溶けない花と約束の証
神殿の奥に位置する調合室。仄暗い室内に漂う薬草の清涼な香気と、薬湯を煎じる静かな熱気の中に、シエルはひとり佇んでいた。
出立までの限られた時間で、自分が不在の間もリリアの痛みを和らげられるだけの薬を遺さねばならない。卓上に並べられた薬瓶と天秤を前に、シエルは氷の魔力を微細に調整しながら、緻密な作業を黙々と進める。
保管できる限りの在庫を揃え終わり息をついたその時、静寂を破り、重厚な木枠の扉がかすかな軋み音を立てて隙間を空けた。
その隙間から黒髪を揺らしてひょこりと顔を覗かせたのは、本来であれば聖女の部屋で休んでいるはずのリリアだった。
「……聖女様? どうしてこんなところに……」
思わず手を止め、シエルは驚きとともに眉根を寄せた。少女の体調を案じ、駆け寄ろうとしたその時、リリアは小さく首を振って室内へと足を踏み入れた。
その手には、大切そうに小さな布が握られている。
どこか落ち着かない様子で、棚に整然と並ぶ薬草瓶へと視線を泳がせていたリリアだったが、意を決したように小さな呼吸をひとつ吐き出し、抱え込むように握りしめていた白手巾を、そっとシエルへ向けて差し出した。
「まだお料理はできないけれど……刺繍なら、少しはできるんです」
リリアは少し誇らしげに、可憐な笑みを浮かべた。
差し出された白手巾の端には、繊細な銀糸で一輪の花が縫い上げられている。
「シエル様がくださった氷のお花が……とても綺麗だったから。……いつも親身に診てくださる、お礼です」
伏し目がちになり、恥ずかしそうに頬を染めながら、リリアは微かに声を揺らした。
「……人に差し上げるのは初めてなので、上手くできたか自信がないのですけれど……」
かつて彼女の痛みを和らげるためにシエルが作って手渡した、氷の花。その一瞬の奇跡と日頃の感謝を、彼女は夜を徹して手巾の上に留め、シエルへ贈ろうとしていたのだ。
シエルは差し出された手巾を両手で受け取り、愛おしそうに指先でなぞった。
「とても上手だよ……ありがとう」
無垢な愛おしさが胸を満たすと同時に、これから自らが足を踏み入れねばならぬ泥沼の政争と、別れの刻限が冷徹に思考を締めつける。
愛おしさと切なさの入り混じるシエルの佇まいに、リリアはふと表情を曇らせた。
どこか遠くを見つめるような瞳。いつもと違うシエルの雰囲気を、少女の繊細な直感が確かに察知していた。
言葉で踏み込む代わりに、リリアはそっと手を伸ばした。
手巾を握る彼の手に、自分の細い指をそっと重ねる。
「……シエル様?」
シエルははっと我に返り、リリアの心配そうな眼差しを受け止めた。
重ねられた指先から伝わる小さなぬくもり。自分が漏らした微かな陰りさえも彼女は逃さず、ただひたむきに案じてくれている――そう悟ったシエルの双眸に、激しい悲哀と愛おしさが同時にあふれ返った。
「……ごめんね。……ただ、言い出せなくて」
胸の奥の痛みを押し殺し、シエルは穏やかな声を絞り出した。
「……故郷で、どうしても外せない用件ができてね。少し……ノルディスへ戻らなければならなくなった」
「え……?」
静寂の中に落ちたその告白に、リリアの呼吸が止まる。
胸の奥がきしむように痛んで、息が詰まる。
遠い北の国ノルディス――ここからは遥かに離れた、見知らぬ冬の地。そこへ彼が去ってしまうのだという現実が、どこまでも冷たく、悲しく染み渡っていった。
引き止める言葉も持たない自分の無力が、悲痛な波となって押し寄せる。けれど、目の前のシエルの瞳を見つめれば、彼がどれほどの葛藤と苦哀に苛まれながらその言葉を口にしたかが分かってしまった。本当なら片刻だって離れたくないのだと、その瞳が痛々しいほど雄弁に訴えていたから。
リリアは乱れかける息を必死に整え、消え入りそうな声を絞り出した。
「そう……なんです、ね……」
困らせたくないと願う一心で、必死に口元を整えて笑ってみせようとする。けれど、目頭を焦がす熱気とともに視界が白く滲み、薄桃色の唇は溢れ出る切なさに震えてしまう。
