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コリドラスな祖父

 僕は、近鉄タクシーの後部座席に座っていた。

 隣には母方の祖父がスポーツ新聞を広げていて運転手は、卜部 隆と言う全く見慣れぬ名前だった。中年の男性で顔は、よく見えない。その代わりに白髪が混ざっている頭は良く見えた。

 僕は、運転手の後頭部を眺めた。時間は十時四十分になった。ワンメーター六八〇円のタクシーと表記されていた。二キロごとに八十円加算されていった。今は、千円を越えたところだった。

 乗り物にとことん弱い僕は、嘔吐しまいと、さまざまな場所に神経を拡散させた。この行為が正しいか間違いかは、分からない。だけど他に有効な手段も思いつかなかったからひたすら頭部、時間、メーターと順番に眺めていった。


 ふと祖父が眺めるスポーツ新聞で目が止まった。タイミングの悪い事に女性の全裸の写真が大きく掲載されるページだった。祖父がいやらしい画像を見ているという事実は、孫の僕には、なかなかの衝撃を与えた。もちろん祖父も数十年前には、祖母を愛し、抱き、僕の母が産んだのだから女性の裸に興味を抱く事は、おかしくない。だけど僕の思考回路は、この事実を受け入れることが出来なかった。

 ちなみに彼女は、僕の好みではない。彼女の体からは、エロティシズムを感じることは出来なかった。確かに女体で胸の膨らみも確かにあるし、それなりに整った顔をしていた。だけど僕の心には、何も響いてこなかった。僕が生粋のゲイと言う話ではなく、新聞紙に裸を乗せるような女性の裸なんてどうでも良かった。それよりも彼女の両親などは、どのような気持ちでこの写真を見ているのか、そういうことを考えてしまった。

 祖父に彼女がどう写っていたかのか確かめようが無かった。少なくとも祖母には似ていなかったし、直接聞けたら良いが祖父とは、そう言う間柄ではなかった。それに何処の世界に孫と猥談をする爺がいるのだろう。


 今日は、祖父の定期健診の日だった。

祖父は、足が悪く(それ以外はいたって元気だった)補助人が必要だった。いつもなら母方弟夫婦が補助人を買って出たが、どうしたことか誰にも都合が合わず僕に白羽の矢が当たった。100歩譲ってそれは良いとして著しく疑問なのは、前日に連絡が来たことだった。もちろん仕方のない事情があるのかもしれない。僕に頼むのは、最終手段で最後の最後でこの日になってしまった、という理由かもしれない。だが祖父は、診察の二時間も前(病院までは三十分ぐらいの道のりだった)に家を出るくせに、僕には、前日に連絡をしてくるのだ。理不尽に思う。もちろんこの時の僕は、診察が十三時半からなど夢にも思っていなかった。


                *


 昨日の午前六時過ぎに電話が鳴った。

犬がそれに気付いて僕を起こしに来た。なぜ犬は、喋れるのにわざわざ僕の顔を、特に口元を入念に舌で舐めるのだろうか。その起こし方で起こされると気持ちの良い朝とは思えない。僕が目を覚ますと犬は言った。

