午前中の作業は順調だった。

 長さ二十七メートルのスタンドパイプを二本追加し、泥水の循環を確認し、接続部の目視点検を終えた。新米のネイは泥水が戻ってくるシェイカーパネルの前で黙々と記録を続けており、チアゴの操るクレーンは今日も正確だった。数値は安定している。フロアの温度は高く、作業員たちの額に汗が光っている。

 何一つ、おかしくはなかった。

 だが、アフォンソの体の奥では、昨日から続くざわめきが静まっていなかった。

 異常が再発したのは、午後二時を過ぎたころだった。

 最初はフックロードだった。千二百メートルの水深と地層の奥へと伸びる、数万トンにおよぶ鋼鉄のドリルストリングを吊り下げているメーターの数値が、一瞬、規定値を大きく下回った。昨日より深く、昨日より長く。重たい鋼鉄の紐が、下から何かに「押し上げられた」かのような奇妙な数値。それは三秒ほど続いてから、正常に戻った。

「カルロス!」

「見ました!」ドリラーズキャビンに座るカルロスも、今度は確認していた。「昨日より振れ幅が大きい。三秒も続きました」

 アフォンソはモニターを見つめた。数値は今、安定している。だが、昨日とは明らかに違った。昨日は一瞬だった。今日は三秒あった。

 そのわずか二分後、今度は地層へ泥水を送り込むスタンドパイプ圧が跳ね上がった。

 今度は昨日より高く、上限限界値に近いところまで達した。ポンプ担当のイゴールが「おっ」と声を上げ、圧力を逃がすレバーに手を伸ばした。だが操作する前に、数値は自分で正常範囲に戻った。

「イゴール、今の圧力をログに記録しろ!」

「してます! だけど自動弁は動いていません、勝手に戻りました!」

 アフォンソはフロアを見回した。クルーの顔に、昨日とは違う緊張が走っていた。誰ももう「誤差だ」とは言わなかった。

 さらに五分後、今度はシェイカー(泥水振動篩)の方からネイの悲鳴のような声が上がった。

「主任、泥水の色が変わっています!」

 アフォンソはシェイカーパネルに駆け寄った。地球の底から循環して戻ってくる泥水の色が、わずかに変化していた。通常の黒褐色より、心持ち白っぽく濁っている。気のせいと言えば気のせいの範囲だが、十五年間泥水を見続けてきたアフォンソの目には、確かに違って見えた。

「いつからだ」

「さっき、ポンプ圧が跳ねた直後からです。少しずつ、膜が混じるみたいに……」

 アフォンソはシェイカーを流れる泥水を手で掬い、ヘルメットのシールドを上げて匂いを嗅いだ。

 かすかに、いつもと違う匂いがした。硫黄に似た、だがそれよりも生物的な、鼻の奥を刺すような甘ったるい不快な臭気だ。

「ロドリゴを呼べ。今すぐだ!」

 ロドリゴが息を切らせて到着するまでの十分間、アフォンソはフロアを離れなかった。

 ロドリゴはログを確認し、泥水のサンプルを試験管に採取し、シェイカーの記録を見た。それからアフォンソと並んで、循環してくる泥水をしばらく眺めた。

「硫黄臭は確かにある」とロドリゴは静かに言った。「泥水の変色も、デジタル記録上に出ている」

「フローチェックをかけるぞ」

 アフォンソの言葉に、ロドリゴは力強く頷いた。ガス湧出(キック)の疑いがある以上、手順は一つしかない。OIMの許可を仰ぐ暇はなかった。

「カルロス、ポンプを止めろ! フローチェックだ!」

 ロドリゴの鋭い指示が飛ぶと同時に、ロドリゴはインカムのスイッチを入れた。

「こちらドリルフロア、ロドリゴ。異臭と圧変化を確認。これより掘削を一時停止し、フローチェックを実施する」

 無線からウィリアムズの緊迫した声が戻る。『了解した。手順通りにやれ。十分間だ』。

 カルロスがドローワークスをロックし、マッドポンプが静止した。フロアから音が消えた。

 二万トンの巨体を震わせていた巨大なディーゼルエンジンとポンプの重低音が途絶え、代わりに、波によるリグの上下動で鉄が軋む高い音と、遠くから届く波の音だけが不気味に響いた。

 クルー全員が、泥水が戻ってくる出口の流量計を凝視した。

 フローチェックは、地層圧を監視する最もシンプルで確実な確認だ。泥水を送るポンプを完全に止めた状態で、海底の坑井から泥水が自発的にあふれ出てこないかどうかを見る。もしあふれてくれば、地下からガスや原油が押し寄せてきている絶対的な証拠だ。流れがなければ、坑井は安定している。

