プロローグ
一九九四年七月十七日。
漆黒の大西洋に浮かぶ鋼鉄の要塞――セラ・ド・マール号は、その時、狂気のような歓喜に揺れていた。男たちの目は、二九インチのブラウン管テレビに釘付けになっている。彼らがこんなにも夢中になっているのは画面の向こうで行われている、ブラジル対イタリアの試合が原因だ。
アメリカ・ロサンゼルスの酷暑の中で行われた決勝戦。それはお世辞にも「美しいサッカー王国」の試合ではなかった。ロマーリオとベベットの破壊力をもってしても、イタリアの強固なカテナチオを崩せない。死闘の末、スコアは0-0のまま。ワールドカップ史上初の「PK戦で決まる決勝」という、心臓が破裂しそうな緊張感が大西洋の洋上リグにも満ちていた。
イタリアの先攻で始まったPK戦。イタリアの一人目が外したものの、直後のブラジル一人目、マルシオ・サントスのシュートは、イタリアの守護神ジャンルカ・パリュウカに阻まれ、食堂に悲鳴が響く。だが、守護神タファレルがイタリアの四人目のシュートを止め、息を吹き返す。
そして運命の五人目。イタリアの至宝であり、今大会をたった一人で勝ち上がってきたような男、ロベルト・バッジョ。彼が失敗すれば、その瞬間にブラジルの優勝が決まる。
バッジョが助走をつけ、右足を振り抜いた。
ボールは、ゴールの遥か上空、カリフォルニアの青空へと吸い込まれていく。
その瞬間、カンポス盆地沖に位置する石油リグの食堂は、爆発した。
「勝った――!!」
台に置かれた二九インチのソニー製ブラウン管テレビの前で、カナリア色のユニフォームを着た男たちが咆哮し、互いに抱き合い、床に突っ伏して涙を流している。二十四年ぶりの、世界制覇の瞬間だった。
現場主任のアフォンソもまた、叫び声を上げながら、隣にいたチーフエンジニアのロドリゴと固く抱き合っていた。二人は子供のように笑い、肩を叩き合った。
当時のブラジルは、新しい通貨『レアル』が導入されたばかりで、国中がハイパーインフレの混沌と生活の不安に喘いでいた。おまけに数ヶ月前には、国民的英雄であるアイルトン・セナがレース中の事故で急逝するという、深い喪失感を抱えたばかりだった。
だからこそ、彼らは飢えた獣のようにこの勝利を欲していたのだ。
テレビ画面の向こうでは、キャプテンのドゥンガが、セナの死を悼む横断幕を掲げた後、燦然と輝く黄金のワールドカップトロフィーをロサンゼルスの空へと高く掲げている。
男たちの歌うブラジル国歌が、錆びついた鉄壁に反響し、リグ全体を満たしていく。リグ中が、歓声に包まれていた。
喫煙室から、興奮冷めやらぬ男たちが次々と出てくる。彼らがドアを開けるたびに、吐き出された紫煙の残香とタバコの匂いが、熱気あふれる食堂へと流れ込んできた。
日勤の義務を終えた男たちも、これから夜勤に向かう男たちも、今この瞬間だけは同じカナリア色の歓喜に酔いしれている。
「見たかよ、あのタファレルの横飛び! あそこで完全に流れが変わったんだ!」
そう言って、自分の頭ほどもある巨大なクレーンのレバーを握るのと同じ手で、アフォンソの肩を激しく揺さぶったのはベテランオペレーターのチアゴだった。その横では、新米作業員のネイが「僕は信じてました! バッジョが外すって絶対に信じてました!」と、まだ二十一歳のあどけない顔を涙と汗でぐしゃぐしゃにしている。
「おいおい、静かにしろネイ。バッジョの悪口はそこまでだ」
食堂の隅から、皮肉混じりの、しかし引きつった笑い声を上げたのは、フランス人の地質学者、ピエールだった。彼は数少ないヨーロッパ人スタッフの一人だ。ピエールは手元にあるコーヒーを掲げながら、肩をすくめた。
「決勝が始まる一時間前まで、ヨーロッパの記者たちは誰もがバッジョのバロンドール連覇を確信していたんだぞ。決勝トーナメントに入ってからのあいつは、文字通り『神』だった。だが……まさかあの世界一美しい右足が、最後の最後にPKを宇宙へ打ち上げるなんてな。フランスの専門誌は大荒れになるぞ。他にいるとしたらブルガリアのストイチコフか。ドイツのクリンスマンやイタリアのマルディーニを推す声もあるだろうな」
「おいピエール、どうせ俺たちのロマーリオは欧州籍じゃないからって、最初からハジかれてる賞だろ」
アフォンソが笑いながらツッコミを入れると、ピエールは「まあ、今年は特例でロマーリオにあげたいくらいだがね」と降参するように両手を上げた。
「そんなことよりも今夜は俺たちが世界一だ、それだけで十分だろ!」
厨房長のドゥアルテが、普段の厳格なカトリック信者の顔をどこかへ置き忘れたような笑顔で、大盛りのフェイジョアードをテーブルにドンと置いた。
通信士のシルバは、高価なインマルサット衛星回線を私用で使うことなど恐れもせずに、陸の本社へ「俺たち最強、そしてブラジル優勝!」というふざけた祝電を打つために無線室へと走り、夜間警備のカウアンは、狂喜乱舞する作業員たちが興奮のあまりリグの火災検知器を誤作動させないか、苦笑いしながら見回っている。
「本当に、夢みたいだな」
アフォンソの隣で、チーフエンジニアのロドリゴがしみじみと呟いた。
「ああ、夢じゃないさ」
アフォンソは笑って答えた。二人は幼い頃から同じファヴェーラで泥にまみれてボールを追いかけ、今はこうして、大西洋のど真ん中にある最先端の深海リグで、国の最高の瞬間を一緒に迎えている。ロドリゴの技術と、アフォンソの現場勘。二人の信頼関係は、このリグの誰よりも強固だった。
「お二人さん、明日は早いわよ」
背後からかけられた涼やかな声に、アフォンソの心臓が小さく跳ねた。
振り返ると、医務室のカバーオールを脱ぎ捨てて、私服の緑色のシャツを着たルシアが呆れたような、しかし優しい眼差しで二人を見つめていた。
「ルシア」
ロドリゴが嬉しそうに顔を綻ばせ、自然な動作でルシアの肩を引き寄せる。ルシアは少し照れたように微笑みながら、ロドリゴの隣に並んだ。最近、二人が付き合い始めたことをアフォンソは知っていた。
その光景が視界に入った瞬間、アフォンソの胸の奥に、ざらりとした冷たい感触が走る。
ルシアの微笑み、髪の匂い、かつて自分に向けられていたはずのそのすべてが、今は親友のものになろうとしている。アフォンソは心の中の未練を悟られまいと、わざと大雑把に水を喉に流し込み、テレビ画面へと視線を戻した。
画面の向こうでは、まだお祭り騒ぎが続いている。