「電話だぞ」

 僕は、体を起こすと覚醒途中の体を引きずりながら電話の親機を目指した。電話に出ると僕かと確認してきた。僕は、そうだと答えた。

祖父は、粗方の事情を説明すると僕の同行は、決まっていた。僕に拒否権は与えられていなかったのだ。


                *


 メーターが二千円に差し掛かった頃、祖父は、運転手と喋りだした。

服用している薬の自慢だった。祖父は、運転手に自分が薬漬けだと言い張っていた。まるでそれが誇らしいことの様に。僕は、彼らの会話に黙って耳を傾けていた。

「もう、きつい薬ばかりですわ。敵いません」と祖父は言った。

運転手は言った。「でも、生きれる限りは、頑張るしかありませんしね。お孫さんもこうして付いてきてくれるんだから」

 祖父は、運転手の言葉が気に食わなかったのか、言葉を濁した。

「しかし、私の飲む薬は、麻薬みたいなものばかりだ」と祖父は続けた。

 僕は、だんだん腹が立ってきた。だから小さな抗議活動のためタクシーでは、一言も言葉を発しなかった。


 車は、病院の出入り口のまん前で停車した。

タクシーのドアが開くと僕は、真っ先に下車した。胃液が上昇してくる様子は無かったが気分が悪いことに変わりなく。上を向いて浅く深呼吸する。なみなみに入ったコップから水がこぼれてしまわないようにするウツボガラスのような姿だった。祖父は、運転手に深々とお礼を言うと運転手も頭を下げていた。車が行ってしまうと祖父は、やっと僕が顔を青くしていることに気がついた。

「大丈夫か」と祖父は、心配そうに言った。

 大丈夫だと僕は、答えた。「ここは病院だ。吐いても倒れても何とかなる」

 祖父は、それもそうだ、という顔をして病院に入っていった。祖父は、右手に四脚杖を持っていた。だから左後ろに僕は立つ。祖父は、僕を一瞬見失い足を止めたが、僕を確認すると自動ドアを潜った。


 病院は、聖徳太子の遺志を継いだとか胡散臭い文句を掲げていた。

入り口から左側、すぐに受付があり、祖父は、迷うこともなく(迷いようが無い)受付に向かった。受付の女性は、祖父を見るとにっこりと笑い、立ち上がった。だいたい三十手前の女だった。祖父は、ファイルを取り出して女に手渡し、彼女は、注意深く中身を確認していた。彼女は、ピンク色の事務服を着ていて茶色い髪をまとめていた。綺麗な人だった。

受付の女は、言った。「安田様は、二時半からの診察ですね」

 二時半だと、と僕は耳を疑った。受付に置いているデジタル時計は、十一時半を向かえたばかりだった。僕は、頭が痛くなって近くにあった水槽の方へ歩み寄った。もともと熱帯魚が好きだった。というより哺乳類以外の生物はだいたい好きだった。人間は、例外なく嫌いである。水槽には、ネオンテトラ、グッピー、そしてコリドラスがいた。水槽の底には、腐った水草が溜まっていてコリドラスは、必死にそれをかき分けていた。グッピーは、どうやら繁殖に成功しているらしく、白と黄色の中間地点の幼魚と、メダカのような雌と、鮮やかな雄が群れをつくり泳いでいた。ネオンテトラは、数えるほどしかおらず、ほとんどいないようなものだった。

 僕は、水槽から目を話すと祖父と受付の女性が何かを喋っているのを眺めた。受付の女の笑みは、こう訴えているように見えた。

 この爺は、何でこんなにも早くにここに来ているんだ。ボケているのか、と。少なくとも僕にはそう見える。


 僕は、再びコリドラスを眺めた。やがてコリドラスも同じようなことを考えていそうな顔に見えてきて僕は、目頭を押さえた。はて、と僕は思った。

 眺めていたコリドラスだが、誰かに似ているような気がした。今まで熱帯魚屋に行ってもこんなこと考えなかった。ふと僕は、笑顔で話す祖父を見た。コリドラスを見た。祖父。コリドラス。祖父。コリドラス。

僕の祖父は、コリドラスと似ているのだ。


                  *


 数年前の話をしよう。僕の祖父は、変なところでマジメだった。

何が原因だか知らないが祖父は、足を悪くした。歩くと足の痛みを訴え一時期歩くことさえ叶わなかったが、やっとの思いで杖ありで歩けるまでに回復した。足の痛みは残ったものの鎮痛剤で痛みは消えていた。だが、それはあまり良い傾向ではない。

 祖父は、足の痛みが無くなるやいなやウォーキングを始めた。恐らく健康面に気を配ってのことだろう。医者からも少しぐらいなら良いと言われていたが、僕の祖父は、十キロ近くも歩き、しまいに歩けなくなって、タクシーで家に帰った。しかもその間に足の骨にひびが入ったらしく、救急車まで呼ぶことになってしまった。祖母は、電話をかけようとダイヤルを回していると祖父は、それを止めて荷造りを始めた。

