第10話 聞こえない音
譜面には、知らない記号が多すぎた。
音符の高さは、指使い表と見比べれば何とか分かる。
けれど、五線の上を細かく動く音符を目で追いながら、指を動かし、息を吸い、決められた長さだけ吹くとなると、急に別のことをしているように思えた。
「最初から全部吹こうとしなくていいから」
向かいの椅子に座った水野千秋が、由実の譜面を自分の方へ引き寄せた。
音楽室の隅には、五人分の椅子と譜面台が半円形に並べられている。
中央に千秋、その隣に香苗と真琴。少し離れたところに由実と、バリトンサックスを構えた榊原莉央がいた。
正式入部してから、由実がサックスパートの曲練習へ加わるのは今日が初めてだった。
「ここから、ここまでは休み」
千秋が鉛筆で譜面を囲む。
「そのあと、この音を四拍。次は二拍休んで、四分音符を三つ。今の由実なら、まずここまででいい」
「はい」
「吹けないところで無理に指を動かすより、吹くところへきちんと入る方が大事だから」
千秋の声は穏やかだった。
できないことを責められているわけではない。
それでも、由実は譜面へ引かれていく線を見ながら、申し訳ないような気持ちになった。
香苗たちには、一曲分の譜面が渡されている。
自分だけが、その中のほんの数か所しか吹けない。
「由実、ここの指は大丈夫か」
隣へ椅子を寄せた香苗が、譜面の音符を指差した。
「たぶん……」
「たぶんは危ないな。確認するぞ」
香苗は自分のアルトを膝へ置き、指だけを動かして見せた。
「左手はそのまま。右手はここまで。次の音で一本離す」
由実も赤いテナーを構え、教えられたとおりに指を置く。
キーを押すたび、細かな金属音がした。
「息を吸うのは、この休符の最後」
香苗が譜面へ小さく印をつける。
「ぎりぎりで吸うと、入るのが遅れる。前の音を聴きながら準備しとけ」
「はい」
「返事はいいな」
「それ、褒めてますか?」
「半分くらい」
香苗が口元を緩めた。
その向こうで、真琴が小さく笑う。
「橋本さん、一緒に入るところ、私も見るよ」
「ありがとう」
「私も最初、中学で譜面を追うの苦手だったから。目が先に行きすぎるんだよね」
真琴はそう言いながら、自分の譜面を軽く持ち上げた。
そこには由実よりもずっと多く、鉛筆で息継ぎや注意点が書き込まれていた。
経験者でも、何も考えずに吹いているわけではないらしい。
分かってはいても、真琴が自然に音階を吹く姿を見ると、同じ一年生とは思えなかった。
「じゃあ、最初は音出しから」
千秋の合図で、五人が楽器を構える。
莉央のバリトンは、由実のテナーよりさらに大きかった。
低く構えたベルが床近くまで伸びている。
「ロングトーン。四拍ずつ。音の始まりをそろえて」
千秋が息を吸う。
由実も慌てて吸い、マウスピースをくわえた。
五つの音が重なる。
千秋、香苗、真琴のアルトが一つの厚い響きを作り、その下へ由実のテナーが加わる。さらに低いところで、莉央のバリトンが床を支えるように鳴っていた。
由実は、自分の音を聞くことができた。
少し息が混じっている。
香苗たちより輪郭が曖昧で、音の始まりもわずかに遅い。
「もう一回」
千秋はすぐに言った。
「橋本さん、吸うのが遅い。音を出すときに準備を始めるんじゃなくて、その前に準備を終わらせる」
「はい」
「私の動きを見て」
千秋が楽器を構える。
肩が上がらない。
息を吸ったのも、見ていなければ分からないほど静かだった。
次の瞬間には、三本のアルトとバリトンがそろって鳴った。
由実はまた少し遅れた。
「今の半分くらい」
香苗が隣から言う。
「さっきよりは早い」
記録帳なら、できなかったことを書くところだ。
けれど香苗は、少しでも前と違えば、それを口にした。
由実はもう一度、譜面の休符を見る。
音を出す場所ではなく、その一つ前。
そこで息を吸う。
「もう一回お願いします」
由実が言うと、千秋は小さくうなずいた。
四人が楽器を構える。
由実も続く。
息を吸う。
指を置く。
千秋の身体がわずかに動いた瞬間、舌を離した。
音が鳴った。
今度は、自分だけが遅れて聞こえなかった。
「うん。今の入り」
千秋が言った。
たった一つ、同じ音を同じ瞬間に出しただけだった。
