第8話 息が足りない
「次は、ちゃんと音を聞いてみよう」
香苗はそう言うと、由実の首からストラップを外した。
赤いテナーを一度ケースのそばへ置き、本体からネックを抜く。
「最初から全部つけて吹くと、何が悪いのか分かりにくい。まずはこれだけ」
香苗が差し出したのは、マウスピースを取りつけた赤いネックだった。
アルトの体験で使ったものより、管もマウスピースも一回り大きい。
由実は両手で受け取り、黒いマウスピースを見つめた。
「アルトと同じように吹けばいいんですか?」
「基本は同じ。でも、テナーの方が口の中を広く使う。アルトのつもりで強く噛むと鳴りにくいぞ」
「噛まないようにすればいいんですね」
「噛まないんじゃなくて、支える。力を抜きすぎても駄目」
簡単そうに聞こえたのに、最初から曖昧だった。
噛んではいけない。
けれど、支えなければならない。
どのくらい力を入れるのが正しいのか、由実には分からない。
「上の歯を乗せて、下唇を少しだけ巻く。くわえる位置は、そこよりもう少し深く」
香苗に言われたとおり、由実はマウスピースを口へ入れた。
「肩を下げる。大きく息を吸って、まっすぐ入れる」
由実は息を吸い込んだ。
香苗の前で失敗したくないと思った瞬間、口元へ力が入る。
息を吹き込むと、すう、と空気が漏れただけだった。
「噛みすぎ」
すぐに指摘された。
「そんなに力を入れたつもりは……」
「顎が固まってる。下唇も押しつぶしてる」
由実は口を離し、唇を指で触った。
自分では、アルトのときと同じようにしているつもりだった。
「もう一回。今度は口の周りだけで支えて、顎は少し下げる」
言われたとおりにしようとすると、今度はマウスピースが安定しない。
息を入れる。
また空気だけが抜けた。
「息が遅い」
「遅い?」
「量が少ないんじゃなくて、勢いが足りない。もっと最初から前へ押す」
由実は頷き、三度目の息を吸った。
強く吹けば、変な音が出るかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、吐き出す直前に息が弱くなった。
結果は同じだった。
「肩に力が入ってる」
「力を抜こうとはしています」
「抜こうとして固くなってる」
香苗の言葉には遠慮がなかった。
できていないところを、一つずつそのまま指摘される。
優しく励まされるより、少し痛かった。
由実はアルトサックスで音を出したことがある。
サックスなら、形が違っても同じように鳴らせると思っていた。
少なくとも、ほかの楽器ほど苦労はしないはずだと。
けれど、目の前の赤いネックは、由実の息を音に変えてくれない。
(やっぱり、アルトとは違う)
香苗と同じ楽器なら、もう少し簡単にできたのかもしれない。
そう考えた自分が、すぐに嫌になった。
真琴はアルトを三年間吹いている。
同じ楽器を持てたとしても、由実が同じように吹けるわけではない。
「由実、口を離して」
香苗に言われ、由実はマウスピースから唇を離した。
「今、音を出そうとしすぎてる」
「音を出す練習ですよね?」
「そうだけど、鳴らそうとして噛んだらリードが動かない。まず息を通すことだけ考えろ」
香苗は自分のアルトを持ってこなかった。
代わりに由実からテナーのネックを受け取ると、マウスピースの位置とリードを確かめた。
「楽器は悪くない。リードも大丈夫」
短く息を入れる。
太く低い音が、すぐに鳴った。
楽器が古いからではない。
赤いからでもない。
吹く人が変われば、同じネックからきちんと音が出る。
由実は何も言えず、香苗からネックを受け取った。
「もう一回」
「はい」
「今度は変な音でもいい。途中で止めるな」
由実はマウスピースをくわえた。
肩を下げる。
顎へ力を入れすぎない。
大きく息を吸い、今度こそ途中で弱めずに吐き出した。
ぶおっ。
突然、大きな音が鳴った。
低いとも高いとも分からない、不安定な音だった。
由実は驚き、すぐに口を離した。
「びっくりした……」
「こっちもびっくりした」
香苗が片耳を押さえながら言う。
「すみません」
「謝る必要はない。今のは鳴った」
「でも、変な音でした」
「最初からきれいな音が出たら、私たちが練習する意味ないだろ」
香苗は由実の手にあるネックを指した。
「息でリードを動かせた。今はそれで十分」
十分。
由実は、今の音を思い返した。
美しいとは、とても言えない。
けれど、空気が漏れただけではなかった。
