あなたの名を呼ぶ理由
豪華な装飾が施された室内に、北の地の刺すような冷気が忍び寄っていた。
聖域の清らかな気は遠く失われ、身体の深部でくすぶる神の灼光が、いまや刻一刻とリリアの命を蝕み削り取っていく。
(シエル様も、この北の空の下におられるのでしょうか……。同じ冷たい風を、感じていらっしゃるのでしょうか……)
聖灼の激痛でかすむ視界のなか、脳裏に浮かぶ青年の面影だけを頼りに、リリアは荒い呼吸を耐え忍んでいた。
そこへ、重い木製扉が軋んだ音を立てて開き、若い侍女がおどおどとした様子で入ってきた。
「……聖女様、お身体はいかがですか……? お熱があると伺い、様子を見に……」
心配そうに声をかけながら近寄ってくる侍女の身体は、痛々しいほどに痩せこけていた。
恐縮して俯く侍女の両手が視界に映り込む。指先は赤黒く腫れ上がり、あかぎれが裂けて細かく震えていた。長年の過酷な労働と、この国の深刻な物資不足が生々しく刻まれた悲惨な現実。
「……あなたの……その手は……?」
かすれた声で応じ、リリアは横たわったまま、震える細い手を伸ばして侍女の荒れ果てた手をそっと包み込んだ。
「あっ……申し訳ございません! このような汚らしい手をお見せするつもりでは……っ」
「……汚いなんて言わないで。……冷たい雪の中で、ずっと頑張ってこられた手です」
途切れがちな息のまま瞳を閉じ、消え入るような声で祈りを捧げる。
身体に残された僅かな生命力を絞り出すように、その手のひらから柔らかな淡い光が溢れ出した。
光が浸透し、侍女の指先の痛々しい裂け目が塞がり、本来の血色を取り戻していく。
「え……あ……っ! 私は敵国の人間なんですよ……っ!? どうして……っ!?」
「だって、痛そうだったから……では、いけませんか……?」
驚き戸惑う侍女に、リリアは激痛に耐えながら力なく微笑んだ。
侍女は自身の愚かさを恥じるように言葉を失い、ボロボロと涙をこぼしながら何度も深々と頭を下げ、部屋を辞していった。
静寂が戻った瞬間――引き換えのように、体内で抑え込まれていた聖灼が爆発的に牙を剥いた。
「くっ……あ……っ」
激しい苦悶とともに、リリアは身体を極限まで丸め、寝台の上で身悶えた。
治癒の光を放ったことが引き金となり、体内の熱が猛威を振るい始めたのだ。息を吸い込むたび、喉から肺の奥へと灼熱の刃を刺し通されるような熱気が吹き荒れる。
いっそこのまま息絶えてしまえば、どれほど楽になれるだろう。
死の足音がすぐそばまで迫るなか、リリアはドレスの胸元に忍ばせたペンダントを必死に握りしめた。
シエルから贈られた氷の花の細工だけが、絶望的な熱のなかで変わらぬ冷たさを宿し、彼女をこの世に繋ぎ止めている。
シエル様――。
聖域で交わした穏やかな日々。
薬湯を差し出すひんやりとした大きな手。低く優しい声の響き。そして、嘘をつくときにわずかに陰るアイスブルーの瞳――。
連れ去られたあの恐ろしい夜も、暗闇の中で震えていた時も、口をついて出たのはいつも彼の名だった。
自分を癒そうとしてくれた彼を、ただ頼りにしていただけだと思っていた。
――けれど、違っていた。
誰の前でも聖女として立ち続けてきたリリアは、誰かひとりを特別に求めることなど考えたこともなかった。
絵本の中の温かな家族にあこがれながらも、自分がその中にいることを想像さえできなかったように。
自分は誰かの特別な一人にはなれないのだと、静かに諦めていたはずだったのに。
それなのに、死を前にして胸を焦がすのは、神の教えでも民の幸福でもない。ただひとり、あの人の姿だった。
もう一度、あの人に会いたい。もう一度、あの声で名前を呼んでほしい。
誰のものでもないはずだった心は、とっくに彼に奪われていたのだ。
ただ愛おしくて、恋しくて、名を呼び続けていただけだった。
(私……シエル様を、お慕いしていたんだ……)
胸の奥で弾けた真実に、溢れ出た涙がペンダントを濡らす。
一人の少女としての恋心が、絶望の熱を打ち消すほどの切なく確かな光となってリリアの心を灯していく。
終わりを迎えるなら、あなたのそばがいい。……それなら、きっと、怖くない。
呼吸が浅くなり、視界が白く霞み始めた、その時――。
天空の彼方から、歌うような声が響いた。
世の理を超越した、果てなく深く、どこか泣きたくなるほどあたたかい響き。
『――還っておいで、愛しい子よ』
それが誰の声なのか、何を意味しているのか、リリアには分からない。
けれど――理由もなく胸がじんわりと温かくなる、不思議な気配だった。
その光に身を委ねてしまえば、この恐ろしい熱も激痛も消えて、二度と寂しい思いをしなくて済むのだと本能が告げている。
けれど――その優しさに頷いてしまえば、二度とあの愛しい青年の元へは戻れなくなる。
どれほど痛くても、自分をあたたかく抱きしめてくれた、あの人の元へ。彼の待つ場所へ帰りたかった。
「……シエル、様……」
遠ざかりそうになる意識のなか、リリアは差し出されたあまりにも優しい光を拒絶し、残り少ない生命を燃やして、ただ愛しい人の名を呼び続けていた――。




