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ペンギンの価値

 僕は、一人暮らしをしていた。

 学生だった周りの奴らは(僕もだ)、一人暮らししている僕を羨ましがった。彼らは親との折り合いが悪いとか、気ままに暮らしたいとか、そう言った理由で家を出たがっていた。だけどそれと相反し、誰一人として一人暮らしをしている人間は存在しなかった。不思議なことだな、と僕は思った。

 だから僕は、彼らに聞いた。なぜ一人暮らしをしないのかと。ほとんどの奴がお前のように金持ちじゃないと軽蔑の意図を感じる口調で言い放たれた。話をそらす者もいたし、まともに答えない奴もいた。僕は、ますます不に落ちなかった。


 僕の家は、けして裕福ではなかった。むしろ周りの人間のほうが僕から見れば裕福な家庭に見える。親は良い所の大学を出ていて悪くない稼ぎだったし、年に一度は国内外に旅行もしていた。

 一方、僕の両親は平凡な商業高校が最終学歴であり、稼ぎは悪くはなかったのだけど、余裕があるわけではなく、旅行なんてめったに行けることなんて無かった。彼らの家は、子供に塾を通わせ、毎年旅行する金はあって子供を一人暮らしさせる金はないのだ。おかしな話である。

 あいつらは口だけで一人で暮らすことも出来ないのだ。しかも自立した気になって他人の揚げ足を取って小さな勝利を喜ぶ人間なのである。僕は、そう言う奴らと関わるのが嫌だった。そういうことでしか喜びを感じられない痩せた人間にどういう価値があるだろう。だからこそ、僕は奴らと違うんだと言う印が欲しかった。その印が僕にとっての一人暮らしと言うものだった。


                 *


 僕は学生生活の三年間を一人と一匹で暮らした。

学校から一キロほど離れた古くて小さなアパートで壁なんて蹴ってしまえば簡単に崩れそうなボロであった。鉄の柵や鉄の階段も元の色が分からないぐらい錆付いていて何年かすればこの家は音を立ててと崩れていくに違いない。

 部屋は六畳と台所三畳で家賃二、二万円だった。前の住人の冷蔵庫があってペットも五月蝿くなければ飼っても良かった。

 もちろん、僕の家の犬は口煩く(うるさく)は、あるが動物として五月蝿く(うるさく)することは無かった。だって僕の家の家の犬はしゃべるのだから。


 家の窓からは、向かい側の家が見える。いや、手が届く距離に壁があるという表現が正しいだろうか? 窓から下を覗けば汚い漫画や空き缶とビンが転がっていて、時々野良猫が通った。もちろん清々しいほど日は当たらなかった。

 アパートは初老の夫婦が切り盛りしていた。僕のほかには浪人生と大学生が二人で住んでいた。一人暮らしをする子供には十分すぎるほどの家だった、と思う。最初は、首吊り自殺の霊でも出るのかと思っていたが、そんな事は無なかった。


 代わりにと言ってはなんだが、僕の部屋に、どこからともなく細かな砂が紛れ込んできた。いくら掃除しても砂は湧いた。そのうち砂かけ婆が勝手に家に上がりこんで砂をまいているんじゃないかと思えてきた。しかし、不思議と気味の悪さは感じなかった。恐らく、犬が喋っているのを見ているせいで大抵の事は笑って許せるようになっていたのだ。


 砂はそこらで見かける砂ではない。やたらと細かくて手触りも良く。そして何より海の匂いがする砂だった。大家に砂の話をするとシロアリのせいだ、と言った。

「シロアリが巣を作るために何処からか運んで来るんだよ」と女の大家は、煙草をふかせた。「シロアリって小さいだろう。だから小さな砂しか持ってこられない。この事は、契約の前に話したよね」

 僕は契約の時の話なんて全く知らなかったけど、頷くことしか出来なかった。

 もちろん、シロアリが砂を運んでくるなんて聞いた事もなかった。見たこともなかったし、そんな事実は無かった。僕の部屋にシロアリはいない。全ては砂の中だった。 


                  *


 僕は休みの日を利用し砂の出所を探った。

部屋は砂以外にも埃や塵も溜まっていたし、どちらかと言うと掃除の意味合いの方が強かったかもしれない。黒い木製の天井からは、埃がチェーンみたいにぶら下がっていて、ときどき足の多い虫も出てきた。だんだん僕は、安さの秘密を身を持って知り始めていた。

