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雪解けの朝に、君に永遠の花を   作者: 幸田 雪


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12/26

摂政シエルの果断

「待て……っ!」


意識を引き戻し、逃げたジュリアンへ足を向けようとしたシエルの前に、立ちはだかった男がいた。宰相レオンである。


「落ち着きなさい、シエル殿下」


レオンはシエルの鋭い視線を受け止め、耳元へと低く、だが容赦のない言葉を落とした。


「今あなたがなすべきことは、逃げたネズミを追うことではないでしょう」


レオンはすぐさま脇の近衛隊長へ「全門封鎖。ジュリアン殿下の身柄を拘束せよ」と短く命じ、隊員たちを走らせた。


遠ざかる靴音を聞きながら、シエルは深く息を吐き、瞳の奥の焦燥を凍りつかせていく。

感情に呑まれることは許されない。いま纏うべきは、国家の命運を宰領する王弟としての冷徹な理性だった。


「そうだな……南との全面戦争を、何としても止めねば」


「その通りです」


レオンは鋭い眼光を崩さぬまま追認し、恐慌状態に陥る謁見の間へと向き直ると、重厚な声を響かせた。


「諸卿、狼狽えている場合ではありません。事態は一刻を争います」


一言が、一瞬で重臣たちのざわめきを制する。


「長引く冷害により我が国が限界を迎えていることは、他ならぬ皆様方が一番よくご存じのはず。この状況で南国と全面戦争に突入すれば、我が国が滅びるのに時間はかかりません」


重臣たちが息を呑み、言葉を失う。レオンはその静寂を逃さず、冷徹に現実を突きつけた。


「即刻、南との和平交渉へ舵を切るべきです。幸い、連れ去られた聖女様を取り戻し、この破滅的な開戦を阻止できるお方は、長年真摯に平和的外交努力を続けてこられた『氷の王弟』シエル殿下をおいて他にはおられません」


そして、レオンは優雅に玉座の前へと進み出ると、病床の兄王へ向けて深く頭を垂れた。


「――国王陛下。この未曾有の難局を乗り切るため、ただちに愚行を重ねたジュリアン殿下を王太子より廃位し、シエル殿下へ王権をお委ねになりますよう、謹んで進言いたします」


その言葉に、ジュリアン派の重臣の一人が蒼白な顔で一歩進み出た。


「待て宰相! いくら一大事とはいえ、王太子殿下を差し置いてシエル殿下に全権など、あまりに越権では――っ!」


レオンは一瞥すらせず、冷酷な声を投げ返す。


「では、貴殿が今すぐ南国エルリアの全軍の前に赴き、戦争を止めて来られるのかな?」


反論した重臣は血の気を引かせ、ぐっと唇を噛みしめて押し黙った。


(――見事なものだな)


シエルは腕を組んだまま、静かに息を呑んだ。

レオンの目論見通りに担ぎ上げられている自覚はあるが、反論の余地もない完璧なお膳立てだった。

国とリリア、その双方を守るために必要な「王権」という圧倒的な力を、この冷徹な宰相は最高のタイミングで突きつけてきたのだ。


玉座の兄王は苦悶に満ちた目を閉じ、喉を震わせながら深いため息を吐いた。もはや己の体力が限界であること、そして愛息の罪がこの国を潰そうとしていることを理解した王の決断は、重く悲痛だった。


「……面を上げよ、宰相」


王の命を受け、レオンが頭を上げる。眼鏡の奥に潜む眼光は揺るがない。


「……お前の言う通りだ。もはや私の手には余る……。シエル……頼む、不甲斐ない兄を許してくれ。この国と民の未来を、そなたに託す。全権を取り仕切ってくれ」


兄の重い言葉を受け止め、シエルはゆっくりと背筋を伸ばした。


一歩歩みを進めるごとに、王弟としての冷厳な気品と、氷のごとき覇気が周囲の空気を圧殺していく。冴え冴えとしたアイスブルーの瞳が見渡すだけで、重臣たちの背筋に刺さるような冷気が走り、広間は完璧な静寂に支配された。


「……全権の掌握、承知いたしました」


シエルは静かに言い切ると、頭を垂れるレオンへ一瞥をくれてから、まっすぐに玉座の兄へと向き直った。


「ただし、玉座はあくまで兄上のもの。私は兄上のご病気が快癒されるまでの間、摂政として全権を一時預かりするに過ぎません」


意思を明確にしたシエルに、国王は震える手で顔を覆い、苦汁に満ちた声を絞り出す。


「……すまない、シエル……。あやつのしでかした罪は許されぬ。即刻、ジュリアンの王太子位は……剥奪する。だが、命だけは……我が子の命だけは助けてやってくれないか……」


国を滅ぼしかける我が子の暴挙に打ちひしがれながらも、なおも親としての情を捨てきれない兄の甘さに、シエルは小さく息を吐いた。


「……善処します、兄上」


血を分けた兄の頼みだ。無条件に切り捨てることはしない。だが、ジュリアンが犯した罪の重さに相応の報いが必要であることも明白だった。


「……私の不徳だ。王家に伝わる毒の試練すら課さず、甘やかして育ててしまった……。空回りしながらも必死に足掻く姿をどこかで愛おしく思い、目をつむっていた……。だが、まさか……あやつがこれほどまでに愚かだったとは……っ」


