琥珀色の図書室で
夜の温もりと静寂が去り、神殿に再びあたたかな昼の光が満ちていた。
神殿の奥深くにひっそりと存在する大図書館は、リリアにとって幼い頃からいちばんお気に入りの場所だった。
高い天井まで届く重厚な木製の書棚には、古い写本や羊皮紙の匂いを纏った記録がぎっしりと並んでいる。
窓から差し込む秋の陽光に琥珀色のチリが舞う、神官たちも滅多に足を踏み入れないこの場所は、神殿で唯一、リリアが「聖女」としての重圧を忘れ、ただの一人の少女として息をつける静寂の隠れ家だった。
リリアにとって、ここに眠る本たちは、聖域から一歩も出られない自分と「外の世界」を繋ぐ、たったひとつの窓だった。
掠れたインクと古い羊皮紙の匂いの向こうには、自分が生まれる前の歴史や、遠い異国の風の音が満ちている。
閉じ込められた小さな世界の中で、本だけが彼女に言葉と想像の翼を与えてくれた。
――そして今、シエルの薬湯のおかげで身体の痛みが和らいできて、少しずつ心身に余裕が戻ってきた彼女は、久しぶりに大図書館へと足を運んだ。
静まり返った書架の間を歩きながら、まだ見ぬ土地の記録を探そうとしていた、その時だった。
いつもなら誰もいないはずの空間に、かすかな羊皮紙を繰る音が響いていた。
不思議に思いながら棚の陰からそっと覗き込んだリリアは、小さく息をのんだ。
大きな窓から差し込む斜光のなか、一人の青年が長身を少し丸めるようにして、古い図譜に没頭していた。
降り注ぐ光を受け、やわらかな白銀の髪がさらりと透けて黄金色に輝いている。背の高い書架に囲まれた机の上に何冊もの分厚い書物を積み上げ、一心不乱に文字を追っていた。
書物を手繰るその指先はすっきりと長く、伏せられた睫毛の影から覗くアイスブルーの瞳は、どこか冷たささえ感じるほど真剣な色を湛えている。普段の少し垂れた目元が与える甘く穏やかな印象とは少し異なるその真摯な横顔に、リリアは思わず目を奪われていた。
「……シエル様?」
思わず零れた声に、青年がはっと顔を上げた。
光のなかで澄んだ氷色の双眸が驚きに少し見開かれ、次の瞬間には、いつものように目元を緩めた穏やかな笑みが舞い戻る。
その手元に広げられていたのは、複雑な羊皮紙の地図や、解読の難しい古い記録の数々だった。
「……こんなところで、何をしていらっしゃるのですか?」
リリアが尋ねると、シエルは一瞬だけ困ったように眉を下げ、積み上がった本をそっと隠すように手元を引き寄せた。けれどすぐに、いつものやわらかな微笑みを浮かべて立ち上がる。
「驚かせてごめんね。神殿の薬草について、もう少し詳しく知りたくて……大司教様に閲覧の許可をもらって、調べものをしていたんだ」
「薬草の……調べもの?」
「ああ。君の痛みを、もっと散らす方法がないかと思ってね」
シエルはそう言って、目元を和らげた。
嘘ではなかった。けれど、積み上げられた書物の中には、南の聖域から北の国ノルディスへと抜ける「抜け道」や「旅の行程」に関する記録も密かに混ざっている。北の地を救うために彼女を連れ出す手立てと、その道中に彼女の体が耐えられるよう薬を調合するための準備を、彼は昼の光の中でも推し進めていたのだった。
「……私のために……?」
ポツリと呟いた言葉に、シエルは微かに伏し目がちな笑みを浮かべる。
自分の見えないところでも、こうして重苦しい本と向き合ってくれている。その優しさに胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えながら、リリアはそっと机の傍らへ歩み寄った。
広げられた古い図譜に目を落とすと、そこに描かれた鮮やかな挿絵が目に留まる。
「……綺麗」
ぽつりと零れた感嘆の声に、シエルは作業の手を止めると、そっと身を乗り出すようにして同じページを覗き込んだ。
「ああ、南西の沿岸に咲く陽炎草という花だよ。昼間は蕾を固く閉ざしているけれど、陽が沈む直前のほんのわずかな間だけ、夕焼けと同じ朱色の大輪を咲かせるんだ。潮風に乗って、甘い香りが遠くまで漂うんだよ」
「潮風……。では、この背景に描かれている青いものは、すべて海なのですか?」
リリアが指さした先には、白い泡を立てて波が寄せる広大な海が描かれていた。
シエルはどこか慈しむように目を細め、まるで目の前に海が広がっているかのように静かに語りかける。