それでも由実の胸の奥が、少しだけ軽くなった。
(これなら、合奏でも吹けるかもしれない)
曲の練習に入ってからも、由実が吹く場所は少なかった。
香苗と真琴が細かな旋律を吹くあいだ、由実は何小節も休む。
ようやく出番が来ると、譜面へつけた印を見て息を吸う。
四拍、音を伸ばす。
休む。
次は同じ音を三つ。
指の動きが少ないところなら、自分の音を聞きながら吹けた。
音程が合っているかまでは分からない。
けれど、赤いテナーが鳴っていることは確かだった。
「橋本さん、最後の音が短い」
千秋に言われ、次は終わりまで息を残す。
「今度は長い」
短くすると足りず、伸ばすと出すぎる。
ちょうどよい場所が分からない。
何度か繰り返すうち、香苗の音が切れる瞬間を聞いて、自分も舌を止められるようになった。
「今のはそろったね」
真琴が笑う。
「うん」
由実も小さく笑い返した。
パート練習が終わる頃には、譜面の印をつけられた部分だけなら、何とか最後まで吹けるようになっていた。
音楽室の椅子が、全体合奏の形へ並べ替えられていく。
サックスパートの半円は崩れ、由実は香苗と真琴の後ろ側へ移った。
莉央はさらに後方の木管低音の席へ向かう。
周囲にはフルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット。
向こう側にはトランペットやホルン、トロンボーンが並び、最後列では打楽器の部員たちが譜面台を動かしていた。
さっきまで五人しかいなかった音楽室が、急に狭くなる。
「由実」
前の席から、香苗が振り返る。
「吹く場所、分かってるな」
「はい」
「全部追おうとするなよ。休んでる間に迷子になるから」
「迷子……」
「譜面のどこにいるか分からなくなるってこと」
なりそうだった。
すでに由実には、周囲の譜面をめくる音や、楽器を調整する音だけでも落ち着かなかった。
前方で顧問が指揮棒を上げる。
「頭から。新入生が入っているパートは、無理に全部吹かせないように」
音楽室の空気が変わった。
由実は譜面に視線を戻す。
最初の数小節は休み。
心の中で拍を数える。
指揮棒が下りた。
音が、一斉に押し寄せた。
フルートとクラリネットが細かな旋律を走り、金管の音がその下から大きく広がる。
打楽器の拍が、背中へ直接届く。
由実は驚いて、数えていた拍を一つ見失った。
(どこ……?)
慌てて譜面を追う。
香苗の身体が動いたのを見て、何とか現在の位置を見つける。
次が自分の出番だった。
息を吸う。
音を出す。
赤いテナーが振動した。
指にも、ストラップにも、吹いている感触はある。
それなのに、音が聞こえなかった。
パート練習では、あれほど大きく感じた音が、ほかの楽器の響きへ飲み込まれている。
(出てるよね)
口元を緩めれば、音が切れてしまう。
確かめることはできない。
由実はそのまま四拍を伸ばした。
次の出番でも、やはり自分の音は分からなかった。
ベルから音が出ているはずなのに、耳へ届かない。
まるで吹く真似だけをしているようだった。
(もう少しだけ)
由実は息を強くした。
それでも聞こえない。
金管が鳴るたび、自分の音はさらに遠くなる。
次はもう少し。
もう少しだけ。
気付けば肩へ力が入っていた。
テナーが重く感じ、首へストラップが食い込む。
マウスピースを強く噛み、息を楽器の奥へ押し込む。
音が大きくなった。
今度は聞こえた。
けれど、個人練習で出した安定した音とは違う。
硬く、ざらついている。
周囲の音の上へ、無理やり押し出したような響きだった。
それでも聞こえなくなるのが怖くて、由実は息を緩めなかった。
「止めてください」
指揮棒が止まった。
音楽室の音が、ばらばらに消える。
由実のテナーだけが、わずかに遅れて途切れた。
静かになった室内で、自分の荒い息が聞こえた。
「サックス、今の和音だけ確認します」
千秋の声だった。
顧問ではない。
パートリーダーとして、千秋が手を上げていた。
「橋本さん」
「はい」
名前を呼ばれ、背中が固くなる。
「今、テナーの音が周りを押してた」
怒鳴られたわけではない。
声も、パート練習のときと変わらない。