 しばらくして祖父は、自分で救急車を呼んだ。救急隊員は、準備を済ませた祖父を搬送して行った。

 搬送には、僕も同行したがあれほど恥ずかしい思いをしたのは初めてだった。


                      *


 受付を終えると病院のエントラスの適当な場所を見つけ座った。

エントランスは、街角の小さな飲食店ぐらいには、人が賑わっていた。受付近くには、テレビもあった。だが、我々が座るところからは、テレビの内容までは見えなくて、代わりに自動販売機が目に入った。

 前の席には、痩せこけた老人とヘルパーが座っていた。彼らは、会話するわけでも無くただ座っているだけだった。


 僕は、椅子に座るとズボンの後ろポケットに入れていた文庫本を広げた。暇を潰せるものを持って来いと言われていたからだ。つまり祖父は、最初から早くにここに着くとわかっていたんだ。

 僕は、怒りを抑えこう考えた。ひさしぶりに静かなところで読書できるじゃないか、と。

 しかし、祖父は、それを許してはくれなかった。彼は、僕がまだ大学に通っていると勘違いしていて。

 訂正するのも面倒なので適当な作り話を祖父に聞かせた。それから祖父は、目の前を通る看護師を見つけては、僕と同じぐらいかと質問してきた。僕の隣を通る異様な太り方をした患者を見ると聞こえそうな声で、あれだ、なんだと言った。僕は肝を冷やした。そのうちに祖父は、持ってきたポケットラジオがどれくらい素晴らしいのかを僕に言ってから自分の世界に入っていった。


 十二時を過ぎると祖父と僕は、自動販売機で珈琲を買い、そのついでに祖父は、病院の公共物として置かれていた新聞を手にとった。それから我々は、黙々と活字を飲み込んでいた。途中、祖父が声を上げた。小さな子どもが病院から飛び出して車にひかれそうになったのだ。祖父は、悪い足で立ち上がろうとするが僕はそれを制止し、子供の所に駆け寄った。幸い近くにいた青年が子供を抱えて病院に入ってきた。子供は、大声で泣いていて母親らしき人間が青年に身を震わしながらお礼を言っていた。僕は、それを確認するとUターンし、読書に戻った。


 数時間が経過しやっとの思いで診察時間を迎えた。

画面が二つあるパソコン以外は、なんら変わりない診察室だった。硬いベッドがあってよくわからない位置にカーテンがあってたまに奥の部屋からナースが顔を出した。よく分からない位置のカーテンの謎はすぐに分かった。この部屋は、もともと長方形の大部屋で入り口が二つあり、カーテンは、ひとつの部屋を二つに分断するために設置された意味のあるものだった。個室から個室へと突っ切って移動することが出来たし、実際にナースらは、突っ切っていた。


 祖父は、患者椅子に座り僕はパイプ椅子に座ると適当な経過を報告が始まった。といってもカウンセリングみたいな物だ。時間にして十分もかからない適当という言葉がお似合いなものだと思う。だが、こんなもののために三時間近く待たされたのかと思うと酷くウンザリした。僕はずっとパソコンに映されるエクセルを眺めていた。祖父が、飲めた薬を報告するとエクセルの項目から何かが引かれて、薬が追加されると何かが増えた。


 診断が終わると祖父は、医者の持つカルテに白い封筒をねじ込んだ。

突然のことに僕は、戸惑いながら何も出来ずにいた。

「いいですから」と医者は言った。

「何もはいっとらんから」と祖父は言う。

 それでも医者は、封筒を付き返そうとするが祖父は、頑なに拒み、逃げるように部屋を出た。僕は、何も言えなかった。いったい何が言えるのだろう。


 僕は、祖父が出てから少しだけ部屋に留まった。でも医者は、カルテに何かを書き込んでいて僕には、気付いていなかった。

 部屋を出るとなんだか酷く嫌な気分になった。身内が犯罪の片棒を担いでいたようなそんな濁った気分だった。僕は、あの封筒には何が入っていたのか、ずっと聞こうとした。だけど聞く事が出来なかった。何が入っていいても僕にとって良くない知らせには、変わりなかった。


