騙し続けた罪、愛し続けた罰
馬車は、荒れ狂う吹雪の夜道を、軋みながら突き進んでいた。
窓の外では、風が白い獣のように咆哮している。その音から切り離されたような車内で、シエルの蒼い瞳は、闇に浮かびながらどこか遠くを見つめていた。深く沈んだ眼差し。固く結ばれた唇には、痛々しいほどの緊張が刻まれている。
腕のなかのリリアは、痺れが少しずつほどけ、指先に感覚が戻りはじめていた。シエルの胸元に身を預けたまま、ふと不思議そうに、自分の胸へ掌を当てる。
「シエル様……不思議です。あれほど私を灼いていた聖灼の熱が……静まっているんです。あんなに、痛かったのに……」
シエルは、はっと目を見開いた。
彼女の手首に、そっと指を添える。体内で暴れていたはずの激しい熱は、嘘のように凪いでいた。夜の湖面のような、静かな脈。
「いつからだ……?」
問われた途端、リリアの頬が、瞬く間に朱に染まった。
彼の胸元にぎゅっと顔をうずめて隠しながら、恥じらいに震える、消え入りそうな声で答える。
「……シエル様が……口づけてくださった時……からです……」
「――っ」
思いがけない言葉に、シエルは一瞬言葉を詰まらせた。
込み上げる熱い感情を覆い隠すように口元に手を当て、引き締まった面持ちで深く思案を巡らせる。
神の『魂』そのものを宿すがゆえに、人間の小さな器から溢れて暴走するリリアの聖灼。
対して、北の王家に代々受け継がれてきた己の氷は、太古の神の『血脈』を宿した遺伝の力。
(あのとき、無意識に注ぎ込んだ俺の魔力が、彼女の魂の熱と溶け合って、鎮めたというのか……?)
思い返せば、神殿でリリアの熱をなだめていたあの薬湯にも、彼の魔力が溶かしこまれていた。散らばっていた欠片が、頭のなかで、静かに繋がっていく。
シエルはゆっくりと瞳を開いた。
「……俺の氷は、北の王家に伝わる古い神の力の、ほんの片鱗なんだ。そして君を灼くその熱は、神の『魂』の熱そのもの。どちらも神を起源とする力だから……互いに響きあえるのかもしれない」
「シエル様の、魔力が……」
「ああ。聖灼が静まってくれたのは幸いだった。……だが、あの禁薬の効果まで消えたわけじゃない。麻痺が解け、君の体の準備が終われば、次は……媚薬の効果が襲いかかってくるはずだ」
苦渋を噛み締めるようなシエルの声には、薬師としての焦りが滲んでいた。
「……離宮に着いたら、一刻も早く解毒薬を調合する。どんな手を使ってでも、君を助けてみせるから……」
リリアは、こくりと頷いた。そして、静かに息を吸うと、ずっと胸の奥に引っかかっていたもうひとつの疑問を、そっと言葉にした
「……あの、シエル様」
彼の顔をじっと見つめる。その瞳には、消せない切なさが揺れていた。
「北の王家の力をお持ちなのですね。それに、砦で……王太子殿下が、あなたを叔父上とお呼びでした。……シエル様は、北の王家の方、なのですか?」
問いが夜気に落ちた瞬間、シエルの身体が、ぴたりと強張った。
抱きしめる腕に力がこもるのを、リリアの肌は敏感に感じ取る。
「…だとしたら、私はずっと、大変なご無礼を……。今こうして抱きしめていただいていることすら、本当は、不敬にあたるのでは……」
途切れがちな声でそう呟くリリアに、シエルは瞳を伏せ、睫毛の陰に青い光を隠した。
逃れられない真実に、自責の念が胸を締め付ける。
「……騙すような真似をして、ごめん……」
「……シエル……様……」
「俺はただの神官じゃない。……北の王弟、シエル・ノルディス。それが……俺の本当の姿だ」
馬車が大きく揺れ、影が二人の輪郭を歪める。シエルはリリアの顔を見ることができず、目を閉じたまま、胸の奥に澱んでいた懺悔を溢れさせた。
