第9話 今の音、忘れるなよ
二秒。
由実が最初に赤いテナーの音を保てた時間だった。
翌日は、三秒まで伸びた。
けれど、途中で肩が上がり、最後は空気の漏れる音へ変わった。
その次の日は、音を長くしようとするあまり、マウスピースを強く噛んだ。
細く高い音が飛び出し、驚いた由実はすぐに口を離した。
「今のは何ですか?」
「リードを締めつけすぎて、音が裏返った」
香苗はそう説明し、練習記録の次の課題へ『噛みすぎない』と書き足した。
別の日には、息を長く保つことだけに集中しすぎて、音の始まりがぼやけた。
「鳴ってから頑張るんじゃなくて、吹く前に準備する」
「準備はしています」
「楽器を構えただけだろ。息を吸う場所も、口の形も決まってない」
香苗の指摘は、毎日増えた。
肩を上げない。
右手へ重さをかけすぎない。
マウスピースを噛まない。
口の横を緩めない。
息を途中で止めない。
音の終わりまで支える。
一つを直せば、別の一つが崩れる。
昨日できたことが、今日はできない日もあった。
由実は練習記録を開くたび、できなかったことから書き始めた。
『音が途中で揺れた』
『肩へ力が入った』
『三回、音が裏返った』
すると香苗は、決まってその下に別のことも書かせた。
『昨日より一秒長く吹けた』
『自分でストラップを合わせられた』
『一度だけ、息の音が少なかった』
「こんな小さいことも書くんですか?」
「小さいかどうかは、後で決めればいい」
香苗は由実の記録帳を閉じた。
「今のお前は、昨日できなかったことが一つできたら、それが進歩だろ」
由実には、まだ素直に頷けなかった。
けれど、香苗に見せる前に、自分からできたことを一つ探すようにはなっていた。
◇
その日、由実が音楽室へ入ると、アルトサックスの音が聞こえた。
真琴が譜面台の前に立ち、簡単な音階を吹いている。
低い音から始まり、一音ずつ上がっていく。
指が動くたびに音の高さが変わり、また順番に戻ってきた。
途中で一度だけ音が揺れたが、それでも由実には十分な演奏に聞こえた。
「前より指、戻ってきたね」
千秋が言うと、真琴は楽器を下ろして笑った。
「まだ高い音で力が入っちゃいます」
「焦らなくていいよ。音階を速く吹くより、一音ずつそろえる方が先」
「はい」
真琴はもう一度、アルトを構えた。
由実は赤いテナーのケースを持ったまま、その様子を見ていた。
自分はまだ、一つの音をまっすぐ伸ばすことさえできない。
真琴はすでに、いくつもの音をつなげている。
同じ仮入部期間に参加し、同じサックスパートへ来たのに、立っている場所がまるで違った。
「由実、ぼうっとしてないで出すぞ」
背後から香苗に呼ばれた。
「はい」
由実はケースを机へ置き、留め金を外した。
深い赤色のテナーを取り出す。
数日前までは、触れるたびに古い傷ばかりが目に入った。
今はまず、どこへ手を添えれば安全に持ち上げられるかを考える。
机へクロスを敷き、その上へ楽器を置く。
ネックを取りつけ、マウスピースとリードの位置を確認する。
香苗に何度も直された手順を、自分だけで進められるようになっていた。
「組み立ては、だいぶ速くなったな」
「毎日やっていますから」
「それ、今日のできたことに書けるぞ」
「まだ練習も始まっていません」
「始める前から一個あるなら得だろ」
香苗は笑い、自分のアルトを首へかけた。
由実もストラップへテナーをつなぐ。
最初の頃ほど、重さに身体を持っていかれなくなった。
それでも長く構えていると、首と右腕が痛くなる。
由実は肩を一度上げ、力を抜いた。
「今日は五秒をそろえる」
香苗が言った。
「長く吹くんじゃなくて、最初から最後まで同じ音で五秒」
「五秒なら、前にも出ました」
「一回だけな。途中で揺れてた」
「今日は揺れなければいいんですね」
「息の音も減らす」
条件が一つ増えた。
由実は口を引き結ぶ。
「嫌そうな顔するな。できないなら、どこができないか見るだけだ」
香苗はアルトを構えた。
「まず見本」
静かに息を吸う。
音が鳴る前から、香苗の身体は整っていた。
足の位置。
背筋。
口元。
どこにも余分な力が入っていない。
アルトから、一つの音が伸びた。
最初から最後まで太さが変わらない。
まっすぐな一本の線のように続き、香苗が決めた場所で静かに切れた。
「今のをまねしようとするなよ」
「見本を見せたのに?」
「音だけ追いかけると、力むから」
香苗はマウスピースから口を離した。
「私と由実では、楽器も息の量も違う。同じ音を出そうとするんじゃなくて、自分の息を同じように流す」
由実は真琴の方を見た。
金色のアルトを構え、音階を練習している。
「真琴は、もういくつも音を出しています」
「中学で三年吹いてたからな」
「分かっています」
「分かってる顔じゃない」
由実は赤いテナーの鍵へ指を置いた。
「同じ一年生なのにって思ってるだろ」
図星だった。