 マッドポンプが停止した直後、流量計の針がバックフロー(残流)を示してわずかに揺れ、やがて完全にゼロの位置で静止した。

 そこから十分間、誰も口を開かなかった。沈黙がフロアを支配した。

 流量計の針は、ピクリとも動かなかった。泥水は、完全に静止していた。

「異常なし」とロドリゴは言った。「坑井は安定している。ガスによる押し上げじゃない」

 クルーのあいだで、一斉に小さく息を吐く音がした。カルロスが「よかった……」と額の汗を拭いながら呟いた。

「掘削を再開する」とロドリゴは無線でウィリアムズに報告した。「泥水の変色と硫黄臭については、ラボで成分分析をかける。結果が出るまで一日かかる」

 ポンプが再起動した。フロアに強烈な爆音と振動が戻ってきた。

 アフォンソは流量計から目を離さなかった。数値は正常だ。フローチェックは正しい手順で実施され、地下からの流入がないことが証明された。異常はなかった。それは科学的な事実だ。

 だが、体の奥のざらついたざわめきは、まったく静まっていなかった。

「気になるか」とロドリゴが隣で静かに言った。

「フローチェックは正しかった」とアフォンソは答えた。「それはわかってる」

「だが嫌な予感がする」

 ロドリゴはしばらく黙っていた。

「気のせいだ」

 それだけ言って、ロドリゴはフロアを降りていった。

 夕方、ムーンプール区画に向かうと、ROVのオペレーター席に座るノルウェー人のヨハン・エリクセンは、珍しく振り返った。

「来ると思った」と彼は言った。北海油田を渡り歩いてきた男の顔には、明確な警戒の色があった。

 アフォンソは隣の椅子に座り、海底千二百メートルから送られてくるモニターを覗き込んだ。

 海底のBOPの周囲を捉えるカメラの画面で、気泡の数が、昨日の倍以上になっていた。相変わらず散発的ではあるが、もはや「自然なガス抜け」とは言えない量だ。鋼鉄の構造物のあちこちから、小さな泡が絶え間なく湧き出ている。

「いつから増えた」

「午後二時過ぎだ。急に数が跳ね上がった」

 アフォンソは時刻を頭の中で照合した。ドリルフロアでフックロードが大きくブレた時間と、完璧に一致する。

「ロドリゴに報告したか」

「さっき報告した。記録データも送ってある」

「ヨハン」アフォンソは砂嵐の混じるモニターを見つめたまま言った。「お前はどう思う。本当のところ」

 ヨハンはしばらく黙っていた。画面の向こう、光の届かない漆黒の底で、泡が湧き続けている。

「北海で似たような現象を見たとき」とヨハンはゆっくりと言った。「それは三日後に、小さなキックになった。地層が悲鳴を上げている証拠だ」

「その時はどうした」

「掘削を一時停止して、マッドウェイト(泥水比重)を上げた。力ずくで押さえ込んだのさ」

「今回は」

「フローチェックで『異常なし』が出た」とヨハンは静かに言った。「それは事実だ。だが……」

 彼は指先で、モニターに映る不自然な気泡の群れを指さした。

「これが増え続けているのも、また事実だ。科学が嘘をつかないとしても、自然はもっと嘘をつかない」

 アフォンソはムーンプールの開口部を見た。

 鉄の床に開いた穴の下で、暗い海水がゆっくりと呼吸するように揺れている。水面の下、千二百メートルの暗闇の底。ROVの放つ強力なハロゲンライトが狭い範囲だけを白く照らし、その外側には、人間が決して近づけない、何が潜んでいるかもわからない無限の闇が広がっている。

「記録を続けてくれ」

「している」

 その夜も、アフォンソは眠れなかった。

 ベッドの上で天井を見つめながら、頭の中で起きた現象を整理した。

 フックロードのブレ——昨日より大きく、長い、三秒間。

 スタンドパイプ圧の跳ね上がり——上限近くまで達した。

 戻り泥水の変色と、生物的な硫黄臭。

 海底BOP付近での気泡の急増——フックロードのブレと時刻が一致。

 しかし、フローチェックの結果は異常なし。

 センサー点検の結果も異常なし。

 手順は百パーセント正しかった。判断も、目の前にある確実なデータに基づいていた。ウィリアムズもロドリゴも、プロフェッショナルとして正しい仕事をしていた。

 それでも、眠れなかった。

 隣のベッドでは、カルロスが規則正しい寝息を立てている。リグの脈動が、鉄の壁を通して体に直接伝わってくる。掘削は止まっていない。今この瞬間も、地球の内側へ向かって、二万トンの圧力を背負った鉄のパイプが回り続けている。

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