だからこそ、由実には逃げる場所がなかった。
「すみません」
「怒ってるわけじゃないよ。どうしてあの吹き方になったか、分かる?」
由実は唇を離した。
下唇に、歯の跡が残っている気がした。
「自分の音が、聞こえなくて……」
「うん」
「音が出てるか、分からなかったので。もう少し強く吹けば、聞こえるかなって」
周囲の視線が集まっているように感じる。
実際には、ほとんどの部員が譜面を見たり、楽器を持ち直したりしていた。
それでも由実には、全員の練習を自分が止めたことしか考えられなかった。
千秋は少しだけ考えてから、由実を見た。
「大きい音を出すことと、届く音を出すことは違う」
由実は返事をできなかった。
何が違うのか分からない。
聞こえなかったから、大きくした。
大きくしたら、今度は押していると言われた。
では、どう吹けばよかったのだろう。
「今は分からなくてもいい」
千秋はそう言って、譜面へ視線を戻した。
「ただ、自分の音を聞くために、周りの音を押しのけないこと。次は最初の息で吹いてみて」
「はい」
合奏が再開された。
由実は先ほどよりも小さく息を入れた。
音が聞こえない。
また強くなりそうになり、慌てて息を弱める。
今度は音そのものが痩せ、途中で途切れかけた。
次の入りでは、怖くて舌を離すのが遅れた。
パート練習でそろえられたはずの音が、一人だけ後ろへずれる。
何をしても間違っているようだった。
合奏が終わるまで、由実は譜面から顔を上げられなかった。
◇
片付けを終える頃には、音楽室に残る部員も少なくなっていた。
由実は赤いテナーのケースの前へ座り、記録帳を開いた。
今日の日付を書く。
その下へ、鉛筆を動かした。
『初めて合奏に参加した』
そこで一度止まり、次の行へ書く。
『自分の音が聞こえなくて、強く吹いた』
『音が汚くなった』
『合奏を止めた』
文字が並ぶほど、胸の奥が重くなった。
パート練習では、香苗たちと一緒に音を始められた。
けれど全体合奏では、そんなことは何の役にも立たなかったように思える。
「また、できなかったことばっかり書いてるな」
頭上から声がして、由実は記録帳を閉じかけた。
香苗が隣へしゃがみ込む。
「見ないでください」
「見せるための記録帳だろ」
「そうですけど……」
香苗は由実の手から取り上げることはしなかった。
閉じかけた表紙へ手も触れない。
ただ、その場に座った。
「水野先輩、怒ってましたか」
「怒ってない」
「でも、合奏を止めました」
「必要だから止めたんだろ」
「私が下手だったからですよね」
「下手じゃないとは言わない」
由実は顔を上げた。
「そこは否定してくれないんですか」
「始めたばっかりなんだから、上手いわけないだろ」
香苗は当然のように言った。
「でも、今日の問題は、下手だから起きたんじゃない」
「じゃあ、何ですか」
「自分の音しか聞こうとしなかったから」
言葉が胸へ刺さった。
香苗は慰めてくれなかった。
大丈夫とも、気にするなとも言わない。
「明日、二人で合わせるぞ」
「合わせる?」
「同じフレーズを吹く。アルトとテナーで」
「でも、楽器が違います」
「違うからやるんだよ」
香苗が立ち上がる。
「小さく吹けばいいわけでも、大きく吹けばいいわけでもない。それを音で確かめる」
「私に分かりますか」
「分かるまでやる」
香苗はそう言ってから、由実の記録帳を指差した。
「それと、今日できたことも書いとけ」
「できたことなんて……」
「パート練習では、入りがそろっただろ」
由実は閉じかけていた記録帳を、もう一度開いた。
最後の行へ、少し迷ってから書き加える。
『パート練習では、一度だけ音の始まりがそろった』
合奏を止めたことは消えない。
千秋の言った言葉も、まだ分からない。
大きい音と、届く音。
二つは同じではないらしい。
けれど今の由実には、その間に何があるのか見えなかった。
記録帳を閉じる。
香苗は先に音楽室の出口へ向かっていた。
「由実、帰るぞ」
「はい」
赤いテナーのケースを持ち上げ、由実はその後を追った。
明日の練習が怖くないわけではない。
それでも、自分の音が聞こえなくなった理由を、もう少しだけ知りたいと思った。