赤いネックが、由実の息へ確かに応えた。
「もう一回やります」
「その前に休め。立て続けに吹くと、息が浅くなる」
香苗に止められ、由実は口元からネックを下ろした。
少ししか吹いていないはずなのに、胸が上下している。
額にも薄く汗が浮かんでいた。
音を一つ出すだけで、これほど息を使うとは思わなかった。
◇
少し休んだあと、香苗はネックを赤いテナーへ取りつけた。
「次は本体で吹く」
由実は再びストラップを首へかけた。
香苗が金具をつなぐと、楽器の重さが一気に身体へかかる。
さきほどより覚悟していたはずなのに、右肩が下がった。
「ほら、もう曲がってる」
香苗は由実の正面からストラップを短くした。
「楽器を腕で持ち上げようとするな。重さはストラップに預ける」
「首が苦しいです」
「少しは仕方ない。でも、今は右手で全部支えようとしてるから余計に重い」
香苗は由実の右手を鍵の上へ戻した。
「親指はここ。握らない。手首を曲げすぎるな」
続いて、左手の位置も直される。
指を置こうとするたび、別の鍵へ触れてしまう。
アルトより管が太く、指を広げなければ届かない場所もあった。
「肘を張りすぎ」
「でも、指が届きません」
「肩から上げるんじゃなくて、腕を少し前へ出す」
香苗は由実の横へ立ち、肘を軽く押した。
「そう。手首はそのまま」
言われるまま姿勢を変えると、先ほどより指が自然に鍵へ乗った。
「少し楽です」
「最初からそう言ってる」
香苗は由実の周りを一度回り、背後へ立った。
「楽器が右へ流れてるな」
すぐ後ろから声が聞こえる。
香苗の手がストラップの金具へ伸び、赤いテナーの位置を身体の中央へ寄せた。
肩越しに腕が見えた。
制服の袖が、由実の背中へかすかに触れる。
由実は反射的に背筋を固くした。
「また力入った」
「急に後ろへ来るからです」
「横からじゃ見えないところもある」
香苗は気にした様子もなく、由実の肩へ手を置いた。
「ここを上げない。息を吸うたびに肩が動いてる」
「息を吸ったら、上がりませんか?」
「胸だけで吸ってるから上がるんだよ」
香苗は由実の前へ回ると、楽器を一度支えた。
「息を腹へ入れる」
「腹へ?」
「本当に腹に空気が入るわけじゃないけど、下の方まで広げる感じ」
由実は試しに息を吸った。
胸が膨らみ、肩も少し上がる。
「違う。腹、引っ込んでる」
「入れようとしたんですけど」
「腹に息を入れるのであって、腹を引っ込めるんじゃない」
香苗は由実の正面に立ったまま、迷いなく腹部へ手を添えた。
制服越しに、手のひらの温度が伝わる。
由実の身体が固まった。
「ここを外へ広げるつもりで吸う」
「佐伯先輩」
「何?」
「近いです」
「姿勢を見るんだから仕方ないだろ」
香苗は由実の反応をまるで気にせず、手を添えたまま続けた。
「ほら、吸って」
由実は息を吸おうとした。
しかし、腹部へ意識を向ける前に、香苗の手が気になってしまう。
胸も腹も動かず、喉だけが鳴った。
「息、吸ってないぞ」
「分かっています」
「分かってるなら吸え」
「今やろうとしています」
香苗は不思議そうに由実の顔を見た。
その距離で見上げられ、由実はさらに息ができなくなった。
「顔、赤いけど苦しい?」
「苦しくはありません」
「じゃあ、もう一回」
由実は視線を窓の方へ逃がした。
香苗の手を意識しないようにして、鼻からゆっくり息を吸う。
腹部が少し外へ動いた。
「今の。もう一回」
香苗の手が離れる。
由実は少しだけ安心し、同じように息を吸った。
今度は肩を動かさず、腹部を広げることができた。
「それを吹く直前にやる」
「難しいです」
「最初はな。できない理由が分かったなら、次は直せる」
香苗は赤いテナーのマウスピースを、由実の口元へ近づけた。
「くわえて」
由実が口をつけると、香苗はその横から顔をのぞき込んだ。
「浅い。もう少し深く」
香苗の顔が近い。
体育館の舞台で見ていた横顔が、手を伸ばさなくても届きそうなところにある。
由実はどこを見ればよいか分からず、マウスピースの先へ視線を落とした。
「そこ。下唇を巻きすぎない」
香苗の指が、由実の顎の近くで止まる。
「噛まない。口の横を締める」
「はい」
「返事すると外れるだろ」
由実は慌てて口を閉じ直した。
香苗が半歩離れる。
「吸って、吹く」
由実は腹部へ息を入れた。
肩を上げない。
噛みすぎない。
息を途中で弱めない。
赤いテナーへ吹き込む。
ぶう、と濁った音が鳴った。
