犬は犬にしか恋をしない
ありえない失恋であった。
愛しい花嫁が目の前で見知らぬ男に吸い込まれていくような、そんな失恋だった。取り残された男は頭のネジが何本か抜け落ちて、泡を吹いて卒倒するだろうが、僕の頭はパンクしなかったし泡を吹いて倒れることもなかった。なぜなら僕が失恋したのはアニメーションのキャラクターだったからだ。
もちろん、憤りを感じてないわけではない。裏切られるはずの無い人に裏切られた絶望もある。けれども珍しい体験をしたものだな、という関心も存在し、お互いが一歩も引かないでせめぎ合い、絶妙な均衡状態で笑うことしかできなかったのだ。まさにピエロの綱渡りのような状態だった。この心情を理解していただけるだろうか、もしわからないのならば図面に書き上げて説明したって良い。
話を続けよう。
普通はアニメのキャラクターに失恋なんてしない。彼女らは何も言わず微笑み、僕が何をしていようとも表情一つ変えず、気にも留めないだろう。崩れることの無い一方通行。可能性を上げるとすれば作品の中である。ヒロインがヒーローと恋に落ちてしまったら我々は何も出来ないまま苦い失恋を噛み締めることになる。
しかし、言っておくが僕が失恋を経験したのは現実の話である。失恋とは理不尽なものかも知れないが、僕に降りかかったってきたのは天災とか、そういった類の理不尽で、けして笑い話などではない、と思う。
*
SNSに登録した僕は、ナリキリアカウントと関わっていた。
『ナリキリ』とはいわばオンライン上のコスプレイヤーである。既存のキャラクターになりきってツイートし、コミュニケーションを行なうアカウントを指す。ごっこ遊びの派生系の物と捉えてもらって構わないだろう。僕にはナリキリの知り合いが四人いて。うち一人が僕がもっとも愛しているキャラクターのナリキリだった。彼女を初めて見つけた時、僕は子供のようにはしゃぎ回ったあげく、友人申請を送った。まるで初恋の相手にポエムを渡す中学生のような衝動を思い出す。だって、そうであろう? いわばテレビアイドルよりも空想上の生き物である彼女と繋がることが出来ると考えれば実に夢がある話だ。
関わってみると本当の意味で彼女は女性だった。
コメントの返信も丁寧で好感を持てたし、この人となら仲良くなれそうだな、と僕は感じていた。だけど僕の甘酸っぱい予感とは裏腹に排水溝のヘドロみたいな全容が徐々に露になった。
最初は微かな違和感だった。やたらと主人公の名前をピックアップしてくる。僕が愛しているキャラクターのどこが素晴らしいかと言う事を語っていると横からいちいちお礼を言ってきて(とてもありがたいことだ)。
「でも私には(主人公)がいるからごめんね」と彼女は言う。
わざわざ僕が失恋しているみたいになるのが、少し嫌だったが彼女がいい人である事には変わり無く、挨拶ぐらいをする仲を保っているとどうやら彼女には同じSNS内に相手役の男がいることがわかった。それも原作の主人公のナリキリをしていて、さらには実際に交際している彼氏だと言う。ツイート上では彼氏との生活を存分に垂れ流し、酷いときには彼の家に泊まっているなど、知りたくもない情報まで投げ込まれる始末である。
愛を語っている最中、彼女はナリキリを止めない(これが最もいけない)。これでは僕の愛しのキャラクターが僕以外の男への愛を存分に語るのをただ眺めているのと同じだった。男もそれに答えないわけがない。僕に出来たことといえば彼女とその彼氏をブラックリストに放り込むことだった。
僕の怒りはこうだ。なぜアニメーションのキャラクターにまで失恋をしなければならないのかと。その一点に尽きる。
