迫り来る暗雲
神殿の深奥、仄暗い影に沈む自室で、シエルは一通の書状を凝視していた。
遥か北の故郷から、極秘の経路を辿って届けられた密書。そこに刻まれていたのは、あまりに不穏で絶望的な王宮の混乱であった。
病に蝕まれながらも必死に国政を執る兄王。しかし、その補佐を果たすべき王太子ジュリアン――シエルよりわずか二歳年下に過ぎない甥は、功名心と焦燥から強引な策を重ねて暴走し、自ら破滅の崖へと足を進めているというのだ。
そして、その未熟な暴挙を正すべき男の存在。
――宰相レオン。四十を過ぎた今も王国最強の智者であり、幼いシエルに帝王学と統治の術を授け、剣の筋から暗号の解読までを叩き込んだ実質的な師。誰よりも国を思ってきたはずの男が、不気味な沈黙を保っているという。
シエルは卓上の拳を固く握りしめた。
師にとって、国家の命脈は何よりも優先される。危うい王太子をこのまま玉座の近くに座らせておくこと自体が最大の破滅因子だと考え、その自滅を冷ややかに見過ごしているのだとすれば――。
そこまで思い至った瞬間、シエルの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
「あの男は……まさか、俺を担ぎ出すために……っ」
師の恐ろしい腹積もりを悟り、シエルは苦々しく唇を噛む。
兄や甥を押し退けて王座に就く気など、欠片もない。ただ病床の兄を支え、凍える故郷の民を守る力でありたいだけなのだ。それにもかかわらず、師は王太子の自滅を誘って国を崩壊の淵に立たせ、自分を故郷へ、そして王座へと追い込もうとしている。
王宮の頂で繰り広げられる醜悪な権謀術数。その足元で真っ先に踏みにじられるのは、酷寒に耐え、ただつつましく生きる北の民だ。
吹雪の中で肩を寄せ合う人々の姿が脳裏をよぎり、胸の奥で重い苦痛が渦巻く。己を政争の道具として利用しようとする怒りと、無辜の民への切痛な思いが、シエルの全身を射抜いていった。
だが――密書の末尾に並べられた、さらなる暴挙を目にした瞬間、シエルの血の気が完全に引いた。
『――王太子ジュリアンは、南の国エルリアへ向け、神殿の『聖女』を北の王太子妃として召し上げると通告した』
シエルの表情から、一切の感情が消え失せる。
握りしめた革紙の縁から白い霜が這い伸び、指先から零れ落ちた極寒の気が、密書の破片を瞬時に凍らせて儚く砕き散らせた。
白い吐息が落ちるたび、室内の空気が急速に温度を失い、卓上の薬瓶の表面へ薄い氷の膜が張りつめていく。
氷結した湖のごとき双眸の奥で、底知れぬ冷気が鋭く研ぎ澄まされていった。
「あいつらの薄汚い権力争いの毒牙を……彼女にまで向けようというのか……っ!」
低く絞り出すような呟き。ただ国を救うため、この壊滅的な冷害を乗り切る道を真摯に模索してきた努力のすべてが、身内の浅はかな功名心によって灰に帰そうとしている。
砕けた紙片が床に落ちる微かな音だけが響き、室内に重々しい静寂が落ちる。
閉ざされた瞼の裏に、激痛に耐えながらも自分に小さく微笑んで見せた、リリアの可憐な面影が浮かび上がる。
ゆっくりと目を開く。乱れかけた気配はスッと肌の奥へと沈み込み、アイスブルーの瞳には鋭く澄み切った絶対的な覚覚悟だけが残されていた。
「俺が……行くしかない」
迷いを完全に断ち切ったシエルは、荘厳な神殿の最奥を目指した。
数か月前と変わらず神聖な気品に満ちた大司教の執務室。その重々しい木彫りの扉を、シエルは躊躇なく押し開いた。
書物の山と繊細な彫刻に囲まれた机の奥から顔を上げた大司教は、現れたシエルの佇まいと、その瞳に宿る異様なまでの熱量を目にして、静かに羽根ペンを置いた。
青年の手元に残る氷の破片、そして全身から立ち上る冷気の余韻。それだけで、尋常ならざる事態が起きたのだと悟る。