すぐに揺れ、空気の漏れる音へ変わる。
由実は息が続かず、二秒ほどで口を離した。
「息が足りない」
「いっぱい吸いました」
「吸った量じゃなくて、最後まで支えられてない。音が出た瞬間に安心して、息が止まってる」
「そんなことまで分かるんですか?」
「聞けば分かる」
香苗は容赦なく答えた。
「あと、途中からまた噛んだ。口が疲れると力が入る癖があるな」
できていないことが次々に増えていく。
肩。
腹。
息。
口の形。
楽器の位置。
一つを直そうとすると、別の一つが崩れる。
「やっぱり、向いてないんでしょうか」
由実が漏らすと、香苗の眉がわずかに寄った。
「一日目で何が分かるんだよ」
「でも、できないことばかりです」
「できないことを見つけるのが練習だろ」
香苗は赤いテナーを指した。
「今日、最初はネックだけでも鳴らなかった。でも今は、本体をつけて音が出た」
「汚い音でした」
「音が汚いことと、音が出なかったことは別だ」
由実は黙った。
「できてないところは直す。でも、できたところまでなかったことにするな」
香苗の声は厳しかった。
けれど、怒っているわけではなかった。
失敗を慰める代わりに、できたこととできなかったことを分けている。
由実が全部まとめて「駄目だった」と片付けようとするのを、許してくれない。
「もう一回だけ吹くぞ」
「はい」
「今度は長さより、息を止めないことだけ考えろ」
由実は姿勢を整えた。
腹部へ息を入れる。
口の横を締める。
赤いテナーへ、まっすぐ息を送る。
濁った音が鳴った。
息の音も混じっている。
途中で少し揺れた。
それでも今度は、驚いて止めなかった。
息がなくなるまで、音を支え続けた。
「今の方がいい」
香苗が言った。
「きれいじゃないです」
「今日はそこじゃない」
由実は楽器から口を離し、大きく息を吐いた。
首も腕も痛い。
唇には、まだマウスピースの感触が残っている。
それでも最初に構えたときより、赤いテナーの重さが少しだけ分かるようになっていた。
◇
練習が終わると、香苗は赤いテナーの水分を拭き取り、由実にも手入れの手順を見せた。
由実が不慣れな手つきでクロスを通す間も、香苗は急かさなかった。
片付けを終えたあと、香苗は自分の鞄から小さな大学ノートを取り出した。
「これ、使え」
「何ですか?」
「練習記録」
表紙には何も書かれていない。
「日付と、やったこと。できたこと。次に直すことを書く」
「毎日ですか?」
「練習した日はな。自分で何が変わったか分からないと、ずっとできてない気になるから」
香苗はノートとペンを由実へ渡した。
「今日の分、書いてみて」
由実は最初のページを開いた。
日付を書き、その下へ今日の反省を記そうとする。
『音が汚かった』
そこまで書いたところで、香苗の指が文字の横を叩いた。
「それだけ?」
「ほかにも、息が足りませんでした」
「できなかったことしか書いてない」
「実際、できなかったので」
「ネックだけで音が出た」
香苗は指を一本立てた。
「本体をつけて、構えられた」
二本目。
「短いけど、息を止めずに吹けた」
三本目。
「できなかったことだけじゃなく、できたことも書け」
由実はノートへ視線を戻した。
今日の自分は、赤いテナーをまともに吹けなかった。
それは変わらない。
けれど、完全に何もできなかったわけでもない。
由実は『音が汚かった』の下へ、新しい行を書き加えた。
『ネックだけなら音が出た』
少し考え、さらに続ける。
『楽器を構えられた』
たった二つ。
それでも文字にすると、今日一日が失敗だけではなかったように見えた。
「次の課題は?」
「息を最後まで止めないこと」
「あと、噛みすぎない」
「分かっています」
「分かっててもできてなかっただろ」
由実が顔を上げると、香苗は楽しそうに笑っていた。
厳しいのか、意地悪なのか、まだよく分からない。
それでも、由実が出した不格好な音を、香苗は一つも聞き逃していなかった。
できないところだけでなく、ほんの少し変わったところまで。
由実はノートを閉じ、両手で持った。
「明日も、これを書くんですか?」
「来るならな」
香苗はそう言って、赤いテナーのケースを閉じた。
由実は少し迷ってから答えた。
「来ます」
赤い楽器を好きになったわけではない。
今日出した音を、よい音だとも思えなかった。
それでも明日は、もう少しだけ長く吹けるかもしれない。
そんなふうに思えたのは、初めてだった。