由実が黙っていると、香苗はため息をついた。
「担当楽器も違う。経験した時間も違う。今やってる練習も違う」
「でも、真琴はどんどん先へ進んでいます」
「真琴は、自分が三年間やってきた続きから始めてる。由実は最初の一週間だ」
香苗は由実の練習記録を手に取った。
「比べるなら、これと比べろ」
最初のページを開く。
『ネックだけなら音が出た』
『楽器を構えられた』
次のページ。
『本体で二秒吹けた』
その次。
『自分で組み立てた』
『昨日より長く吹けた』
ページを進むにつれ、できたことが少しずつ増えている。
「真琴と同じ速さで進む必要はない。昨日の由実より一つ進めばいい」
「進めなかった日は?」
「何が悪かったか分かったなら、次に使える」
「何も分からなかったら?」
「私に聞け」
香苗は記録帳を閉じ、由実へ戻した。
「そのために先輩がいるんだろ」
由実は受け取った記録帳を見つめた。
香苗は励まそうとして、できないことを隠したりはしない。
今日もできなければ、噛みすぎだと言われる。
息が足りないとも、姿勢が崩れているとも言われるだろう。
けれど、理由が分からないまま一人で置いていかれることはない。
「始めるぞ」
「はい」
由実は赤いテナーを構えた。
腹部を広げるように息を吸う。
マウスピースをくわえ、舌を離す。
音が鳴った。
最初の一秒は安定していた。
二秒目で、わずかに揺れる。
揺れを止めようとして口元へ力を入れると、三秒目で音が細くなった。
由実は息を止めた。
「今、途中で直そうとして噛んだ」
「揺れたからです」
「音が揺れたときに口で押さえ込むな。息を一定にする」
二度目。
今度は噛まないように意識した。
すると口の横が緩み、空気の音が混じった。
「口まで全部緩めるな。顎は固めない。横は支える」
「両方同時にできません」
「やるしかない」
三度目は、音の始まりから息が漏れた。
四度目は、途中で高い音へ裏返った。
五度目。
肩を上げないように意識しすぎて、十分に息を吸えなかった。
二秒も続かず、音が切れる。
「一回休むぞ」
香苗が言った。
「まだできます」
「できるかどうかじゃなくて、今は口が疲れて崩れてる」
由実は反論しかけたが、マウスピースから口を離すと、下唇がじんじんと痛んだ。
腕も重い。
香苗の言うとおりだった。
由実は赤いテナーをスタンドへ置き、椅子へ座った。
香苗が水筒を差し出す。
「飲む?」
「自分のがあります」
「そう」
香苗は特に気を悪くした様子もなく、自分の水筒へ口をつけた。
音楽室では、ほかの部員たちもそれぞれ練習している。
クラリネットの細かな音。
トランペットの長い音。
打楽器が一定の間隔で刻む音。
その中へ、真琴のアルトも混じっていた。
「正式入部届、明日までだよな」
香苗がふいに言った。
由実の手が止まった。
「はい」
「まだ出してない?」
「まだです」
仮入部の申込書とは違う。
正式入部届へ名前を書けば、吹奏楽部員になる。
毎日練習へ来て、この赤いテナーを担当する。
仮入部だから、うまくいかなくても仕方がないとは言えなくなる。
「迷ってる?」
「少し」
「テナーが嫌?」
由実はすぐには答えられなかった。
赤い外見は、今も好きではない。
金色の楽器の中へ並べば、きっと一つだけ目立つ。
傷も多い。
重くて、息も足りない。
真琴のアルトを見るたび、香苗と同じ楽器を吹きたかった気持ちも残っている。
「嫌というより……好きなのか、分かりません」
「まだ一週間も吹いてないからな」
「吹奏楽部も、続けられるか分かりません」
「それは入ってからでも分からないだろ」
「途中で辞めたら、迷惑になります」
「続けるつもりで入って、どうしても続けられなかったなら、そのとき考えればいい」
香苗は椅子の背へ身体を預けた。
「ただ、私が頼んだから入るっていうのはやめろよ」
由実は顔を上げた。
「え?」
「テナーを試してほしいって頼んだのは私だけど、入るかどうかまで決める気はない」
「でも、テナーは必要なんですよね」
「必要だよ」
香苗はあっさり認めた。
「だからって、由実が嫌なのに続けても、誰のためにもならない」
「嫌だとは言っていません」
「じゃあ、やりたい?」
答えに詰まった。
やりたい。
そう言い切れるほど、赤いテナーを好きではない。
吹奏楽部そのものに、強い憧れがあるわけでもない。
「分かりません」
「なら、今日の分を吹いてから決めればいい」
香苗は立ち上がった。
「まだ練習は終わってない」
それ以上、入部の話を続けなかった。
由実の答えを急かさず、赤いテナーの前へ戻っていく。
その背中を見て、由実も立ち上がった。
自分が入部しなければ、香苗は困るかもしれない。
それでも香苗は、必要だから入れとは言わなかった。
最後に決める場所だけは、由実のために残している。
◇
「今度は五秒を考えなくていい」
香苗が言った。