 僕は犬を便所に押し込むと掃除を開始した。昔の体操着に軍手をして片っ端から掃除機をかけた。掃除機は大家に借りていて細かい道具も実家や隣近所から借りる事が出来た。掃除は滞り無く進んでいった。

 砂の出所を見つけたのは犬だった。

掃除をひと段落させ、トイレ掃除の途中に犬が僕を呼んだ。

「おい、来てみろよ。この辺りが臭いぞ」

 駆けつけると犬は冷蔵庫の下に自慢の鼻を突っ込んでいた。尻を突き出し、尻尾を振っていた。なんとも間抜けな格好である。やがて犬が諦めると僕も冷蔵庫の下を覗き込んだ。尻尾は振らなかったがほとんど犬と同じような格好だったと思う。間抜けな格好をした割に冷蔵庫の下は暗くてよく見えない。まあ、埃だらけである事は間違いないだろう。犬の濡れた鼻先に黒い埃が付いていて犬はむず痒そうに手で鼻をこする。僕は見かねて犬の鼻をウエットティッシュで拭いた。懐中電灯で照らそうにも小さなスペースのため光さえも入り込めなかった。

 僕は仕方なく冷蔵庫を移動させた。中に何も入っていない冷蔵庫で幾分軽くはある。だが骨が折れる作業には変わりなかった。

 冷蔵庫の下は案の定埃だらけだった。黒い雲みたいな埃がわんさか溜まっていた。それらを手で取り払うと掃除機をかけて簡単に水拭きした。やっと全貌が見えた床は日焼け後みたいに色がくっきりと違っていた。元の薄い木の色を残し、それがしっかりと冷蔵庫の形になっている。ちょうど真ん中には床下収納の扉があって扉の淵に砂が残っていた。どうやら砂の出所はここで間違い無いようだった。いろいろな最悪の事態を予測し覚悟してから扉を開ける。あったのは砂だった。太陽にじりじりと照らされている砂である。扉と砂までは、だいたい五十cmほどの落差があって耳を澄ましていると波の音が聞こえた。犬と僕は湖でも覗くようにして身を乗り出し収納スペースを眺めた。ジリジリという暑さを感じる。たぶん、太陽の光が白い砂に反射して我々を照らしているのだ。太陽? と僕は、疑問を感じた。ここは室内で今は冬だった。だけど扉の向こうは明らかに夏の匂いがしていた。やがて犬は床から収納スペースの中に飛び降りた。覚束ない着地だ。犬は足場の感触を確かめるとそのまま走って行ってしまった。僕も仕方なく、そして恐る恐る砂に足をつける。低い暖簾を潜るみたいに外に出ると広いビーチが広がっていた。ちょうど真上に太陽があってみるみるうちに僕は、汗をかいた。僕はたまらず冬服を脱ぎ捨てTシャツ一枚になる。目の前には、綺麗な色をした海が広がっていて海と逆方向には、濃い緑の森が覗えた。ビーチの先を見据えると陽炎に揺れている。


 犬は探すまでも無くすぐ近くにいた。扉からそう離れていない場所に椰子の木が2本立っていてその影で暑そうに舌を出しながら座っていた。犬の隣の椰子の木陰には、黒い水筒があった。腹部分は、白くて頭の辺りに黄色い柄の入った水筒だった。しかし、僕が彼をペンギンだと理解するのに結構な時間を有してしまった。

「ここに人間と犬が来るなんて珍しい」とペンギンが言った。

 僕は、反射的に挨拶をしていた。

「こんにちわ」とペンギンも言った。

 僕は、彼が一瞬笑ったかのように見えた。だけどペンギンの表情を読み取るのは酷く難しい行為だった。ペンギンの左翼がほとんど残っていなかった。薄っすらと血が滲み出ていて砂の上に赤い血が滴り落ちていた。

「これですか」とペンギンは、無い左翼を動かした。「ごらんの有様ですよ。アシカにやられたんです。もう死を待つ身ですね」

「死を待つだけってあんた仲間は」と僕は言った。

「いますよ」とペンギンは言った。「いや、いましたと言うべきかも知れないね。彼らと共にいるのは、とても危険です。弱った僕がいることによって更なる天敵が我々を襲います」

「賢明な判断だ」と犬は言った。

「ありがとう」とペンギン。


 我々は、しばらく話をした。そしてここがどうやらニュージーランドのどこかの島だと知ることが出来た。ペンギンは、シュレーターペンギンで左翼が無いことを除けばまともな雄のペンギンだった。

