氷の花と、ちいさな我が儘
シエルは指先で彼女の腕を捕らえ、状態を確かめる。
「呼吸が浅い。脈も酷く速い」
「……少し、めまいがしただけですから」
「それだけには見えない」
思わず、言葉が強くなった。
リリアが驚いたように瞳を大きく見開く。
シエルはそのアイスブルーの双眸で、逃げ場を与えないほどまっすぐに彼女を見つめた。
「……心配させたくなかったんだろう。君を聖女と慕う民にも、大切に育ててきた神官たちにも」
静かに、しかし確信を込めて言葉を重ねる。遠くから微かに届く秋祭りの気配を背に受けながら。
「だから、誰にも見えない場所でひとりで耐えて、微笑みで隠してきた」
「……どうして」
消え入るような声だった。なぜ、誰も気づかなかったことを、初対面のこの人が知っているのか。
シエルは彼女の前で、静かに片膝をついた。目線の高さを合わせる。
「わかるよ。……俺も、昔そうだったから」
その瞳の奥に宿る、静かで深い痛みを、リリアは息を詰めて見つめた。
聖女と崇められれば崇められるほど、生身の身体が悲鳴を上げる傷や苦しみは可視性を失い、誰の目にも映らなくなっていく。
その、誰も気づいてくれなかった「透明な孤独」の場所に――いま初めて、あたたかな体温をもった誰かの手が触れたのだ。
「……ごめんなさい」
リリアが、そっと目を伏せて、ぽつりと呟いた。
自分を責めるように謝る彼女に、胸の奥が痛んだ。
「……謝らなくていい」
シエルの声は、先ほどまでの冷たさが嘘のように柔らかかった。
そこでようやく我に返ったように短く息を吐くと、視線を戻し、形だけの口調へ直そうとする。
「聖女様にあまりに不躾な言葉を……申し訳ありません」
「いいえ」
リリアのかすれた声が、静かにそれを遮った。
「……そのままの話し方でいてくださったら、嬉しいです」
震える指でシエルの袖の端を固く握りしめ、湿り気を帯びた瞳で見つめ返す。
「……私を『聖女』としてではなく……ただの、私として見てくださっている気がするから」
シエルは胸を衝かれたように言葉を失い、ただ静かに目の前の少女を見つめ返した。
回廊を澄んだ夜風が吹き抜け、秋の香気とともにふたりの髪を優しく揺らす。
やがて、シエルは小さく頷いた。
「……分かった。じゃあ、このままで」
リリアが、緊張の解けた顔でほっと微笑んだ。
とたんに――限界を迎えた彼女の身体が、再びふらりと傾く。
「あ……っ」
シエルは迷わず、彼女の小さな身体を腕の中へと抱き上げた。
「部屋まで送る」
「ま、待ってください……っ。他の神官に見つかったら……あなたが困ります」
「この時間なら大丈夫だ。塔の巡回はもう終わっている。次に上がってくるまで、まだ間がある」
それだけ言うと、シエルは躊躇いなく歩き出した。
階段を下りる前には一度足を止め、下の階層から人の気配がないことを確かめる。遠くで扉の開閉音が聞こえれば、陰に身を潜めてやり過ごす。
その手際と身のこなしは、まるで神殿の構造と動線を完全に把握しているかのようだった。
幾重もの回廊を抜け、リリアの寝所へと辿り着くと、シエルは彼女を柔らかい寝台へそっと横たえ、毛布を肩まで引き上げた。
「……ありがとうございます」
リリアが小さく頭を下げる。
シエルはその顔色を窺うように見つめると、そっと掌を差し出して、氷の魔力を集中させた。
彼の指先に冷ややかな澄んだ気配が巡る。空気中の水滴が集まり、月明かりを吸ってひとつの形を成していく。やがて、シエルの掌の上に、小さな氷の花が咲いた。
薄い花弁が幾重にも重なり、硝子細工のように美しく透き通っている。
「少しでも、熱が引くように」
シエルはそれを、リリアの小さな手の上に乗せた。
ひんやりとした冷気が肌に触れ、リリアが安らぐように小さく息を吐く。
けれど――
ぽたり。
掌に触れた途端、氷の花びらから水滴が零れ落ちた。
もう一滴、また一滴。
シエルの精巧な氷の異能であれば、本来なら溶けることなく何時間も形を保つはずだった。けれど、いまのリリアの体内に渦巻く聖灼の熱は、あまりにも強烈すぎたのだ。
氷の花は、見る間にその輪郭を失っていく。
白い指の間を冷たい雫が伝い、シーツへと染み込んでいった。
「……綺麗でしたのに」
溶けていく氷を見つめ、残念そうに呟く声が、どこか幼く聞こえた。
「でも……冷たくて……なんだか、身体の奥の熱が静まった気がします」
その笑顔には、もう自分を偽るような陰りはなかった。
シエルは氷が瞬く間に水へと変わったことに驚きつつも、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……ゆっくり、眠るといい」
そう言って立ち上がり、去ろうとした彼の袖を、リリアの細い手がきゅっと引き留めた。
「あ、あの……っ」
そして、ありったけの勇気を絞り出そうとするかのように、何度か息をついてから、小さすぎる震える声でささやいた。
「あの……。また……会いに来てくださいますか……?」
それは、一生を白銀の籠で過ごしてきた彼女が言える精一杯の、ささやかな我儘だった。
振り返ったシエルは静かに目を丸くし、それから、どこか愛おしむように手を伸ばした。
大きな掌が、そっとリリアの頭に触れる。
指先で髪を滑らせるように、ゆっくりと、撫で下ろす。
まるで、かつて彼女が本の中で憧れていた『家族のぬくもり』をなぞるように、優しく。
「次は薬湯を持ってくるよ。安心して……おやすみ」
扉が静かに閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
リリアはしばらくの間、彼が去っていった扉を見つめていた。
耳を澄ませば、窓の向こうから遠い秋祭りの音が微かに聞こえている。
手の上には、溶けて消えた氷の冷たさがまだ残っている。
体内の激痛を和らげたその不思議な冷気は、まるで彼の優しさそのものであるかのように、リリアの熱い痛みを静かに鎮めていた。
。