掠れた声で漏れ出た言葉は、国の長としてではなく、ひとりの父親としての無念と痛恨に満ちていた。

心労と病の限界に達した国王は、激しい咳込みとともに大きく身体を揺らし、側近や侍医たちに支えられながら弱々しい足取りで奥の寝所へと引き上げていった。


王が退場し、再び静まり返った広大な謁見の間。

その中央で、シエルは苛烈な自責と怒りを深く呑み込み、揺るぎない覚悟をその瞳に宿して正面を見据えた。


張り詰めた静寂を破り、列の先頭から一歩前へ踏み出したのは、重厚な甲冑を纏った元帥だった。膝を折り、葛藤に満ちた声を搾り出す。


「殿下……差し出がましいようですが、いっそ殿下ご自身が正式に王位へ即位された方が、臣民に対しても確かな命を発せられるかと。……ましてや南との折衝となれば、国家の最高首脳――『王』の名でなければ、エルリアを納得させられぬのでは……」


「――いや、それはならん」


進言に対し、シエルは即座に、しかしどこまでも静かなトーンで首を振った。


「『慈王』と呼ばれた先王陛下を深く慕う臣民は今なお多い。もし私が今、この土壇場で玉座を奪えば、それは『簒奪』とみなされる。ジュリアンのもとに反逆の口実を与えるばかりか、国内を二分する内乱を招くだろう。国が割れ、血が流れて最も困るのは、他でもない民だ」


シエルの筋の通った道理と民を慮る言葉に、重臣たちは静まり返る。シエルは手元にある印章に触れ、言葉を継いだ。


「今の私に必要なのは、陛下から委ねられた『王権』の威光であって、王位そのものではない。これまで築いてきた私個人への信用と、最高権力者として下す正式な国家意思――その双方が揃って初めて、エルリアも対話のテーブルについてくれる。私への信頼を損なわずに王権を行使するには、摂政であることこそが望ましい」


シエルはそこで言葉を切り、不敵な微光を宿した瞳で控えていた宰相へ視線を向けた。


「そうだろう、宰相?」


問いかけを受け止め、レオンは眼鏡の奥の瞳を満足げに細めた。


「……実に見事なご決断にございます。その高潔さこそ、エルリアの警戒を解く最強の武器となりましょう」


優雅に頭を垂れたあと、レオンは低く研ぎ澄まされた声を響かせた。


「――ご安心ください。まずはエルリアとの折衝、私が完璧に盤面を整えてご覧に入れましょう。……その先にどのような『果実』が実るかも含めて」


深謀遠慮な宰相の追認に異論を挟む者はもはや誰もおらず、重臣たちも恭しく頭を垂れた。彼らの熱を帯びた眼差しを受け止めながら、シエルは見つめ返した。


「貴殿らの忠誠はありがたく受け取る。――だが宰相を筆頭に、我が国を支える諸卿よ。今は一刻を争う事態だ。どれほど王権を頂こうとも、私一人の力ではこの巨大な危機を支えきれない。どうか、私に貴殿らの力を貸してほしい」


その言葉は権力を誇示するものではなく、すべてを背負う若き王弟の真摯な訴えだった。その謙虚さと確固たる信頼の言葉に、歴戦の重臣たちの胸が熱く震える。


「……身命を賭して、殿下をお支えいたします!」


元帥が力強く胸に拳を当てると、他の重臣たちも一斉にひざまずき、深く忠誠を誓った。


その光景を見渡したシエルは一拍置くと、一転して冴え冴えとした眼差しを取り戻し、怒涛の如く各種問題への指示を叩き出す。


「元帥。まずは軍の再編だ。南との国境沿いに展開している最前線部隊を引き下げ、防衛線を一歩後退させよ。事態を荒立てず、南側に『北に開戦の意図なし』という明白な意思を示すのだ」


「はっ……! しかし殿下、防衛線を下げれば南からの突然の報復に対応が一歩遅れる危険もございます」


「むろん、無防備に引くわけではない。後方の拠点を強化し、警戒態勢は維持する。元帥、最前線の引き下げと後方防衛の再構築を任せる。……同時に、直ちに北方の全関門へ伝令を飛ばし、ジュリアンの捜索線を構築せよ。表向きは『王太子の行幸に伴う警備強化』と偽り、廃位と捜索の真実は厳重に秘匿するのだ」


シエルは一瞬言葉を区切り、重みのある声を落とした。


「――だが、忘れるな。奴の手元に聖女がいる以上、迂闊な強硬突入は絶対に許さぬ。敵の配置を探ることを最優先とせよ」


「……かしこまりました! 聖女様の安全を第一とし、軍の再編と情報収集を速やかに完遂いたします!」


「外務卿。南の王家へ向ける我が書簡の起草を急げ。聖域での惨劇に対する北の遺憾と、ジュリアンの独断専行であることを明確にし、決着までの即時停戦を申し入れる」


「ははっ、ただちに!」


「財務卿。ジュリアンが押し進めようとしていた開戦準備金をただちに凍結。その三割を東部および北部の被災地方へ穀物支援として即座に放出せよ。民の不満の矛先を逸らし、国内の治安維持を最優先とする」


「畏まりました! すぐに手配いたします!」


冷徹な頭脳で瞬時に先読みし、重臣たちの専門知を完璧に引き出しながら、刻一刻と迫る危機を掌握していくシエル。間髪を入れぬ指示の速さと、民心掌握まで計算し尽くされた手腕に、浮足立っていた重臣たちは完全に圧倒されていた。


「……即刻、取りかかれ」


迷いのない一言が下された瞬間、停滞していた北の国家という巨大な歯車が、凄絶な速度で回転を始めた。




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