夜の回廊と、透明な孤独
聖域の夜の回廊は、月光を溶かしたような澄んだ水の音に満ちていた。
古代樹の巨木を包む梢が、眼下で秋風に揺れて静かに波打っている。そのさらに向こうには、実りを祝う南の街の灯火が小さく瞬いていた。
神官の法衣を身にまとったシエルは、静寂に包まれた螺旋階段を足音もなく上っていた。
最上階へ続く白亜の扉が、わずかに隙間を開けている。そこから、青白い月光が細く漏れ出していた。
扉の向こう。
塔の上に設けられた小さな展望室に、ひとりの少女がいた。
腰まで届く艶やかな黒髪が夜風にほどけ、遠い街のともしびをかすかに映して揺れている。窓辺に寄せるその横顔はどこまでも可憐で、風に乗ってかすかに届く祭りの賑わい――楽しげな笛の音や人々の歓声を、静かに見つめていた。
シエルは、少し離れた影の中で足を止めた。
声をかけることはせず、ただその小さく寂しげな背中を見つめる。
南の神殿に潜入して数か月。遠目から見守ってきた彼女は、神官や民の前に立つとき、いつだってすべてを包み込むような清らかな笑顔を浮かべていた。
けれど、こうして誰の目も届かないひとりになると――その表情は途端に幼い陰りを帯びて、華奢な身体はどこか壊れそうなほど弱々しく揺れるのだ。
今夜も、そうだった。
ふいに、細い肩が大きく揺れた。
乾いた小さな喘ぎがひとつ。
白い指先が、純白の絹で仕立てられた胸元の衣を強く握りしめ、必死に大理石の窓枠にしがみつくように身体を預ける。
月明かりに照らされた頬から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「……大丈夫……」
誰に聞かせるでもなく、かすかな声が漏れる。自分に言い聞かすように。
けれどその声は、秋風がさっと吹けば消えてしまいそうなほど頼りなく、遠くの夜祭りの歓声よりもずっと儚かった。
かつて自分自身も、同じように痛みを殺してそう呟いていた。
だからこそ理解できてしまう。大丈夫だと自分に言い聞かせなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうなのだということが。
支えようと無意識に踏み出した足を、直前で踏みとどまった。
今ここで姿を現せば、彼女はまた傷一つない微笑みで痛みを隠してしまうと、分かっていたから。
しかし次の瞬間、窓枠にしがみついていた華奢な身体が、ふっと糸が切れたように傾ぐ。
「……っ!」
思考より先に、身体が駆け出していた。
床に倒れ伏すよりも早く、崩れ落ちるその小さな身を間一髪で抱き留める。
腕の中に収まった身の重みは、拍子抜けするほど軽かった。
けれど、薄い衣越しに伝わってくる体温は――まるで身体の底で灼熱の焔が渦巻いているかのように、恐ろしいほどの熱を帯びている。
「喋らなくていい。ただ、息を吸って」
背中に回した大きな掌で、激しく上下する肩を一定の拍でそっと撫で下ろす。包み込むように、優しく、穏やかに。
やがて過酷な熱の猛威が少しずつ潮を引いていき、彼女がおずおずと顔を上げた。
「……あなたは……?」
「通りすがりの神官です。……一応、薬師の真似事もできます」
「そう……でしたか」
リリアは、いつものように無理に唇をほころばせようとした。
けれど、その痛々しい笑顔を見て、シエルの胸に鋭い痛みが走った。
「無理に笑わなくていい」
リリアの長い睫毛が揺れる。思いもよらない言葉に、紺碧の瞳が戸惑いに揺れていた。
「苦しいときは、苦しいと言え。……嘘は、いらない」
声が冷たくなったのは、怒りのせいではない。
そうやって突き放すような強い言葉を選ばなければ、声の底に溜め込んだ痛切な感情が零れ落ちてしまいそうだったからだ。
人々は彼女を『聖女』と崇め、祀り上げる。
だが、その微笑みの下で震える肩に、誰も気づこうとはしない。
腕の中に残るあまりに軽い重みと、絶望的なまでの熱。
その体温に触れた瞬間、『聖女』という幻想はシエルの中で容易く砕け散っていた。
ここにいるのは、奇跡などではない。
たった一人で耐え、笑ってみせる、壊れそうな少女なのだ。




