聖域を焦がす赤
その日の神殿は、どこか違っていた。
肌を撫でる夜気が、ほんの少しだけ冷たく、重い気がする。
じわじわと熱を帯びる身体を深く寝台へ預けると、リリアは重い瞼を静かに閉じた。
夜が、いつもより薄い藍をしていた。雲の向こうで月は輪郭を失い、回廊の石畳には、水に溶かした銀のような光がひっそりと落ちている。聖歌の余韻が柱の間にたゆたう時刻のはずなのに、今宵はその名残さえ、どこか遠くへ引いてしまっていた。
「……大司教様が、急用で南の王宮へ向かわれたから……?」
こぼれた呟きは、誰にも触れられないまま、高い天井へほどけていく。
風もないのに、奥庭の古代樹がかすかに梢を揺らしていた。まるで何かをそっと察して、身を縮めているように。
(それとも、シエル様がいらっしゃらないから……)
昨日までは、あまりに自然にそこにあったぬくもり。痛みに身を縮めるたび、何も言わずに差し出された薬湯の、白くやわらかな湯気。熱を帯びた器をそっと包んでいた大きな手の、不器用なほどの優しさ。
苦しいと声を上げることすら諦めていた自分に、あの人はただ静かに寄り添い、その大きな手で痛みを引き受けるように包み込んでくれた。
その手が消えてしまった今、暗闇の中で襲いかかる熱の重さに、どう耐えればいいのか分からなくなってしまう。隣に生まれた小さな空白は、夜の冷気よりも静かに、けれど確実にリリアの孤独を苛んでいた。
指先が襟元の奥を探り、青い氷の花へ触れる。それだけがあの夜と変わらぬ澄んだ冷たさを湛えていた。
星明かりが静かに照らし出す街道を思い浮かべる。
夜風にひるがえる外套の裾と、星影をうけて微かに揺れる美しい銀髪。白くほどけた吐息が闇へと消えていく中で、まっすぐ前を見据えて馬を駆る彼の遠い背中。
――そして、去り際に自分を強く引き寄せてくれた、あの腕の感触。
普段の穏やかで静かな佇まいからは想像もつかなかった、驚くほどの力強さと、男らしい胸の厚み。背中に回された大きな手の温もりを肌が思い出してしまい、リリアは急に胸の奥が熱くなって、思わず両手で淡く染まった頬をそっと包み込む。
自分は何を考えているのかと可憐な羞恥に身を焦がしながら、胸を揺らす甘い疼きに小さく息を吐き出す。
けれど、その愛おしさが深まるほどに、追いつくことの叶わない遠い背中が、息が止まるほど切なく胸を締めつけてくるのだ。
『故郷の用件』と穏やかに微笑んだ彼の言葉。けれど、あの痛々しいほど強い抱擁も、迷いを断ち切るような瞳の陰りも、これから向かう場所がどれほど過酷かを雄弁に物語っていた。言葉にされない真実を静かに察してしまうからこそ、胸の痛みが募る。
リリアは頬からそっと手を離すと、襟元の氷の花へ指先を添え、胸の前で両手を固く組み合わせた。
どうか、あの人を守ってください。
過酷な運命から、冷たい夜風から……どうか、シエル様が無事でいてくださいますように。
遠く天の女神に祈りを込めて、そっと目を閉じた、そのとき。
――さわ、さわ……。
深い静寂を破り、奥庭の古代樹がふいに葉を鳴らし始めた。風など吹いていないのに。まるで何か恐ろしいものの接近を告げ、部屋の中にいる彼女へ、静かに、しかし抗えない警鐘を鳴らしているかのように。
「……どうしたの……?」
胸騒ぎを覚えたリリアは、熱で重い身体を押して静かに寝台を抜け出した。吸い寄せられるように月光の差し込む窓辺へ歩み寄り、大きな枝へそっと手を伸ばす。
深く茂る柔らかな葉に、指先が触れようとした――その瞬間。
――ぱち、と。
乾いた破裂音が、静寂に罅を入れた。
鼻先をかすめたのは、焦げた木の匂い。夜の冷たさのなかに、ありえない温度が、薄い絹のように忍び込んでくる。
