その涙は、氷を溶かして
その日から、夜の回廊には、かすかな薬湯の香気が漂うようになった。
月がもっとも高く上り、大理石の回廊を巡る神官たちの足音が途絶える刻。シエルは手拭いで包んだ小さな湯器を静かに抱え、聖域の静寂に守られた彼女の寝所へと向かう。
「……入るよ」
声をかけ、静かに重厚な扉を開けると、そこにはいつも、広い寝台の上で小さく身体を丸めている少女の姿があった。
昼間の神聖で完璧な『聖女』の姿は剥がれ落ち、そこにはただ、途切れ途切れの呼吸で痛みに耐える一人の華奢な少女がいる。
「シエル……様……」
「……ほら、身体を起こしてごらん」
シエルは足音を殺して歩み寄ると、彼女の細い背にそっと手を回し、優しく身体を支え上げた。
差し出された深めの器からは、白く柔らかな湯気が静かに立ち上っている。それは神殿でよく使われる重苦しい鎮痛の薬草の匂いとは、どこか違っていた。ほんのりと甘く、けれど深く澄んだ、北の森を思わせる清涼な香気が混ざり合っている。
「熱いから、ゆっくり一口ずつ飲むといい」
熱の伝わりをもう少し緩やかに、痛みを刺激せぬよう穏やかに散らすように——。
アイスブルーの双眸が、暗がりの中でわずかに冴えた光を帯びる。器を差し出す一瞬、シエルの体内に眠る氷の魔力が、ほんのひと滴分だけ薬湯へ静かに溶け込んでいった。
北の国の冷涼な魔力と、南の地の薬草、そして厳しくも優しい北の野草。それらが繊細な匙加減で調合された薬湯は、彼女の体内の熱を散らすためのものだ。
リリアは深く頷き、華奢な両手で器を包み込むようにして口をつけた。
喉を通り抜ける温かな液体は、胸の奥で苛烈に渦巻く灼熱の痛みを、やさしく包み込んでときほぐしていく。
「……良い香り。いままで飲んでいたお薬と、全然違います……」
「神殿の薬草に、北の地の草の根を混ぜているんだ。……熱を孕んだ痛みを、内側から穏やかに散らす力がある」
シエルは余計なことは語らず、寝台の脇に控えながら、器の温度や彼女の呼吸の深さを静かに見守っていた。
一週間が過ぎ、二か月、三か月と夜を重ねていった。
運ばれる薬湯は、その日その日の彼女の様子に合わせて、夜ごとに表情を変える。
少女の顔色、呼吸の浅さ、その日の肌の熱の持ち方を見て、シエルは毎夜、調合を微妙に変えていたのだ。
ある夜はハチミツをひとすくい加えて乾いた喉を癒やし、またある夜は香りの強い花びらを浮かべて、苛烈な痛みに削られた心を解かす。
「ふしぎ……。今までどんなお薬も、効かなかったのに……。シエル様は、どうしてこんなお薬が作れるのですか……?」
ほんの少し楽になった声で、リリアがふと問いかけた。
ただの薬師であるはずの青年が、なぜ神殿の誰も成し得なかった術と知識を知っているのだろう、と。
シエルの瞳の奥に、ほんの一瞬だけ暗い影がよぎった。けれどそれはすぐ、伏せた睫毛の下に静かに隠される。
「……昔、薬師のもとにいたんだ」
器の底に残った水面の揺らぎを見つめたまま、彼は言った。嘘を見抜かれないよう、静かな声で。
「だから、幼いころからいろんな薬や毒を口にさせられてね。生き延びるために、毒をやわらげる薬を覚えた。痛みをやり過ごす術も。……だから、君の痛みにも気づけたんだ」
淡々と語られるその言葉に、リリアは息を詰めた。
視線を落とした彼の横顔を、じっと見つめる。
あまりに静かな声だった。けれど他人事のように語られるその言葉の奥に、どれほど凄絶な孤独と苦痛が横たわっていたのか。
一つ、二つ。
月光を吸って光る雫が、リリアの頬をつたい、シーツへとこぼれ落ちた。
「薬師と言えども、まだ、子どもだったのに……どれほど、苦しかったでしょう……痛かったでしょう……」
シエルは、言葉を失った。
弱音を吐かず、毒に耐えて強くなっていく王弟の姿は、周りの大人たちにとってはただ「頼もしい」ものでしかなかった。
幼い日の苦しみを、「痛かったろう」と抱きしめてくれた者など、これまで一人もいなかったのだ。
それなのに今、自身も全身を焼くような聖灼の熱に苛まれているこの少女が――顔も知らぬ、過去の幼い子の痛みのために、静かに涙を溢れさせている。
頬を伝う雫を拭うことも忘れ、細い指で強く胸元を握りしめる彼女の姿。
それはまるで、暗い部屋で一人毒に耐えていた幼い日の自分を、そっと抱きしめてくれているかのようで。
胸の奥で、ことり、と何かが鳴った。
生まれてからずっと、冷たく凍りついていた湖の表面に、静かな亀裂が走る。
取り繕いようのない確かさで、それは深く広がっていった。
あの日、彼女の掌の上で氷の花が溶けて消えたように。あまりに自然に、あまりに後戻りのできない形で、シエルの心が彼女へと傾いていく。
偽りの身分で近づき、嘘を重ねている自分のような男のために、この人は泣いているのだ。
彼女の涙の温もりに、シエルの胸が痛むほど締めつけられる。
罪悪感と、それをはるかに上回る愛おしさが胸を満たしていく。
「……君が、泣くことじゃないよ」
シエルは親指の腹で、彼女の白い頬を伝う温かな雫を優しく拭い去った。
拭っても、拭っても、次から次へと零れ落ちていく。そのぬくもりが、彼の凍てついた心をどこまでも溶かしていく。
「ただの昔話さ。……さあ、薬が効いているうちに眠るといい」
これ以上彼女の涙に触れていれば、隠し通さねばならない自分の正体も、胸の奥で溢れそうな衝動も、すべて溢れ出してしまいそうだった。
シエルはかみ殺した吐息とともに、柔らかなリリアの髪をそっと撫でた。




