氷原に馳せる道
シエルが次に向かったのは馬繋ぎ場ではなく、王宮の最奥にひっそりと佇む薬庫だった。
ひんやりとした石造りの廊下に、彼の静かな足音だけが孤高に響く。
重い木扉を押し開けると、乾燥した薬草の強い香気と、古い生薬が放つ独特の薫香が静かに鼻腔を突いた。
かつて、権力闘争と毒殺の陰謀が渦巻くこの王宮で、己の身を守るためだけに毒と薬効の知識を貪るように刻み込んだ場所。あの頃の自分は誰も信じず、ただ自らの知識と刃だけを頼りに、暗闇の中で息を潜めていた。
使い古された木棚に並ぶ無数の薬瓶や乾燥草。シエルは迷いのない手つきでそれらを指先で辿り、必要な生薬を摘み取っては革袋へと手際よく詰めていく。
……リリアのもとへ辿り着いた瞬間、すぐにでも彼女の身体を蝕む熱を和らげる薬湯を作れるように。
(人を信じる、か……)
年中を雪と極寒に閉ざされるこの北の国は、厳しい風土の裏で、毒草や陰湿な呪いが蔓延する残酷な土地だ。かつては王家に生まれた者でさえ、幼少期から毒を体内に摂り入れ「耐性」を刻み込まねば生き残れぬような凄惨な風習すら存在していた。
兄王の代となり、そうした歪んだ毒の慣習こそ薄れつつあるものの、この土地に息づく自然の脅威が消え去ったわけではない。
己の血に毒を馴染ませ、この暗がりで毒の書を貪り読んでいたかつての自分なら、すべてを一人で抱え込み、この巨大な危機に押し潰されていたかもしれない。
だが今、背後には国を支える重臣たちや師がおり、前には救い出すべき、愛おしい少女がいる。
シエルは胸元から、リリアが持つものと対をなす、一筋の冷気を纏うペンダントを取り出した。
手のひらの上でかすかに青い光をたたえるその結晶は、傷ひとつなく、美しくその形をとどめている。
――砕けてはいない。リリアは、まだ生きている。
手渡したあの日と同じ澄んだ冷たさ。それが今や、彼女の生を証明する唯一の確信だった。
薬袋の紐を固く結び、胸元へ収めると、シエルは手元を照らしていたランプの火を吹き消した。
外套のフードを深く被り、闇の中に紛れるようにして王宮の裏手を抜け出す。
待機させていた漆黒の愛馬に跨がると、シエルは手綱を握り直し、城門の暗がりを蹴って外へと躍り出た。
馬の腹を強く蹴り上げれば、愛馬の吐き出す白い息と、激しい蹄の音が夜の静寂を叩き割っていく。
王都を離れ、北へ向かうにつれて吹雪は混迷を極めていった。
刃物のように研ぎ澄まされた寒風が縦横無尽に吹き荒れ、荒々しい雪の波が視界を根こそぎ奪おうと襲いかかってくる。
シエルは馬上で深く息を整えると、自らの体内に眠る氷の魔力を解放した。
研ぎ澄まされた集中とともに、アイスブルーの双眸が暗闇の中で青い光を宿す。
身に纏う冷気で襲い来る猛吹雪や粉雪を直前で弾き、左右へ受け流しながら疾走する。馬の脚取りを損なわぬよう、風の抵抗すら計算し尽くした魔力操作。極寒の風土を知り尽くした彼ならではの、洗練された術技だった。
やがて荒れ狂う吹雪の晴れ間から、地平の果てまで広がる純白の雪原が姿を現した。舞い散る粉雪が月光を反射して星のように輝き、凍てついた湖面の上には、神秘的な翡翠色のオーロラが静かに揺らめいている。
無限に広がる、無垢で壮大な銀世界。
(……本の中の世界しか知らなかったリリアに、この広さを……いつか見せてやりたい)
聖域という小さな箱庭の中で、絵本を抱きしめて外の世界に思いを馳せていた彼女。
この白銀の景色を、南の穏やかな温もりしか知らなかったリリアが見たら、きっとその愛らしい瞳を丸く輝かせ、息をのむだろう。いつか二人で、この世界の広さを並んで見上げたい――。
だが、直後に胸を襲うのは、この過酷な北の冷気のなか、激しい体内の熱に苛まれているであろう彼女の生々しい苦痛への焦燥だった。
南の聖域から連れ去られて数日。ただでさえ神の灼光に苛まれる彼女の身体が、その過酷な環境と旅路でどれほどの負担を受けたかを思うと、シエルの胸は焼き切れるような焦燥に焦がされた。
一刻の猶予もない。
ジュリアンの潜伏先は北の方角。あとは、このペンダントが指し示す導きだけだ。
胸元の結晶へ意識を没入させると、遠く北の地から響く微弱な魔力の波長を捉える。
シエルは自らの魔力を精神の奥底で研ぎ澄ませて同調させ、その細い残響を辿ることで、リリアの正確な現在地を捉え直した。
「待っていてくれ、リリア……すぐに行く」
馬の脇腹を強く蹴り、シエルは一筋の黒い閃光となって雪原を疾走していった――。




