密約
重厚な扉が、静かに音もなく閉じた。
シエルは、すぐには歩き出せなかった。
腕の中に収まった、拍子抜けするほど軽い身体。衣越しにも伝わってきた、絶望的なまでに高い熱。そして、崩れ落ちそうな身体を必死で支えながら、自分自身へ言い聞かせるように零した、あの一言。
『……大丈夫……』
シエルがそっと目を伏せると、その儚い呟きが、胸の奥深くに眠る遠い記憶の扉を静かに叩いた。
幼い頃の自分も、そうして痛みを殺し、自分に言い聞かせていた。
北の国ノルディス王家に生まれた者には、毒への耐性を得るため、幼少期からごくわずかな毒を口にし続ける暗黙の習わしがある。身体が毒に慣れるまで、何度でも。
毒の種類が変わるたびに、苦しみの形も変わった。激しい吐き気、全身を刺すような痺れ、割れるような頭痛。そして、身体の内側から焼き尽くされるような灼熱。
苦い薬湯の匂い。焼けつくような喉の渇き。止まらない指先の震え。
『大丈夫……これくらい、耐えてみせる』
王弟としての責務であり、逃げることなど許されなかった。
だから彼は、少しでも苦しみを減らそうと、幼い手で自ら薬草を調べはじめたのだ。どの毒に何の草が効くのか。どれが解毒を助け、どれが痛みを和らげるのか。
薬師に教えを乞い、古びた書物を繰り、最後には自分の身体でその効能を確かめた。
ただ純粋に、あまりの苦しみから逃れたかったからだ。
弱みを見せず、たった一人で耐え抜くことを、幼い心に課していた。
だからこそ、胸の奥が痛むほどに刻みつけられたのだ。
笑って痛みを隠し、「大丈夫」と自分に言い聞かせながら耐えていた、あの少女の姿が。
幼い日の自分を、鏡に映して見ているようだった。
回廊の窓の外では、夜が静かに深まっていた。澄んだ秋の夜気が、白亜の廊下を密やかに満たしている。
シエルは窓辺に立ち、数か月前、この神殿を訪れた日のことを思い出していた。
南の国エルリアからの返答、『聖女を聖域の外へ出すことは、断じて叶わぬ』
シエルは、その返答を恨まなかった。南の王にも守るべき国と民がある。
ならば、別の途を切り拓くまでだ。
静寂の打ち寄せる廊下を静かにたどり、シエルが向かったのは神殿の深奥——大司教の執務室であった。
厚い木枠の扉を隔てたその部屋は、まるで深海の底のように、重く冷たい沈黙に満ちていた。
「聖女様に、北の地へ赴いていただけないでしょうか。女神の威光と救いを、北の国にも広げてほしいのです」
頭を下げたシエルに対し、大司教はすぐには答えなかった。
長年、聖女の成長と苦難を間近で見守ってきたその瞳には、深い憂いと静かな拒絶の色が宿っていた。
「……南の王家からは、すでにお断りされたはずですが」
「はい」
大司教は深く静かに目を伏せた。
「聖女様のお身体は、あなたが思っておられるよりも、ずっと繊細で脆い。古代樹が清めているこの聖域の中でさえ、あの方は日々、絶え間ない苦痛に耐えていらっしゃいます。俗世の穢れや荒波に晒せば、その命がどれほど縮むか……。そのような長い旅に耐えられるとは、私には到底思えません」
それは政治的な駆け引きや冷淡な拒絶ではなかった。
幼い頃から見守ってきた聖女の身を心から案じ、これ以上彼女に苦難を背負わせたくないという、一人の親のような切なる祈りが、静かな声の底に沈んでいた。
「ならば、私自らを、薬師として傍につかせてください」
シエルはまっすぐに大司教を見つめて言った。
「私が聖女様の熱と痛みを和らげ、無事に旅に耐えうるお身体にしてみせます。……ですから、その時は北の地へ来てはいただけないでしょうか」
大司教の手が、ぴたりと止まった。
手にしていた杖を突く乾いた音が静寂に消え、彼はゆっくりとシエルへ向けて歩み寄る。
老いたとは思えぬほど鋭く光る瞳が、シエルの立ち姿、その双眸の奥底までを容赦なく射抜くように見つめ返した。やがて大司教は無言のまま、シエルの右手をそっと持ち上げる。
その長い指と掌、爪に刻まれた、劇薬による僅かな変色や変形――そして、過酷な試練を耐え抜いた者特有の冷ややかな佇まい。
大司教はそれらを静かに確かめると、深く刻まれた皺の隙間から重々しい息を吐き出した。
「……北の王弟殿下が、何故このような手を……」