「……煙……?」
カタリ、と扉の鍵が外れる不吉な音。
振り返る間もなく、部屋の中に闇を仕立てたような黒衣の男たちが雪崩れ込んできた。掲げられた松明の火が、壁に長く歪んだ影を不気味に揺らす。
「失礼するよ、聖女様。……北の王太子殿下がお待ちかねだ」
「誰です……!?」
足音の低さに、身の危険を告げる本能が警鐘を鳴らす。
人に乱暴に扱われたことなど一度もなく、ただ神聖な静寂の中で愛されて育ってきた彼女にとって、眼前に迫る男たちの暴力的な気配は、息が詰まるほどの恐怖だった。
男たちは冷笑を浮かべるだけで、聞く耳を持たない。慣れた手つきで、松明を壁掛けへ、窓辺のカーテンへと触れさせていく。
白い布の端に、小さな火が灯った。
それは花がひらくようにゆるやかに広がり、やがて赤い蔦となって壁を幾重にも這い上がっていく。
「やめて……、燃やさないで……っ!」
迫りくる熱風とパチパチとはぜる炎の音に、彼女の叫びは儚く呑み込まれていく。
「喋るな。騒がれる前に、眠ってもらおう」
男の影が、覆いかぶさるように近づいてくる。
「っ……!」
ぞっとするような男たちの邪悪な笑みと、生々しく放たれる暴力的な気配に、リリアの全身の毛穴が一気に収縮した。
恐怖で血の気が引き、喉の奥がひきつれるよう。
――なによりも、怖かった。
ただ暴力を振るわれること以上に、不快な手で触れられることが、耐えがたいほどに恐ろしい。
「嫌……触らないで……っ」
脳裏を掠めたのは、去り際に自分を強く抱きしめてくれたシエルの、あの不器用で温かな腕の感触だった。
あの優しさだけを知っていたい。あの人以外の誰にも、触れられたくない――。
男の手が伸びてきた瞬間、リリアは何かされるくらいならと、一切の躊躇いもなく窓へ身を投げる。
眼下に広がるのは、夜の闇が深く沈む断崖と、石畳の庭。落ちれば無事では済まない高さである事など、頭から吹き飛んでいた。
「――なっ、おいバカな真似を……っ!?」
男たちの顔から嘲笑が消え、焦燥が走る。
飛び降りる間際、すがりつくように伸ばされたリリアの手が、窓辺の古代樹の枝を深く掴み引き寄せた。
だが、宙へ躍り出かける直前、男の太い腕が容赦なく彼女の衣の裾と細い手首を掴み上げ、強引に室内へと引きずり戻した。
「ああっ……!」
床へ激しく叩きつけられ、あまりの衝撃に息が詰まる。掴んでいた古代樹の枝は無残に折れ飛んだ。けれど、固く握りしめた小さな拳の中にだけは、千切れた柔らかな一葉が、奇跡のように残されていた。
「チッ……落ちて死なれでもしたら元も子もないぞ!」
男たちの荒々しい罵声も、パチパチとはぜる炎の音も、リリアの耳には届かない。
冷たい床の上で身体を丸め、青い氷の花のペンダントを、握りしめていた葉と一緒に胸元に押し込めて守る。
そんなリリアの動きには気が付かないまま、男たちはリリアの口元に湿った布を押し付けた。
ツンとした重い香りが、肺の奥まで満ちていく。炎の赤はにじみ、男たちの影は水面のように揺らぎ、音は遠い波音のように引いていった。視界が急速に暗転し、意識が静かな水底へ沈んでいく。
(……シエル様……)
心の中で届くはずもない名前を呼んで、リリアの意識は闇の底へそっと零れ落ちていった。
「火が回る前にずらかるぞ。落ちた葉や枝も残さず焼き払え」
――粗い足音が、燃える聖域の向こうへ遠ざかっていく。
静まり返った私室には、砕けた薬瓶の欠片と、こぼれた薬湯のかすかな香りが残されていた。その傍らで、赤い光に撫でられながら、神聖だったものたちが、音もなく崩れていく。
古代樹は、もうざわめかない。
ただ、夜空へ向かって、細い煙がひと筋。
祈りのように、静かに昇っていった――。