 祖父は、部屋から出てすぐにある血圧計に座っていた。

僕は、祖父を見守っていると介護士の男に声をかけられた。なぜ、彼を一目で介護士と断定できたのかと言うと、僕の大学の同期である的場だったからだ。

「ひさしぶりだな、お前介護士辞めたんじゃなかったか」と的場は言った。

僕は、何のことだか分からなかったけど、隣の祖父を見て彼が何を言わんとしているのかが分かった。

「ちがう祖父だ」

祖父は、頭を下げ挨拶をした。

友人も愛想よく挨拶をする。

「ちょうど、良かったよ。俺どうしてもトイレに行きたかったんだ。この人、うちの施設の花緒さんなんだけど、見ていてくれないか。体は、元気だけど認知症だ。でもお前なら見れる」

 的場は、僕の言葉も聞かずにさっさとトイレに走って行った。

 僕は、とりあえず花緒という老人を近くのソファに座らせた。いや、座っていただいたと表現すべきだな、と僕は思った。

 僕は、的場がトイレから戻るまでずっと老人と話をしていた。彼は、声が少しだけ大きくて、僕が苦手とするタイプの老人だった。それでも僕は、話をした。祖父は、なぜか口を噤んでいた。どうやら僕を邪魔すまいという彼なりの配慮だったのだろう。


 的場は、本当にすぐに戻ってきた。三分もかかっていない。短いトイレだった。

「本当は、こういうことはしてはいけないんだけどな」と的場は言った。

「それなら看護師でも呼べばよかっただろうに」

「やだよ」と的場は、溜息混じりに言った。「あんまり、ここの奴らはすきじゃないんだ」

 的場は、他の利用者に聞こえないよう小さな声だった。

「もうこれっきりにしてくれよ」と僕は、溜息を付いた。

「なあ」と的場は言った。「お前俺が行ってからすぐ話し始めただろ」

「そうだけど」

「見当違いなことを言ってたら悪いけどな。お前は、変なところで真面目すぎるんだよ」と的場は笑った。「もう少し力を抜けば良いんだよ。俺みたいにな」

「そうだな」と僕は、気も無く言った。

 的場は、そういい残すと花緒と共にエントランス方へ歩いて行った。

僕は、祖父の隣に座ると、蛙の子は蛙か、と思った。いや、コリドラスの孫は、コリドラスかな。祖父は、的場について、聞いてきた。僕の大学の同期だと教え溜息を付いた。

 するとナースが祖父の名前を呼び上げた。


 家に帰ったのは、三時半になってしまった。

朝から何も食べていなかったため(吐かないためだ)頭が麻痺したのだろう。インスタントカレーを茹でたお湯でインスタント麺を作ってしまった。作りすぎたことや、衛生的に良くない事も気付いたのは後になってからのことだった。

 カレーを食べ終わる頃に犬が足元に寄ってきた。尻尾を振り僕の座る椅子に前足をかけた。

「何か食べるか」と犬に聞いてみた。

 犬は何も言わなかったが、同じ姿勢で尻尾を振り続けた。やがて僕の方が折れて犬用のジャーキーを食べさせた。犬は何も言わない。犬が喋らないせいで家の中は、嫌に静かだった。

 犬にジャーキーを与え終わるとテレビを点けた。昔やっていたドラマの再放送だった。7人の探偵が何か理不尽な事件に直面していて主人公の男が酷く腹をたてていた。つまらないドラマだった。テレビを切ってしまうと迷ったあげく、犬の部屋を訪れた。

 犬は、フローリングの床に寝転んでいた。僕は、犬の飲み水を変え、犬の隣に座った。しばらく黙ったまま、過ごしていると犬は言った。

「なにか話したい事でもあるんじゃないかい」と犬は言った。

僕は、また迷って言った。「いや、なんでもないよ」

 犬の頭を撫でてから犬の隣で眠った。

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