策略の代償
南の国の穏やかな温もりは、北上するにつれて急速に色を失い、世界は灰色と白の凍てついた静寂へと塗り替えられていた。
シエルが駆る馬の蹄が、凍りついた泥を鋭く打ち砕く。
フードの奥で銀髪を揺らし、アイスブルーの双眸はひたすら前方の雪原を見据えていた。
国境を越え、酷寒の北領に入った途端、冷害の爪痕は目を覆うものとなっていた。
街道沿いの寒村から立ち上る生活の煙は細く、かろうじて雪を凌ぐだけの粗末な家屋が身を寄せ合っている。空腹と凍えに耐えながら、凍てついた雪を素手で掘り返す民たちの姿。
ただ生きることに追われる苛烈な現実が、シエルの胸を容赦なく抉った。彼らが日々の飢えに喘ぐ足元で、王宮の者たちは権力闘争と失地回復への焦燥に目を眩ませている。
己の無力感と憤怒を噛み締め、シエルは手綱を握る指に力を込めた。
だが、進むにつれて、その瞳に宿る険しさはさらに色を濃くしていく。
荒涼とした雪原に刻まれていたのは、尋常ではない規模の騎兵の行軍跡だった。深く抉られた雪の轍と、乱雑に踏み荒らされた街道。王太子ジュリアンの差し向けた私兵が残した爪痕であることは明白だった。
やがて、荒れ狂う吹雪の向こうに、雄大な山脈の懐に抱かれた白銀と紺青の城郭が姿を現した。
切り立った断崖に沿って冷厳な翼を広げる幾重の城壁と、天を突く高塔。
吹雪の白と、深く澄んだ石造りの対比は鋭く、一切の妥協を許さない北の気候が磨き上げたその気品は、この国が背負う威厳と静謐を体現していた。
北の王国ノルディス――その心臓部たる王宮。
城門をくぐり、薄暗い回廊へと足を踏み入れた瞬間、待ち構えていたかのように近衛兵たちが抜刀した。
「止まれ! 許可なき者の立ち入りは――っ!」
「無礼者」
放たれた一言が、氷の刃となって回廊の空気を凍てつかせた。
フードを払い落とせば、雪明かりに透けるさらりとした銀髪が露わとなる。その奥から覗く冷徹なアイスブルーの瞳に、近衛兵たちの顔から血の気が引いた。
留守にしているはずの王弟。
王族へ刃を向けかけたという不敬の罪と、男が纏う圧倒的な覇気の前に、兵たちは硬直して動けない。その視線すらも無視し、シエルは回廊を駆け抜けた。
重厚な扉を押し開け、足を踏み入れた謁見の間は、澱んだ冷気と停滞感に満ちていた。
正面の玉座。病と心労で憔悴しきった兄王が、枯れ木のように深く身を沈めている。
その傍らには、甥であり王太子であるジュリアンが不機嫌そうに佇み、さらにその陰には、宰相レオンが影のように静かに控えていた。
シエルはアイスブルーの双眸に冷ややかな光を宿し、玉座の前で足を止める。
「……陛下。直ちにお聞きしたい。なぜ私に無断で、南の神殿へ聖女降嫁の要求などという暴挙に走った」
答えたのは、玉座の主ではなく、その傍らに立つ王太子だった。
「――おや。久方ぶりのご帰還だというのに、挨拶もなしですか、叔父上」
ジュリアンは階段を数段下り、冷笑を浮かべながらシエルを見下ろす。
「相変わらず頭が固い。あなたが出した使節の派遣などという手ぬるい外交で、この凍てつく北国が救えるとでも? 救国の英雄気取りも大概になさい」
ジュリアンは胸の前で指を組み、あざ笑うように続ける。
「私はね、王太子としてより確実な解決策を提示したのです。あの聖女を私の正妃として迎え、その血と豊穣の加護を我が王家に繋ぐ。百年先の安泰まで見据えた完璧な計画だ。聖女にとっても、ノルディスの最高権力者である私の妻になれるのなら、この上ない栄誉だろうよ」
自らが与える権力こそが絶対の救済であると疑わない高慢さ。
だが、その選民思想の底には、王家の血にありながら何らの異能も宿さなかった者特有の、醜悪なコンプレックスが渦巻いていた。唯一の『氷の魔力』を操り、文武のすべてで常に己を凌駕してきた叔父に対する、歪んだ劣等感と執着。
聖女を己の権威を誇示するための道具としか見ていないその浅薄さに、シエルの胸の奥で静かな怒りが沸騰する。
「……エルリア王からは即座に拒絶されたと聞いたが」
「南の連中が、我が国の真意も分からぬ愚か者ばかりだったというだけの話です。理解できぬなら、分からせてやるまで。すでに第三騎士団を動かしています。力ずくで奪い取れば済むことだ。……あの聖女の身体ごとね」
シエルが一歩、前へ踏み出す。ただそれだけの動作が、謁見の間の空気を圧殺した。
「身の程知らずの妄想で国を滅ぼしかねない暴挙へ踏み切るなど……叔父としても、北の王族としても断じて許しがたい。正気の沙汰ではないぞ、ジュリアン!」
刺すような冷気が吹き荒れる中、ジュリアンは引きつった笑みを貼り付けたまま言い放つ。
「ふん……いくら脅したところで、叔父上、あなたは遅すぎたのですよ」
その瞬間、大広間の重々しい扉が荒々しく押し開かれた。
「国王陛下! 一大事にございます!!」
蒼白の軍服に身を包んだ重臣が、二人の間に雪崩れ込んでくる。その悲痛な叫びが、張り詰めた空間を引き裂いた。
「報告いたします! 南の神殿が何者かに襲撃され、壊滅いたしました! 聖女様は連れ去られ、これを我が国の宣戦布告と見なした南国は、全軍の動員を開始しております!!」
「……っ!?」
シエルの思考が、一瞬にして白く染まった。
神殿が壊滅し、リリアが連れ去られた――?
なぜ聖域の結界が破られたのか。その疑問の答えに思い至った瞬間、シエルの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
(まさか……俺が本国へ送っていた、あの神殿の警備体制や手薄な時間を記した報告書が――)
自らが職務としてもたらした極秘のデータが、皮肉にもジュリアン側の襲撃計画に悪用されたのだ。胸を突き刺す痛烈な自責と後悔が、シエルの足を揺らす。
だが、その報せに最も激しく動揺したのは、他ならぬジュリアン自身だった。
「なっ……神殿を壊滅させたと……!? 馬鹿な、そこまでやれとは命じていない……!」
血の気が引き、ジュリアンは青ざめた顔で声を裏返らせる。
聖女を連れてこいとは命じたものの、南国との全面戦争など、保身と権力欲の塊である彼にとって全くの想定外だった。南からの報復が現実味を帯びたと知るや否や、ジュリアンは恐怖に顔を引きつらせる。
「た、大変だ……こんなはずじゃ……っ!」
シエルが強い衝撃に囚われたその一瞬の隙を突き、ジュリアンは慌てて臣下の影へと身を翻すと、玉座裏の暗がりへ逃げ込んだのだった。