こういう類の事は吐き出すのが一番である。全てを吐き出してドブ川にでも放り出して、すっきり洗い流してしまえば良い。すると他人からすればある程度の笑い話になりえるし、娯楽としても提供できる。だけど実際は他人からすればどうでもい話であろうし、実際に諸君もブラウザバックを考えているはずだ。こんな話、聞かされても面白くもなんともないからだ。
なので僕は犬に話をする。
僕よりも流暢な日本語で喋る犬だ。僕の家には僕と会話をしてくれる犬がいるからその方が堅実なのである。
*
長い話が終わった。
犬は、やれやれとその場で伸びをした。それから体をパタパタと震わせ犬用ベッドを抜け出し、胡坐をかいている僕の周りをぐるりと旋回した。ほとんど何も無いようなフローリングの部屋だから爪の音は調子良くカツカツと響いた。犬は何かに納得するとベッドに戻る。犬用ベッドに突っ伏すと、狼を思わせる大きな口を開け長いあくびをした。
「犬は犬にしか恋をしない」と犬は言った。
僕は一呼吸置いてから言った。
「犬も恋をするんだな。お前がどんな犬に恋をするのか興味があるね」
犬は「はっはっは」と笑い、再び小さく鼻で笑った。犬と話をするのは、何度目になるかは分からないけど、今でも悪い夢を見ているんじゃないかなと、僕は不安になった。
「私は犬嫌いだよ」と犬ははっきり言った。「でも、ドッグランで知り合ったハウンドのトモゾウは2丁目のハスキーが気になっていると聞いた事がある」
なんだかアメリカンジョークの一説を聞いているみたいだった。僕は、軽く咳払いをして話を戻した。
「犬が恋をするかは知らないけど、僕は少なからずアニメキャラに恋をしていたと思うな」
「私には、理解できないな。」と犬は言った。「君は平面に描かれた女性に恋をしていて、しかもその絵は肖像がですらない。なんと言うかコミカルチックな絵な訳だろう」
「まあそうだな」
「やれやれ」と犬は言った。
キャラクターに恋をするなんて馬鹿だったと思う。
ぺらっぺらのクリアファイルに絵が付くだけで千円近くする世界だ。我々はそれに躊躇いも無く金をはたく。正気の沙汰じゃない。
「でも恋とはそう言うものだよね」と犬は、言っていた。
「僕はオタクがキャラクターに抱く気持ちが恋だなんて到底思えないね。ましてや愛でもない。そんなわけないよ」と僕は言い切った。
なぜなら彼らは簡単に切り捨てる。携帯の機種変更でもしているような感覚だ。見ていてそれはあんまりだと僕は思った。
一昔前、僕にもオタクの友人が居て。彼らは挙ってキャラクターに対し揺らぐことの無い無償の愛を注いでいた。そんな彼らに僕はちょっとした敬意のようなものを払っていたと思う。無償の愛などそうそう簡単に注ぐ事はできないものと僕は信じていたからだ。馬鹿にされようとも、世間に敬遠されようとも彼らはまっすぐ決めた道を行っているように僕には映っていた。
月日が流れ、ふと僕が振り返ると彼らはみんな別のキャラクターを愛していた。僕はなんだかやるせない気持ちになる。だって彼らは自分の良いときだけ散々彼女たちを弄んでいて、いざとなったら簡単にゴミ箱に捨てているのだ。彼らは、それを萌えないゴミと笑っていた。例外も、もちろん存在するんだろうけど、僕から見える大多数は電車でも乗り換えるみたいに他のキャラクターのTシャツに袖を通していた。
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****さんよりメッセージ
件名:なし
内容:挨拶も無しにいきなりで悪いけど、彼女と僕は付き合っているんだ。
だから僕は、彼女を守る義務があるからこうしてあんたにメッセージを打っている。あと、いつもあんたがあいつに話しかけてくるのを見て滑稽だと笑っていたよ。でもね、最近はとても嫌な気分になってしまうんだ。
ストーカーを見ている気分みたいだ。彼女もうっとおしいと言ってた。常識的に考えて人の彼女にしつこく絡むのは、マナー違反だと思わないのか?
