白銀の断罪
暴力的描写があります。ご注意ください。
豪華なのに冷たい砦の一室で、リリアは酷烈な痛みに喘いでいた。
聖域を失った身体を内側から焼き尽くす聖灼の熱に苛まれ、意識はとっくに限界を超えている。
汗を浮かべた額を寝台に押し付け、浅い呼吸を繰り返すのが精一杯だった。耐え難い苦痛と孤独の中で、彼女の命の灯火は静かに消えかけていた。
重々しい木扉がゆっくりと開き、侍女が懸命な面持ちでトレイを手に入ってきた。
「……聖女様、お熱によく効くという薬湯を入手できました。どうぞ、お召し上がりください……」
差し出された杯から立ち上る清涼な薬草の香気に、脳裏をよぎったのは、聖域で自分を優しく包み込んでくれたシエルの面影だ。
あの温もりに少しでも触れたくて、彼女は吸い寄せられるように杯を受け取ると、何の疑いもなく縋るように口をつけた。
だが――喉の奥へ滑り落ちた液体は、どろりと重く不自然な甘さを残すものだった。
「……っ、これ……は……?」
異変に気づいた時には、すでに遅かった。
陶器の杯が指先から滑り落ち、石床で鋭い音を立てて砕け散る。瞬時に全身の神経が痺れに侵され、四肢から急速に力が抜けていった。
「聖女様……っ!? どうしてこんなことに……!」
侍女が顔面を真っ青にして震え上がる。そこへ開け放たれた扉から、薄笑いを浮かべた男が姿を現した。
乱暴に侍女を押しのけると、ゆっくりと寝台へ近づいてくる。
「ふふ……素直に飲んでくれて助かりましたよ、我が花嫁。……素晴らしいな。その透きとおるような肌も、夜の闇を溶かしたような美しい黒髪も」
「……あ、なた……は……?」
乾いた唇から、かすれた声を絞り出す。恐怖で心臓が痛いほど早鐘を打っていた。
「私は王太子ジュリアンだ。……光栄に思うといい。南の聖女たるお前を、この私の正妃にしてやるのだからな。南の『豊穣の聖女』という最高の威光をこの手で掌握すれば、北の老害どもも、あの忌々しい叔父上すらも、二度と私に楯突くことなどできなくなる」
ねっとりとした視線と、優越感を隠そうともしない言葉。
脳裏にあの夜の悲劇――焦げた木の匂いと、夜空へ立ち昇る恐ろしい火の手が鮮烈に蘇る。
(この人が……あの火を……神殿を焼き払わせた……!?)
血が凍りつくような戦慄に涙が零れ落ちる。逃げ出したいのに、薬のせいで指一本動かない。それでも、リリアは震える声で拒絶を紡いだ。
「……お断り……いたします……っ。神殿を焼き、人々を傷つけるようなお方に……絶対に屈しません……っ」
「自分がどんな立場にあるのか分かっていないようだ。お前が私の妻となれば、すべては解決するのですよ。愛する聖女を迎えるための少々強引な求婚だったと言い繕い、既成事実を作ってしまえば、南国も泣き寝入りするしかないのだから」
己の都合に合わせて世界が回ると本気で信じ込んでいる、恐ろしいほどの自惚れと浅薄さ。
リリアは押し潰されそうな絶望を耐え抜き、涙に濡れた瞳でまっすぐ男を見据えた。
「……愚かなお方……っ」
「何だって……?」
「そんな事で南の国が納得するとでもお思いなのですか……!? それは和解などではなく二重の宣戦布告です……! 聖域を汚された南の国が求めるのは罪人たるあなたへの断罪だけ……! ご自分の浅はかな欲望で無辜の民を戦火に巻き込もうとしている事に……なぜ気づかないのですか……っ!」
「……口の減らない小娘だ」
正論で突かれ、プライドを引き裂かれたジュリアンは顔を引きつらせ、不快そうに目を細める。
「……まぁいい。今お前が飲んだ媚薬は、遅効性だが効果は絶大。それに溺れて我が手駒となれ。――手っ取り早く、名実ともに私のものになってもらおう」
ジュリアンは寝台の上で身動きの取れないリリアの肩を乱暴に押さえつけた。
重い体躯が容赦なく覆いかぶさる。リリアは身を捩ろうとするが、手足は鉛のように重く、逃げることすら叶わない。
「怯えなくていい。愛でて差し上げるだけだ。我が王位を確固たるものとするため……あなたには我が子を宿す大切な役割がある」
鳥肌が立つほど不快な指先が肌をなぞるたび、胃の底から這い上がるような激しい吐き気と戦慄に全身が震えた。
「あ……っ、嫌……触らないで……っ!」
喉の奥で悲鳴が擦り切れ、身体は拒絶のあまりガタガタと激しく震えた。逃げ出したいのに、薬の痺れで四肢はピクリとも動かない。
皮膚をなぞる指先、間近に迫る生温かい息――そのすべてが、リリアの尊厳を内側から踏みにじっていく。
(シエル様……っ!)
汚される恐怖に押し潰されそうになりながら、脳裏で必死に叫び続けるのは――あたたかく自分の名を呼んでくれた、ただひとりの青年の名だった。
「……助けて……シエル様……」
「シエル……だと……?」
その掠れ声を聞いた瞬間、ジュリアンの顔からねっとりとした嘲笑が消え、嫉妬と劣等感に満ちた醜い笑みへと一変した。
「叔父上が手ぬるい外交手腕で手に入れられなかった聖女を、私はこうして手に入れた……! この偉業をもって、私はあの男を完全に超えるのですよ! 南がどうなろうと知ったことか……! 奴がどれほど足掻こうと……この勝利だけは決して覆せないのだから……ッ!」
狂おしい高笑いを上げながら、ジュリアンはリリアの胸元を掴み、乱暴にドレスを引き裂いた――。
布の弾ける虚しい音が部屋に響き、リリアが恐怖に固く目を閉じた――その時だった。
――ピシリ。
空間を穿つ微かな音が、静まり返った室内に静かに響く。
直後、肌を灼くほどの極冷の気配が部屋全体を圧殺した。
頑丈な石扉が一瞬で白銀に侵食され、膨張する絶対零度の圧力に耐えかねて、凄惨なほど美しく砕け散る。舞い散る氷の粒子が月光を跳ね返し、室内を凍てつく硝子の輝きで満たしていった。
荒れ狂う吹雪さえも従えるように、圧倒的な冷気を身にまとい姿を現したのは――凄絶な殺意を宿したシエルだった。
その視線が、乱されたドレスと、リリアを組み敷くジュリアンの姿を捉えた瞬間。
部屋の空間そのものが、一瞬にして凍てつく死の静寂へと呑み込まれた。
「……貴様……その汚い手で、誰に触れている」
シエルの声は低い地鳴りのように静かに響く。
次の瞬間――爆ぜた氷の刃がジュリアンを鋭く吹き飛ばし、容赦なく壁へと叩きつけた。
「なっ……お、叔父上――っ!?」
悲鳴をあげる猶予すら与えない。
壁際で硬直したジュリアンの足元から爆発的な氷塊が駆け上がり、その全身を呑み込んでいく。
恐怖に顔を歪めた姿のまま、彼はそびえ立つ美麗な氷柱のなかへ、一欠片の身動ぎも許されず閉じ込められた。