僕は言った。「しかし、翼が無いくらいどうにかなりそうに思うな」

ペンギンは、首を横に振った。「たとえば鳥の左翼が無くなったとしましょう、鳥はどうなりますか」

「猫か、蛇にでも食べられてしまうだろうね」

「つまり、ぼくの翼が無くなったのはそれと同意義だと思ってもらって結構です。狩にも出かけられないし、肉食獣に襲われても逃げることさえ叶わない」

「じゃあせめて」と僕は言った。「包帯でも巻かせてくれないか」

「あ、おい馬鹿」と犬は溜息をついた。

しかし、ペンギンは、犬を遮って言った。「宜しければお願いします」

 僕は、そう言われると一目散に部屋に戻って包帯と消毒液を取りに帰った。帰り道は、わかりやすい。空中に不自然に黒い線みたいなのが見えるのだ。自分の部屋は、実に寒かった。暖房のかかった部屋と外を行き来するのとはまた違う違和感だった。部屋は暗く扉からは、明るい夏の日差しが零れていた。僕があらためて覗きこむとぼうっと僕の顔が暗闇に浮かび上がった。洞窟で金塊を見つけた海賊もこういう風に顔を照らされるに違いない。


                     *


 包帯を巻き終わるとペンギンは、再び元の場所に座った。犬も相変わらず木陰で舌を出していた。

僕は、ペンギンが椰子の木陰で朽ち果てていく様子を想像してみた。見るに耐えない光景だった。腹を空かせたまま意識がなくなるまでひたすら耐えるのだ。僕は、だんだん、いたたまれない気持ちになった。

それに彼の翼以外は、本当に健康的な体つきだった。まるで太い酒瓶みたいな丸々としていてどうどうな姿だった。とても彼が今から死ぬなんて考えられなかったし、惜しく思った。

「なにか、君のために出来る事は無いのか」と僕は言った。

「ないよ」と犬は言った。「さあ、もう帰ろう、十分だ」

「十分なわけ無いだろう」と僕は怒鳴った。「何でお前は、そんな冷たいことを言うんだ」

「分かってないのはお前だ。今、彼がな」

「一つだけ」とペンギンは犬を見て言った。それから僕の方を向いた。「あるんだ。 僕は、都会を歩いたことがない。ビルとか大きい建物の間を一度でいいから歩いてみたいんだ」

 頼めるかなとペンギンは、首をかしげた。僕は、もちろんと言った。犬はもう何も言わなかった。

僕は、ペンギンと一緒に砂浜を歩き自分の部屋に招待した。ペンギンの足を拭き、僕の足も拭いて犬の足も丁寧に拭いた。犬は、何も言わない。自分の部屋のフローリングにペンギンがいるという光景は、なんとも変な気分だった。ペンギンは、畳の感触を足で一歩一歩探るように歩いた。そして辺りの様子を覗っていた。

「良い部屋だ」とペンギンは言った。

「何処に行こうか」と僕は聞いた。

「いいや」とペンギンは言った。「玄関までで十分だ。ありがとう」

「いや、そう言わずに」と僕が言うと犬は吼え始めた。

犬が吼えているのは、初めて見た。たぶん犬は、不機嫌になっているんだ。理由は分からない。

「分かった。分かったよ、玄関までだ」

犬は、吼えるのを止めた。

我々は、玄関先まで行くと僕が扉を開けた。ペンギンは、感心したように頷いて僕を見上げた。

「どうもありがとう」と言った。

そのままペンギンは、玄関を出ると階段を一段ずつジャンプして下って行った。僕は、ペンギンが見えなくなるまで見送っていた。ゆっくりと着実な歩みだった。彼の姿が見えなくなると僕は、扉と鍵を閉めて部屋に戻った。


 夜になってやっと犬が口を聞いた。

それまでずっと犬は、何も言わないで犬のベッドに丸まっていた。晩飯も食べなかった。

これは、いけない傾向だったが、犬が喋ったのを見て心からほっとしていた。だけど犬は、いつに無く真剣だった。僕の目をまっすぐに見つめた。僕は、彼の瞳や表情からはっきりと怒りと言う感情を捉えていた。

「もし君が」と犬が言った。「今までの生活をやめ無ければならないとしよう。君は、野山を駆け回っていて自由に生きていたんだ。しかし、それをやめて檻の中で生活をしなければならない。自由はない。でも食事には困らない。幸せだと思うか」