「長さを決めないんですか?」
「息を吸う。構える。音を出す。最後まで同じ息で流す。それだけ」
「結局、同じでは?」
「秒数を数えると、数字の方へ意識が行く。今は自分の身体だけ見ろ」
由実は赤いテナーを構えた。
足を肩幅ほどに開く。
背筋を伸ばす。
肩を一度持ち上げ、力を抜く。
右手へ重さをかけすぎない。
指を鍵へ置く。
香苗の音を思い出そうとして、やめた。
同じ音は出せない。
真琴の音階も考えない。
見るのは、昨日までの自分だけでよい。
息を吸う前に、口の形を作る。
腹部を外へ広げるように、深く息を入れる。
マウスピースをくわえる。
噛みすぎない。
口の横で支える。
舌を離し、息を前へ送った。
赤いテナーが鳴った。
最初の音へ、いつものような空気のざらつきがなかった。
由実は驚きそうになった。
けれど、そこで息を止めなかった。
音をきれいにしようとも、長くしようとも考えない。
ただ、同じ速さで息を流す。
楽器の重さが首へかかる。
腹部が少しずつ戻っていく。
口元が疲れ始める。
それでも噛まない。
音は揺れずに続いた。
太くもない。
華やかでもない。
香苗の音のような深さもない。
ただ一本の、まっすぐな音だった。
由実が息を使い切る直前、舌で音を止める。
音楽室に残った響きが、ゆっくりと消えた。
由実はマウスピースから口を離した。
自分が今、何をしたのか分からなかった。
「……今の」
声を出すと、残っていた息が震えた。
「私の音ですか?」
「そうだよ」
香苗は笑わなかった。
大げさに手を叩くことも、声を上げることもしない。
ただ、由実が持つ赤いテナーを見ていた。
「今の音、忘れるなよ」
由実は赤い管へ目を落とした。
細かな傷。
剥がれた塗装。
銀色の鍵。
見た目は、何も変わっていない。
さきほどまで濁った音や、息の混じった音を出していた楽器と同じだった。
けれど、今の一音だけは違った。
偶然だったのかもしれない。
次に吹けば、また揺れるかもしれない。
それでも、確かに由実が出した音だった。
「もう一回、吹いてもいいですか?」
香苗の口元が、わずかに上がった。
「休んでからな。今すぐやると力む」
「でも、忘れそうです」
「だから記録するんだろ」
香苗が、机の上の大学ノートを指した。
由実は赤いテナーをスタンドへ置き、急いで記録帳を開いた。
今日の日付を書く。
その下へ、ペンを走らせた。
『昨日まで出せなかった音が出た』
きれいな音が出た、とは書かなかった。
香苗のような音でも、真琴のような音でもない。
それでも昨日までの由実には出せなかった。
その事実だけで十分だった。
「今日のできたことは?」
香苗が横から尋ねる。
「書きました」
「課題は?」
由実は少し考え、次の行へ書き足した。
『同じ音を、もう一度出す』
「それ、明日の目標だな」
「はい」
由実は記録帳を閉じた。
机の端には、まだ白い正式入部届が置かれている。
仮入部へ参加してから、何度も見てきた用紙だった。
由実はそれを自分の前へ引き寄せた。
「書くの?」
香苗が尋ねる。
由実は頷いた。
「まだ、赤いテナーが好きなのかは分かりません」
「うん」
「続けられるかも、分かりません」
「うん」
「でも、さっきの音をもう一回出したいです」
香苗は何も言わず、由実へペンを渡した。
由実は入部届へ名前を書く。
橋本由実。
一年二組。
その下にある希望担当楽器の欄で、ペンが止まった。
アルトサックス。
書きたかった楽器の名前が、まだ頭に浮かぶ。
香苗と同じ金色の楽器。
真琴が迷いなく選んだ楽器。
けれど、由実が今もう一度出したいと思っているのは、赤いテナーから鳴った音だった。
由実はゆっくりと書いた。
『テナーサックス』
自分で選んだというには、まだ頼りない文字だった。
必要だと言われたから始めたことも変わらない。
それでも最後の一画を書いたのは、由実自身だった。
「お願いします」
入部届を差し出す。
香苗は受け取ると、希望担当楽器の欄を確認した。
「後悔するかもしれないぞ」
「そういうことを今言うんですか?」
「入ったら甘くしないってこと」
「今までも甘くなかったです」
「まだ仮入部用だよ」
香苗が意地悪そうに笑う。
由実は少しだけ不安になった。
けれど、帰りたいとは思わなかった。
もう一度、赤いテナーを構える。
次の音は、先ほどのようには鳴らないかもしれない。
また息が混じり、途中で揺れるかもしれない。
それでも明日になれば、香苗はできなかった理由を教えてくれる。
そして由実は、記録帳へできたことを一つ探して書く。
「佐伯先輩」
「何?」
「明日も、さっきの音の練習をしてもいいですか?」
「入部したんだから、聞かなくても来い」
「はい」
由実は赤いテナーを見下ろした。
まだ好きではない。
自分に似合うとも思えない。
けれど、先ほどの一音だけは、もう一度聞きたかった。
今度も、自分の息で。