「私は……ここで、良い子でお留守番していますから……。だから……」
胸の奥から押し寄せる途方もない寂しさに、ついに堪えきれなくなった。
途切れ途切れの吐息とともに、頬を熱い透明な痕跡が静かに伝い落ちていく。
それでも彼女は、すがるようにシエルを見上げ、消え入りそうな声で切なる想いを託した。
「だから……絶対に、帰ってきて、くださいね……」
その一言が、シエルの自制心を打ち砕いた。
「……っ!」
思考よりも早く、シエルは手を伸ばし、リリアの細い身体を強く引き寄せていた。
腕の中に収まる震える身体のぬくもり。自分の背中に回される、小さく心細い手のひら。
いつ帰ってこられるかもわからない。無事に帰れる保証などどこにもない過酷な渦中へ飛び込むからこそ、軽々しい甘い約束を口にすることすら許されない。
それでも――儚く涙する彼女を、抱きしめずにはいられなかった。
シエルは何も言わず、ただ静かに包み込み、腕の中の小さな震えが徐々におさまっていくのを待った。背中に回した手に伝わる鼓動が少しずつ落ち着きを取り戻すと、名残惜しさを押し殺すように、そっとその体を離した。
それから、シエルは想いを込めて静かに指先をかざした。
冷ややかな魔力が淡い月光のように滲み出し、室内を包む空気が澄み渡る。青白い光が幾重にも折り重なり、夜の空気に美しい幾何学を描きながら、静かに二輪の花の輪郭を象っていく。淡い燐光をまとった光の粒子が寄り集まり、やがて美しく対をなす結晶となって、可憐な形を結んでいった。
リリアは息をするのも忘れて、その光景に見入っていた。
やがて光が澄み渡り、彼の両掌の上にとどまったのは、一輪ずつ細い銀鎖を結ばれた、対となる溶けぬ氷の花のペンダントだった。
「……前に渡した氷の花はすぐに溶けてしまったけれど、これは俺の魔力の結晶だから溶けない。……対で作ったんだ」
シエルは片方のペンダントを手に取ると、リリアの前で静かに膝をついた。
「この花は君の痛みを和らげ、俺の手の代わりに熱を溶かしてくれるはずだ。そして……どれほど遠く離れていても、君を想い出せるように」
低く囁く声は、凍れる夜に灯る火のようにやさしい。
波打つ黒髪をそっとすくい上げ、華奢な首筋へ、壊れ物に触れるような手つきで銀の鎖を回していく。
持ち上げられた一輪の氷花が、月光を拾って淡く瞬く。
シエルがそっと指を離すと、透きとおる氷の花弁は、リリアの胸元へとしずかに舞い降りた。
肌に触れた結晶は、冷たいはずなのに、まるでシエルの指先のように優しく温かい。リリアは両手で、胸元に収まった氷の花をそっと包み込んだ。手のひらから伝わる確かな存在感を愛おしむように、幾度もうなずく。
「苦しくなったら、このお花に助けてもらいます。このシエル様の優しさが、ずっと私と一緒にいてくれますから……」
リリアは目元を袖で拭い、今日一番の、まっすぐで愛らしい笑顔を彼に向けた。
「だから、シエル様……どうかお気をつけて。私、どれだけ時間がかかっても……ずっと、シエル様を待っています……」
「……ああ」
シエルは残された対のペンダントを手に取ると、愛おしむように己の胸元深くへと収め、いつものように優しく、彼女の柔らかい黒髪を軽く撫でた。
そして意を決して背を向け、扉へと足を進めても、つい先刻までその腕に抱いていた彼女のぬくもりだけが、いつまでも去ってくれない。
シエルはゆっくりと振り返り、泣き濡れながらもまっすぐな笑顔を向けようとする少女の姿を瞳に収めた。
その愛おしい姿を目に焼き付け、深く、切なく微笑む。
「……行ってくるよ、リリア」
それは、聖女ではないただの少女へ捧ぐ、彼の一番純粋で強い誓い。
必ず戻ると約束できない彼の、精一杯の言葉だった。
去っていく彼の背中を最後まで見送り、誰もいなくなった室内に一人佇むリリアは、胸元で冷たくも温かい光を湛える氷の花を、溢れる思いとともにぎゅっと両手で包み込んだ。
「……リリアと……、呼んでくれた……」
誰もいなくなった暗がりで彼の無事を祈りながら、耳に残る優しい響きを何度も何度も心の中で繰り返した。