「哲学の話か」と僕は、聞き返してみた。

「いいや、そのままの意味さ」

「多少、不便であっても生きれるならそれに越したことはないだろうよ」

「そうか」と犬は言った。「ならばペンギンも君と同じことを考えていると思うかい」

「分からないよ」

「じゃあ、君は、あのときに彼に包帯を巻くべきじゃない」と犬は言い切った。

「なぜそうなる」

「いいかい」と犬は静かに言った。「彼は、自然のなかで自由な生活を選んでいたんだ。その摂理の中で彼は、左の翼を失った。そして彼は、死を望んでいた。そんな彼になぜ君は、中途半端な気持ちで手を差し伸べたんだ。酷いと思わないか、彼に救いの無い希望を見せるんだ。彼がもし君のせいで生きたいと思ってしまったら君は、どう責任を取るつもりなんだ」

「一緒に暮らせば良いだろう」と僕は言った。

すると、犬は、そうか、と言った後、僕に背を向けて犬のベッドに戻った。僕が声をかけようとすると犬は、もうほうっておいてくれと言った。


                      *


 私が思うに犬は、たぶん僕にこう伝えたかったのだ。

お前の価値観を他人に押し付けるなと。私は、ペンギンを見た時、同情した。同情とは、いわば見下しなのである。私は、上から彼を見て勝手に不自由で困っていると決め付けていた。確かに彼らは、弱っていて困っていたかもしれない。だが動物には、我々が踏み込めない領域の世界の戦いが存在する。それを人間の勝手なエゴで踏みにじってはいけない、と私は思った。

 私は後に犬が言う自由の利かない檻の中にいる人間を目の当たりにした。我々は、必死に彼らを助けようとしたけど本当の意味で助けることが出来なかった。人は、人に尊厳を与えることが不可能なのだ。生きているだけの人間を見るのは、苦痛だった。絶対に彼らのようになるまいと我々は誓う。だが、生きているだけで幸せになれると思っている奴らがいる限り我々は、無意味な生に直面させられるだろう。もちろん私は、檻の中に入ったことはない。だが、自分が入ったことを考えると背筋がぞっとするのだ。

 まあ、諸君も一度、檻の中で生活してみると良い。ペットショップに行くと憂鬱な雨が心に打ちつけるだろう。


                      *


 数日後、街中で左の羽が折れたペンギンが車にひかれて死んでいるのが見つかった。

僕は、耳を疑った。彼は、無残な最期を遂げていた。車のタイヤに巻き込まれ、ミンチになって消えてしまっていた。酒瓶のような見事なカラダも今では血の塊だ。僕は、後悔の念に苛まれる。深い後悔だった。今にも体が真っ二つに裂かれそうな痛烈な痛みを伴う。

 朝の情報番組で取り上げられていたのだ。犬と僕は、それを黙って見続けていた。犬は何も言わない。

『誰がこんな酷いことをするんでしょう、こんなことが出来る人間がいるんですね』と何も知らないコメンテーターは言った。

僕は、彼の言葉で耐え切れなくなった。それで家を飛び出して玄関を閉めるとその場で崩れおちた。両手で頭を抱える。そうでもしないとこのまま僕は、二つに割れてしまいそうだった。なぜ僕は、あんなことをしたんだろうか。僕の中で犬の言っていることが、ぐるぐると回った。もしもペンギンが僕の与えた希望によって生きたいと、救いを求めていたとすれば、僕は、彼にどれくらい辛い思いをさせてしまったのだろう。そう考えると頭の中が真っ青になった。自分の髪を強く掴む。

 僕は、ふと隣にある傘立てが目に入った。なにやら傘立てから紐のようなものが伸びていて風に靡いていた。包帯だった。僕がペンギンの腕に巻いた短い包帯だった。彼の血が頑固にこびり付いていた。僕は、わらを掴む思いで包帯を捕まえた。間違いなく彼のものだった。

僕は、包帯を掴むとすぐ下のコンクリートの壁に文字が彫られていることに気が付いた。

『ありがとう』と書かれていた。僕は、それを見て泣かずにはいられなかった。ペンギンは、酷い仕打ちをした僕にありがとうと言ったのだ。あとで僕が後悔したとき絶望させないために。僕は、包帯を握り締めながらペンギンが安らかに眠れるように強く祈った。硬く手を合わせてペンギンのことを想った。どうか、どうかと。僕は、ひたすらに願っていた。

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