「そうだよ。どこまでも続いていて、耳を澄ますと、寄せては返す波の音が響いているんだ。冷たい水しぶきが風に乗って頬を撫でてね」
「……波の音……」
感嘆の息をもらしたリリアが楽しそうに図譜をめくると、今度は高く切り立った崖の上に家々がひしめく絵が描かれていた。
「それは、西の交易都市だね。山裾に沿って石造りの家並みが重なっていて、夕方になると路地から香辛料や煮込み鍋の香ばしい匂いが立ちのぼるんだ」
「煮込み鍋……?」
一人分ずつ美しく盛り付けられて運ばれてくる神殿の食事しか知らず、大きな鍋でぐつぐつと煮込む家庭料理など見たこともないリリアは、不思議そうに首を傾げた。
「ああ。昔、俺を家に泊めてくれた商人のおじさんがいてね。会うたびに奥さんの自慢ばかりする人だったけれど、その奥さんが作る鍋料理が本当に美味しかった」
そう言って昔を懐かしむように目を細めるシエルに、リリアはふと自分の細い手元を見つめ、どこか頼りなげに眉を下げた。
「……やはりご家庭の奥様は、お料理ができたほうがいいのですね……」
自分ではお湯の沸かし方すら怪しいことが急に不安になったのか、思いつめたように心配してみせる。その愛らしさに、シエルは思わずくすりと笑いを漏らした。
「そんなことないよ。世の中にはいろんな夫婦がいるからね。俺みたいに、旅のついでに料理を覚える男だって普通にいるし」
そして、まだどこか気にとめている様子のリリアに柔らかく微笑みかけると、シエルは再び図譜へと視線を落とした。
「この町は夜になると街じゅうの窓に灯がともってね。遠くから見ると、まるで星空が地上に落ちてきたみたいに見えるんだよ」
沈みゆく陽光に揺れる朱色の花弁、寄せては返す波の音、そして遠い街のともしび。シエルの語る生きた言葉は、本の中にしか存在しなかった世界に鮮やかな体温を与えてくれた。
「……シエル様は、本当にたくさんの国を、旅してこられたのですね」
シエルを見つめるリリアの瞳には、純粋な憧れと、眩しいものを見るような温かな光が宿っていた。
「私は、この聖域の外を何も知りません。だけどシエル様のお話を聞くと、まるで自分がその場所に立って、冷たい風や海の匂いを感じているような気持ちになれます」
リリアは少しだけ目を伏せ、けれど隠さずに、わずかに震える声を絞り出した。
「本当は……私も、一度でいいから、見てみたいの。聖域の外の街を、本の中の広い世界を……。あの遠くで見えるお祭りの光の中に、混ざってみたい……。絵本に出てくるみたいに、広いお空の下で、誰かと笑ってみたい……」
ぽつり、ぽつりと零れ落ちる言葉は、ずっと彼女が胸の奥底のいちばん深い場所に押し殺してきた、一人の少女としての切実な願いだった。
聖女として生まれ、聖女として祀られ、いつか静かに消えていく運命。それを疑うことすら許されなかったはずだった。
けれど、ただの「痛みを知る人間」として自分を労わしてくれるシエルと出会ってしまったから。
冷たく整えられた彼女の世界に、初めて温度のある風が吹き込んでいた。
「……叶わない願いだと分かっています。私のこの身体では、外に出たらすぐに壊れてしまうかもしれません……何より、神殿のみなさんを悲しませたくありません……」
「……そんなことはないよ」
彼は図譜から手を離すと、すっと少女の正面に向き直り、少し首を傾げて目線を合わせた。
冴え冴えとした氷色の瞳は深く、その奥には強い光が宿っている。
「諦める必要はないんだ。人は、自分が思っているよりもずっと遠くへ行けるものだから」
シエルは言葉を選びながら、ゆっくりと手を伸ばした。
長くて暖かい指先が、彼女の細い手首にそっと添えられる。脈を確かめるような、けれど確かにそこにある愛おしい体温を感じ取るような、微かな触れ合いだった。
「俺の薬は……まだ、いくらでも良くできる。だから……もう少しだけ待ってほしい」
「シエル様……」
「君が望むなら、痛みはもっと減らせる。……だから、最初から無理だって諦めてしまうのは、やめてほしいな」
「君」と呼ぶ声に宿る温もりと真摯さに、リリアの胸が熱くなる。
自分の存在を、自分の命を、この人はこんなにも真剣に繋ぎ止めようとしてくれている。
「……はい」
リリアは小さく頷き、置かれた彼の指先に、そっと自分の指を重ねた。
卓の上に開かれた古い図譜の上で、ふたりの手が静かに重なる。
二人の距離は、まだ見ぬ外の世界の記憶と未来への小さな予感を辿りながら、ゆっくりと縮まり始めていた。




