信じ続けた灯火
荒い息を吐きながら、シエルは氷漬けにした男に見向きもせず、寝台の上で震えるリリアのもとへ膝をついた。
引き裂かれた衣類と、怯えに塗れたその瞳。目の前で愛する者を奪われかけた恐怖の残響が、シエルの心を鋭く引き裂いていく。
抱きしめたい。その震える肩を包み込み、もう大丈夫だと、耳元で何度でも囁いてやりたい。
だが、足は床に縫いとめられたように動かなかった。
彼女をこの暗がりへ引きずり込んだのは、ほかならぬ自分なのだ。その自責が鎖となって全身を縛り、たった数歩の距離が、果てしない雪原のように遠く思えた。喉元まで締め上げる痛みに、シエルは息の仕方さえ忘れかけていた。
それなのに。
リリアの顔から、すうっと恐怖が溶けていく。春の雪解けのように、静かに、確かに。
かわりに満ちていったのは、驚きと、切ないほどの想いと、すがるような愛おしい光だった。
凍りついた静寂を、そっとほどくように、儚い声がこぼれ落ちる。
「……シエル、様……?」
幻であることを恐れるような、囁きだった。
睫毛に涙を残したまま、リリアはやわらかく微笑んだ。
「……また、会えるって……、信じて、いました……」
その一言が、シエルの胸で張りつめていた理性の糸を、音もなく断ち切った。
自責も、誇りも、もうどうでもよかった。彼は寝台の縁に崩れ落ちるように膝をつき、震える腕で、リリアを深く抱き寄せた。二度と離さないと、誓うように。
「……リリア……!」
腕のなかに伝わってきたのは、消えてしまいそうなほど頼りなく、それでも確かに生きている、あたたかな体温だった。
けれど、次の瞬間。シエルは己の愚かさにハッと息をのんだ。
恐ろしい手に晒され、心身ともに傷ついているはずの身体だ。それなのに、感情のまま強く引き寄せてしまった己の軽率さに血の気が引いていく。彼はおそるおそる、まるで崩れやすいガラスでも扱うように腕を緩めた。
「……ごめん。怖い思いをしたばかりの君に、俺まで乱暴な真似を……」
なおもすまなそうに瞳を揺らす彼を、リリアは見上げた。愛おしそうに頬をゆるめて、消え入りそうな声で、そっとささやく。
「……ううん。シエル様の手は……とても、温かくて、安心できるから……」
本当は、言葉だけでなく、この腕で彼を抱きしめ返したかった。けれど、全身を苛む重い痺れが、それを許さない。必死に持ち上げようとした両腕は、力なく震えるばかりで、彼の背に回ることすら叶わなかった。
そのもどかしさに、涙がひとすじ、目尻からこぼれ落ちる。
「どこが痛むのか……!?」
「……甘い薬湯を……飲んでから、身体が……うまく、動かなくて……」
「――薬……っ!?」
その言葉を聞いた瞬間、シエルの血の気が一気に引いた。
毒か。王家が密かに隠し持つ、忌まわしい劇薬か――?
「甘い薬湯」という言葉だけでは、正体を見極められない。解毒の手立ても打てない。目の前が暗くなるほどの焦燥が、彼を突き上げた。
迷っている時間は、一刻もなかった。
「ごめんね」
震える唇でそう囁き、シエルは迷うことなく己の唇をリリアのそれに重ね合わせた。
戸惑いにわずかに開かれた口内から、残された微かな薬湯の風味と香気を、研ぎ澄まされた薬師としての五感ですべて拾い上げていく。
舌の上で転がした分析の果てに、シエルは息をのんだ。
数々の毒や薬草に耐性を持つシエルでさえ、口移しで成分を拾った瞬間に、ずしりと身体が重くなるようなけだるさを感じるほどの濃厚で異常な魔力を孕んでいるそれは、北の王家が血統を縛るために秘匿してきた、忌まわしい禁薬。女性の排卵を強制的に促し、受胎するまで終わりのない催淫効果が肉体を蝕み続けるという、最悪の媚薬だった。
唇をほどいた瞬間、零れた吐息とともに、ふたりの間に甘く重い静寂が落ちた。
至近距離で見つめ合うシエルの熱い眼差しと、唇に残る灼けるような余韻。
射るように自分を見つめるその瞳に、リリアの頬は一瞬で熱を帯び、白磁の肌が鮮やかな桃色に染まっていく。
「シ、エル……様……っ」
恥ずかしさに唇を震わせながら、リリアはゆっくりと睫毛を伏せた。視線すら合わせられず、真っ赤になった顔を隠すようにわずかに首をすくめる。そのあまりに無防備で可憐な姿を目の当たりにして、シエルの胸は愛おしさと切なさで激しく締めつけられた。――こんなにも純粋な彼女の尊厳を、あの男は踏みにじろうとしたのか。
その卑劣極まりない企みが脳裏をかすめた瞬間、シエルの胸の奥で、氷をも溶かす黒い殺意と怒りが激しく燃え上がった。
(解毒には……身体を重ねるしかないというのか……? いや、それでは、ジュリアンがしようとしたことと何が違う。そんな真似で彼女を救うなど、許されない……!)
胸を掻き毟るような焦燥に、シエルは強く歯噛みした。
――けれど、焦りや激情に呑まれている暇など一瞬もない。
苦しいほどの吐息とともに頭を冷やし、シエルは腕の中のリリアへと視線を落とした。揺らぐ瞳をまっすぐに見つめ返し、力強く語りかける。
「あの男に飲ませられた禁薬の解毒が先決だ。ここで迷っている時間はない。まずは安全な場所へ向かおう。……必ず、俺の手で解毒してみせるから」
「はい……シエル様と一緒なら、どこへでも……」
答えるリリアの瞳には、ひとかけらの疑いもなかった。澄みきった信頼だけが、星のように静かに灯っていた。
シエルは、大きなマントで彼女を冷気から包み込むと、慈しむように、軽々と抱き上げた。
腕のなかの身体は、羽根のように軽い。けれど、そこには確かに、命の熱があった。守りたいと願うすべてが、いま、ここにあった。
背後には、氷の底に沈んだ男の歪んだ静寂。そこへ一度も振り返らず、シエルは足早に、廊下の闇へと踏み出した。
影の落ちる角を曲がったとき、暗がりから、音もなく人影が滑り出してくる。レオンが伏せていた密偵だった。
「裏手に馬車を手配してございます。北の離宮へお急ぎを。後始末と館の封鎖は、すべて我々にお任せください」
「……助かる。彼女に、王家の禁薬が使われた。解毒を急がねばならない」
低く頷き、シエルは腕のなかのぬくもりを確かめるように、抱え直した。
開け放たれた勝手口の向こうには、吹雪の夜が、白い口を開けて待っている。
けれど、不思議と、寒さは感じなかった。
胸に抱いた小さな体温が、凍てつく世界でただひとつ、彼の灯だったから。彼は夜の闇へと、風のように駆け出していった。




