黒き駒の指し手
玉座の間を取り囲む重苦しい緊張のなか、重臣たちが次々と謁見の間を辞していく。
潮が引くように熱気が去ったあと、シエルは無言で身を翻すと、長年使い慣れた己の執務室へと足を向けた。
そのあとに、足音もなく滑らかな足取りでついてくる影がひとつ。宰相レオンである。
重々しい扉が閉ざされ、卓上に積まれた羊皮紙の匂いと冷たい静寂だけが残された空間で、二人は二人きりになった。
レオンは不敵な笑みをたたえたままシエルへ歩み寄る。その眼鏡の奥の瞳には、甘さの欠片もない政治家の凄みが宿っていた。
「国家を預かる身として、常に最悪の事態を想定して動くのが私の仕事です。……ジュリアン殿下の暴走も、陛下の御限界も想定内。ですが――あなたが感情に呑まえず、こうして全権をお引き受けくださったのは、私にとっても期待以上の成果でしたよ」
「……ふん。もし私が感情に任せ、ジュリアンを追って立ち去っていたら、どうするつもりだった?」
シエルの静かな問いに、レオンは微塵の揺らぎもなく答えた。
「その時は、私が悪名の一切を背負い、全関門を力づくで封鎖してでも国内を抑え込んでおりました。……ジュリアン殿下を拘束し、この国と王位を揺るがす愚行を根切りにしていたでしょうな」
一切の躊躇もない断言に、シエルはかすかに目を細める。
「……王太子を自らの手で破滅させ、王家の権威を失墜させてでもか。お前にしては、力づくの強硬策だな」
「強硬策? 滅相もない。単なる現実計算でございますよ」
レオンは冷やかに、鼻で小さく笑ってみせた。
「あの愚かな殿下にこれ以上好き勝手を許せば、我が国の王威は地に堕ち、国そのものの存立すら揺らぎかねない。王家の失態で国を破滅に導くなど、最も愚かしい失策です。利用価値のなくなった毒株は、どれほどの手を汚してでも排除するのが当然の理でございます」
眼鏡の奥で光るその双眸には、国家の崩壊を防ぎ抜くための、冷酷なまでの合理性と執念が宿っていた。
「ですから……私はどのような手を使ってでもジュリアン殿下を封じ、盤面を収めるつもりでした。ですが、殿下が戻られた。ならば最上の手を選ぶまで。聖女奪還を大義名分とし、王家の失策を雪いで国内の治安と崩れかけた王権を立て直す――これらを完璧に成し遂げられるのは、清廉なる『氷の王弟』たるあなた様しかおられません」
レオンは自らが泥を被る側に立つことに何の躊躇いも見せない。
王家の揺らぎを強権で叩き潰し、国家という巨大な船を沈ませないためなら、清濁の「濁」をいくらでも呑み干す――それこそが、宰相レオンの本質だった。
シエルは胸の奥で、この男が放つ底知れぬ危険性に深い警戒を抱きながらも、その研ぎ澄まされた手腕と覚悟を評価していた。
卓上の玉璽に絹布を覆う。
その所作ひとつで国家の執務に一区切りをつけると、シエルはアイスブルーの双眸を研ぎ澄ませ、静けさの中でレオンを見据えた。
「……潜伏先の情報が集まり次第、私は単騎で向かう。兵を動かせばジュリアンを刺激し、リリアに危険が及ぶ。大軍を動かすより、私ひとりで潜入するほうが……聖女を確実に奪還できる」
静かだが、一切の異論を挟ませない絶対の重み。
シエルは冴え冴えとした視線を向け、低い声を落とした。
「私が戻るまで、王都の守りとお前の描いた盤面は……頼む」
その言葉を聞き、レオンはゆっくりと、眼鏡の縁を細い指先で押し上げた。
その口元に浮かんだのは、謀略の笑みではなく、かつての教え子の目覚ましい成長を目の当たりにするような、深い感慨の揺らぎだった。
「……殿下は、ずいぶんとお変わりになられた。昔はなにもかもを一人で抱え込み、孤高に刃を振るっておられたというのに……。人を信じることを、お覚えになられたな」
元帥に軍権を預け、財務卿に国庫を任せ、自分という危険な男にすら王都の後方を委ねる。今のシエルは、ただ一人で戦う青年ではない。人を動かし、背中を任せる「統治者」の佇まいを確かに得ていた。
手塩にかけて育て上げた若き刃が、いまや国を背負う主君へと脱皮を遂げたこと。その事実に、師でもあるレオンの胸中に密やかな誇らしさが灯る。
シエルは一歩踏み出し、レオンの至近距離でその双眸を射抜いた。
「私が動くのは、この国を救うため……そして、リリアを取り戻すためだ。もしお前が彼女を単なる使い捨ての駒として扱い、命を脅かすような真似をしてみろ。その時は、お前をその場で斬る」
凍てつくような殺気が執務室の空気を侵食していく。
(――なるほど)
真っ向からその殺気を受け止めながら、宰相の胸中で、すべての真実がひとつに繋がった。
誰のことも信じず孤高を貫いていたこの若き王弟を、劇的に変えたもの。他者を頼り、人に背中を任せる「統治者」としての器をもたらした正体――それこそが、連れ去られた聖女、リリアという名の少女なのだと。
自分以外の誰かのために命を賭し、その存在ゆえに人を信じることを知った。
彼女こそが、凍てつく闇を進む殿下にとって、決して失ってはならない唯一の光なのだと。
レオンは深く頭を垂れた。
「……御心のままに」
眼鏡の奥で光る瞳を深め、敏腕宰相は力強く言葉を紡ぐ。
「聖女様の御身、必ずや無事にお手元へと引き戻してご覧にいれましょう。ジュリアン殿下の後始末も、盤面の立て直しも……すべて、このレオンにお任せを」
表の光の中に主君を立たせ、己は影の中で一切の毒と泥を呑み干す。
国家と王位の失墜を何としても防ぎ切り、王の道を切り拓く宰相の冷徹な笑みが、暗がりの中で深く刻まれた。