「不敬だなんて、そんなこと思うはずがない。無礼を働いていたのは、偽りの姿で君に近づいた俺の方だ。君は何も悪くない……」
息をのむ彼女に、ひとこと、またひとこと、重ねるように。彼は真実を差し出していった。
「大冷害によって困窮する我が国を救うため……豊穣の約束である君の力を求めて、俺は神官の仮面を被り、南の聖域へ潜入した。薬師として君に近づいたのも、すべては国のため、君の動向を探るための偽りだったんだ」
己の汚点と欺瞞を暴き立てるように、シエルの声は小さく震えている。
「ジュリアンが暴走し、聖域を襲撃して君を連れ去る事態に陥ったのも……すべては王家の権力闘争に君を巻き込んでしまった俺の不徳だ。もっと早く見抜き、君を守るべきだったのに……恐ろしい目に遭わせ、こんな禁薬まで飲ませてしまった……」
シエルの手が、マント越しに、リリアの身体をきつく握りしめる。胸を抉る痛みを押し殺し、彼は絞り出すように言った。
「嘘をついて、ごめん。巻き込んで、ごめん。助けに来るのが遅くなって……本当に、ごめん……! ――もう俺を信じられないかもしれないけれど……それでも、君を……守らせてほしいんだ」
あまりにも小さく、すがりつくような響きだった。
王弟としての威厳も、冷徹な仮面も、すっかり剥がれ落ちていた。そこにいるのは、大切な人を傷つけた罪に打ちひしがれた、ただひとりの男だった。
そんな彼を、リリアは、愛おしむような温かな眼差しで見つめた。
そして、ようやく動くようになった細い腕を、そっと彼の背にまわし、自分の胸へと抱き寄せた。
「泣かないで……」
指先が、シエルのやわらかな髪を撫でる。
「……泣いてなどいないよ」
強がる声は、かすかに震えていた。
「だって、ずっと苦しかったでしょう。あなたは……嘘をつくのが平気な人じゃないわ。だって、嘘をつくとき、瞳がとても悲しそうに揺れるのを、知ってますもの」
聖域で過ごした日々のなかで、彼女はずっと気づいていたのだ。仮面の下にある、まっすぐな優しさに。嘘を重ねるたびに、その瞳に揺れていた痛みに。
「それに……聖域を出てから、ずっとこのペンダントに助けてもらいました。シエル様は、ずっと私を守っていてくださいました」
リリアは、慈しむような微笑みを浮かべ、胸元で青く輝くペンダントに、そっと手を添えた。
「あなたが私に注いでくださった優しさには、ひとつも偽りなんてありませんでした。このペンダントも、あの薬湯も……今日、命を懸けて助けに来てくださったことも。……すべて、シエル様の本当の心でしょう?」
「……っ……」
「私を救ってくださったのは、北の王弟殿下ではなく……私の大好きな、シエル様です」
とくとくと刻まれる、リリアの温かな心音。髪を撫でる指先の、やさしさ。
「……だから、どうかご自分を責めないで……」
偽りも弱さも、まるごと受けとめて許してくれる。その慈しみに、シエルの目から、熱いひとしずくがあふれた。涙は彼女の衣を濡らし、ゆっくりと、染みこんでいく。
彼は彼女の胸元に顔を埋めた。赦しを乞うように、そして二度と離さないと誓うように、細い腰を、力強く抱きしめ返す。
「……ありがとう……リリア……」
吹雪の闇を走る馬車のなかで、ふたりの絆は、もう揺るぎない確信に変わっていた。
窓の外で、風はまだ吠えつづけている。けれど、抱きあうふたりの体温だけは、凍てつく夜のなかで、小さな灯のように静かに燃えていた。
だが、離宮への到着が近づくにつれ、シエルの胸にはもうひとつの残酷な現実――王家の禁薬が刻一刻と牙を剥こうとしているという試練が、重く冷たい影を落とし始めていた。




