プロローグ
突然、僕の家の犬が喋り始めた。
暗喩とか比喩とかそういう詩的表現ではなく、本来の意味どおり犬が喋りだした。犬と言葉を交わしたのは中学三年生のときだ。僕は自分の鼻糞を穿った後、無意識に口へ運ぼうとした。
「美味いか」と突然、誰かが聞いてきた。
「いや」と僕は慌てて答えた。
これが我々の初めて交わした言葉だった。近くで丸まっていたティッシュに鼻糞を擦り付けゴミ箱に捨てた。しばらくして僕はこの部屋には誰も居ないことに気がづいた。僕ははっとして声がしていた方を見た。
犬がいた。
座布団の上に行儀良く背筋をぴんと伸ばし僕を見つめていた。
「急に話しかけて申し訳ない」と犬は言った。「どうしても気になってしまったのだ」
どうしても、と犬は繰り返した。犬は真剣だった。動物の真剣さというものの判断基準は分からなかったけど少なからず犬から真剣さが伝わってきた。僕は犬をまっすぐ見つめ唾を飲む。だけど犬が喋っている状況は上手く飲み込むことは叶わなかった。
僕は犬を手繰り寄せ口や首の後ろ足の裏、とにかく体中を入念に調べた。
何か仕掛けがあると思ったのだ。小型のスピーカーが取り付けられていて、どこかの誰かが犬の吹き替えをしているのだ。僕は焼き物が手に馴染む感触を確かめるみたいに入念で慎重な調査を実施した。調べ終わると犬を座布団の上に再び座らせた。辺りを見回し監視カメラを探した。ここは半分物置のような部屋で箪笥や本棚など、家具が詰め込まれていた。だからいくらでもそういう類のものを隠せたはずだった。だけど探せど隠しカメラもマイクも見当たらなかったし、僕にこんなドッキリを仕掛ける理由も見当たらなかった。
「どうやら混乱させたみたいだね」と犬は申し訳なさそうに言った。「君の行動から何を考えたのかだいだい察したよ。簡単なことだね。だけど君が心配するようなことはなにもない。それの証拠にもう私は、部屋を去る。さよならだ」
犬は、そう言い残すと部屋を去って行った。
*
しばらくして犬のいる部屋を訪ねた。
初めて犬と喋ってから四時間が経過していた。もう日は地平線の向こうに沈んでいて蛙の声が聞こえた。雨蛙の声だった。一緒にクビキリギリスの鳴き声なんかが冷たい夜の空気に響いていた。
犬はフローリングの部屋にいた。犬専用の部屋で窓と白い壁とトイレマットと皿しかない静かな部屋だった。犬はタオルの上で包まっていて僕が来ると顔を上げた。犬は何も言わない。
「本当にさっきは、お前が喋ったのか」と僕は聞いてみた。
犬は首をかしげた。それから僕の目をまっすぐに見ていた。黒く深い色をした犬の瞳だった。犬の瞳には僕が写っていた。まるで暗い水晶の中に閉じ込められている小さな自分を眺めているみたいだ。
犬は、首を横にふると諦めて言った。
「ああ、私だよ」
「お前は、特別な犬なのか」
「No」と犬は言った。犬は、吼える容量でノウと発音していた。
「じゃあ、お前意外にも喋れる犬が居るのか」
「YseでもありNoです。犬は最初から喋れる。だけど我々の中にもルールがある。本当は犬は喋ってはいけない。でも絶対に、でもない。自己責任だ。未成年が酒や煙草をするのと同じ感覚だ。法律は破っているけど、人としての道は外れていない。未成年で酒や煙草をしていても立派な人間になるのは可能だ。喋るか喋れないかは犬次第なんだ」
「じゃあ、なぜお前は喋った」
「理由は簡単だ」と犬は言った。「人間は、なぜ鼻くそを食べるのかが気になったそれだけだよ。オラ・ウータンもチンパンジーも鼻糞を進んで食べるけど人は、進んで食べない」
「そりゃ、賢い行為じゃない」
「いいや、そうでもないよ」と犬は言った。「鼻糞を食べることこそ人としての本能的行為だ。鼻くそを食べることは確かに衛生的に良くない。けど生きるには知らなければならない事もある」
「鼻糞の味をか」
「ああ、そうだよ」と犬は笑った。僕はこのとき初めて犬の笑顔というものを見た。「地球上のあらゆる場所を抗菌グッズで埋め尽くすわけにはいかないだろ。ある程度許容しないと、いつか人間は風邪の菌にだって殺されてしまう」
犬の言わんとしている意味はなんとなく分かる気がした。しかし鼻くそを食べるかどうかは別問題だ。僕は頭をボリボリとかいた。それから犬の手前でドスンと座り犬の頭を撫でた。そう言う気分だったのだ。犬は気持ち良さそうに目を細め、気持ち良さそうな唸り声を上げた。
「それに」と犬が言った。「私が喋ったところで犬には、何の迷惑もかけていない。君が犬は喋ると言ったところで白い目で見られるのがオチだよ」
確かにそうだった。
「また、話せるかい」と僕は、聞いた。
「君が望むならね」と犬は言い、再び笑った。
それ以来僕は、鼻糞を食べない普通の少年になっていた。