それは単純な疑問ではなく、目の前の男が背負ってきた過酷な生の異質さを測りかねる問いだった。
シエルは手を引くこともせず、静かに答える。
「生き残るために身につけた術です。解毒や痛みを和らげる薬草の扱いには長けております。……北の民は今、度重なる冷害によって凍え、病や飢えに苦しんでいます。私は、救いたいのです。民も……そして、耐え続けるだけの、その痛みからも」
その悲痛な眼差しと手から、大司教はすべてを察した。
北の過酷な冷害の現実と、追い詰められた国の窮状を。
「……それほど……」
大司教の言葉には、呆れではなく、それを背負う青年の執念に対する深い嘆息が混じっていた。
「私のこの手も、身につけた術も……すべて差し出します。幸い、病床にあるとはいえ兄王がおりますゆえ、政務に支障は出させません。王弟という地位も矜持も投げ打ち、ただの薬師としてここで仕えましょう」
シエルは迷いのない瞳でまっすぐに見つめ返した。
「惜しむものなど、何もありません」
短く、偽りのない答えだった。
大司教はしばらくの間無言を保っていたが、やがてそっとシエルの手を放した。
「……知識があることと、聖女様を実際に診られることは別のことです」
「承知しています」
「ならば、ここで学びなさい。一人の薬師として働き、薬を調え、聖女様のお身体のことをお知りなさい。神殿がこれまで尽くしてきたどのような薬も、あの方の苦痛を和らげるには足りなかった。あなたの異国の知識と覚悟が、あるいは新たな手がかりになるかもしれません」
大司教の言葉には、無理な期待を押しつけるような響きは少しもなかった。長年見守ってきた聖女の苦しみが、わずかでも和らぐ可能性を模索したいという、一筋の藁にもすがる思い。そして――すべてを背負いながらもまっすぐに立つこの青年に、手を差し述べてやりたいという、静かな慈愛が混ざり合っていた。
「それから、もうひとつ」
大司教の声が、さらに低く、厳かなものになる。
「もし……本当に聖女様を北へお連れする日が来るのだとしても、南の王家に知られてはなりません。聖女様が聖域を出られたことも、北へ向かわれたことも……そして、無事にお戻りになられたことも」
万が一にも知られれば、神殿そのものが王家との決定的な争いに巻き込まれる。
「……すべて、隠し通せと」
「すべてです」
それが、二人の間で交わされた、密やかな約束だった。
それからの数か月、シエルは一人の薬師として神殿に潜伏し、調薬に没頭した。
神殿の薬草の性質を一つずつ確かめ、薬湯を調え、他の薬師たちの仕事を手伝う。そのかたわら、神殿内の構造と動線を静かに記憶に刻み込んでいった。人目につかない裏門、夜間の巡回の刻限、エルリアの王家の使者が行き交う経路、南から北へ向かう商隊や船が出る日取り。
聖女の不在を、どれほど自然に隠し切れるか。
すべては、いつか聖女を北の地へ連れ出すために。
けれど今夜、初めてその腕で抱き留めたリリアの身体は――シエルが想像していたよりも、ずっと壊れやすく、儚かった。
(……この人を、本当に北の極寒の地へ向かわせることなどできるのか)
明確な答えは出なかった。
けれど、そんな政治的な目的とは関わりなく、いまシエルの胸を強く締めつける感情があった。
北へ行くかどうかではない。
今夜、傷つき苦しむ彼女を、少しでも楽にしてやる方法はないのか。この瞬間に、己ができることは何なのか。
シエルは足早に、神殿の調薬室へと向かった。
ずらりと棚に並ぶ無数の薬草を見渡す。
今の弱った彼女の身体に、強い作用を持つ薬は使えない。熱を無理やりに下げるのではなく、苛烈な身体への負担を抑え、呼吸を整え、せめて少しでも穏やかに眠れるように。
幼い頃、己の身体を焼く苦しみを和らげるために必死で覚えた知識。
それを、いま、ひとりの少女のために使う。
薬草を選び出し、丁寧にかみわけて細かく刻む。湯を沸かし、静かに薬草を浸す。
やがて、淡い琥珀色の薬湯が、器の底で静かに揺れた。
「……まさか、こんなところで役に立つとはな」
苦笑のような小さいため息が、薬草の温かな匂いの中にふっとほどけた。
調べるだけの時間は、もう終わったのだ。
これまで蓄えてきた知識を、形にするときだった。