まあ、別に話しかけるのをやめろとは言わないけどさ、常識の範疇で話しかけろ。
2008/6/12
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犬は溜息をついた。
身を起こし不味そうな水に口を付ける。二口だけ口を付けてから「変えてくれ」と犬は言った。僕はdog waterと書かれた白い器を持って洗面台に行き、器を漱いでから水を入れた。
戻ると犬は待ちどうしそうに尻尾を振りっていた。部屋の中心に座って舌を出し短い呼吸を繰り返していた。僕が犬の目と鼻の先に水を置くと犬は勢い良く水を飲んだ。飲み終わると舌でぺろりと口を拭い座った。僕も犬の目の前で腰を下ろし、犬を眺めた。犬はぼうっと空くうを眺めていていた。僕から見て左側、犬から見て右側だった。そこには誰もいなくて、白い壁があるだけだった。なのに犬は何かを眺めているみたいに一心不乱に「何か」を見つめていた。
僕は犬が何を見ているのかを必死に考えていた。壁のシミかもしれないし、空気中を漂う塵かもしれない。または人には見えない何かが存在していて人間には聞こえない言葉で人間をあざ笑っているのかもしれないな、と僕は思った。
しばらくして犬は何かを諦めたようにベッドに戻った。足を器用に折りたたんで体の何処かに格納した。
「つまりだ」と犬は言った。「アニメキャラもこの水も同じようなものなのさ。
消耗品なんだよ。よくアニメキャラは歳をとらないだとか言われるけど、実際はすごい勢いで老いている」
「犬よりも早く」と僕は言った。
「そうだね。そうなると犬は偉大だよ。そう言った意味なら人間とほぼ同じぐらいから存在しているし、ゴールデン・レトリーバーなんて一九世紀後期から今尚存在しているんだ。犬は、なんて素晴らしいコンテンツなんだろうか」
僕は、仕方なく頷いた。犬はそれを確認すると満足そうに頷く。
犬は言った。「まあ、アニメも犬もなくて困る人は居ない。アニメが無いと地球が無くなってしまったり、人を殺してしまう人間を想像できるかい」
僕は言った。「まだ世界からアニメは無くなっていないから分からないね」
「君はどうなんだ」と犬は首をかしげた。
僕は、少しだけ考えて言った。「泡は、吹くかもしれないけど人は殺さないかな」
「覚えておこう」と犬は笑った。
*
アニメが無いと困る人は、たくさんいた。
偏ったデータかもしれないがオタク文化は日本経済の一部を支えていたし、明日から急に無くなればたくさんの失業者が生まれる。もしかしたら人殺しやレイプが発生するかもしれない。犬と同様、オタク文化も人間の一部として根を下ろし始めていた。
娯楽とは、無くても生きていけるようでそうでもない。なくても困らないものは最初からこの世には存在しないのだ。地球が無くなってしまったとしても人間とアニメと犬は生き続けていくだろう。
*
犬は、再びベッドからフローリングの部屋に飛び出した。それから冷たいフローリングに座り込んで器用な後ろ足を使い耳の後ろをボリボリとかいた。ちょうど僕の背中合わせになるだろうか。
「ところで何の話だったか」と犬は気持ち良さそうに言った。
「恋の話だな」
「ああ、そうだったね」と犬が言った。「私が思うにね。素晴らしいか醜いかそういう話はおいといて少なくともオタクはキャラクターに恋をしているんだ」
「へえ」と僕は、無関心な返事をした。
「だけど、それじゃ駄目なんだ。そんなのは何の意味も無い。我々犬の爪の垢にさえもなれないね」
犬はフローリングの床をコツコツと二回突いた。
「垢になりたいとは思わないけど、念のために聞こう。君にとって意味のある恋とはなんなんだい」と僕は聞いてみた。
「愛を知ることだね」
犬は、自信に満ち溢れながら言い放った。僕は鼻で笑った。
あとになっての話だ。
犬の言っていた事は半分当たっていた。なぜなら我々は訳も分からずに恋だの愛だのと、ほざいていたからだ。僕が結論にたどり着いたとき、本当にこの世に愛は存在しているのかと、心底疑問に思った。
愛だと騒いでいたものが、実は全く違うものだったのだから当然絶望する。長い間、我々は間違った見解を自慢げにぶら下げていたからだ。裸の王様も同然だった。
多くのオタク達は、キャラクターに恋をしていると思い込んでいる。しかし真実は違った。彼らは自分の痛々しくて見っとも無い姿に酔いしれているだけだ。彼女のことなんて実際にどうでも良い。用は彼女のことを愛しているのではなく、そうやって痛々しい姿を周囲に見せ付けて他人とは違い特別なのだ、と主張しているに過ぎなかった。まだ心のどこかで自分は特別だと思っていて他人との差別化を図っているのだ。可愛いものを可愛いと騒ぐ女と同じだ。そんな人間に愛があるかどうかなんて分かるわけがない。
自分を可愛いと思っている人間は、人を愛することなんて出来ないのだ。
「それは違うよ」と犬は突然言った。
犬はゆっくりと僕に歩み寄ると僕の太ももの上に居座った。顎を僕の太ももに乗せると眠そうに話し始めた。
「愛はね、後から気付くものなんだよ。あと十年もしないうちに私は死ぬだろうけど、君は酷く泣いてしまう。そうだろ」
僕は少しだけ迷って頷いた。
「愛とはそういうことだ」
そう言って犬は気持ち良さそうに目を瞑った。