「……何かあったようですね、シエル……いや、北の王弟殿下」
その称号を口にされた瞬間、シエルはわずかに表情を引き締め、深々と礼を尽くした。胸中で渦巻く焦燥を抑え込み、努めて冷静な声を絞り出す。
「こんな夜更けに無作法な押し入り方をいたしましたこと……どうかお許しください、大司教猊下」
頭を下げる青年に、大司教は咎める色も見せず、ただ深みのある眼差しを注いだ。その沈黙を受け止め、シエルは言葉を継ぐ。
「先ほど北より密報が届きました。我が甥である王太子が、聖女リリア様を王太子妃として要求するという愚行に及びました。……南の国への度を越した不敬であり、両国の均衡を破綻させかねない暴挙……。ノルディスの王族のひとりとして、心よりお詫び申し上げます」
絞り出すような謝罪に、大司教は苦渋を滲ませ、首を振った。
「……あなたが頭を下げることではありませんよ。しかし、あなたの努力を無駄にするような動きをどうして……」
大司教の労わる言葉が、かえってシエルの胸を締めつける。
「我が身内の浅はかさと暴走……恥じ入るばかりです。重ねてお詫びの言葉もございません」
悔しさを噛み殺し、シエルは低く言葉を切った。冷え切った呼気が、どこまでも深く鋭い覚悟を物語っていた。
大司教はそこで一度言葉を飲み込み、研ぎ澄まされたシエルの視線を正面から受け止めた。
一歩も引かぬ決意を秘めた瞳。その奥にある揺るぎない意図を悟り、老いた聖職者の眉根がわずかに寄る。
「……まさか、あなたご自身がノルディスへ向かうおつもりですか?」
「はい。北の毒牙を折らぬ限り、聖女様を狙う根本的な危機は去りません。勝手なお願いであることは百も承知です……私に神殿を一時離れるお許しをいただきたい」
シエルの迷いのない返答に、大司教は深く重い息を吐き出した。天を仰ぐように目を閉じ、しばし思考を巡らせる。
シエルがもたらす特殊な氷の魔力と、並外れた薬調合の知識。それが今、衰弱する聖女の命を繋ぎ止める唯一の希望であることを、誰よりも理解しているのはこの大司教だった。
「……困りましたな。あなたが神殿を離れれば、聖女様の痛みを和らげる薬を作れる者がいなくなってしまう。その意味は、私にとってもあまりに重い」
「出立までの間に、聖女様が当座の痛みに耐えられるよう、できる限りの備えをさせていただきます」
執務室に重々しい静寂が満ちる。
大司教はしばらく無言のまま、若き王弟の顔を見つめていた。その頑ななまでの決意と献身の中に、偽りのない真実を見たのだろう。やがて、その双眸に確かな信頼の色を宿し、深く頷いた。
「いいでしょう。聖女を守るための戦いもまた、あなたという男にしか果たせない使命なのだろう」
大司教は重厚な机の向こうからゆっくりと立ち上がると、シエルのもとへ歩み寄り、その肩へそっと重みのある手を置いた。
「私はこれよりエルリアの王宮へ向かい、ノルディスとの開戦を断固として阻止しましょう。聖女様は信頼できる神官たちに護らせます」
老聖職者の温かくも力強い眼差しが、シエルの双眸を真っ直ぐに見つめ返す。そこに迷いや不安の色は一切なかった。
「……あなたの帰る場所は、いつでもここに空けておきます。だからこそ――必ず無事に、生きて聖女様のもとへ戻りなさい」
己を待つ者がいる。守るべき場所がある。
その温もりが、これから向かう酷寒の死地へと踏み出すシエルの背中を、強く押し支えていた。
胸中で静かに芽生えた熱い感情を押し殺すように、シエルは緩やかに一度だけ息を吐き出す。
アイスブルーの瞳に宿っていた険しさは消え去り、そこにはどんな困難にも揺らぎはしない、静謐で確かな誓いの光だけが満ちていた。
「……感謝いたします、大司教猊下」
短い返答に万感の思いを込め、シエルは最後にもう一度深く礼を尽くすと、きびすを返して執務室をあとにした。




