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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第三章 大きな音と、届く音

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第11話 同じ音を吹く

「小さく吹けば、たぶん大丈夫です」


 放課後の音楽室で、由実は赤いテナーを構えながら言った。


 向かいには、アルトサックスを首から下げた香苗が立っている。


 ほかの部員たちは別の教室や廊下へ分かれ、個人練習やパート練習を始めていた。遠くから、音階を吹くクラリネットや、何度も同じ音を繰り返すトランペットが聞こえてくる。


 由実たちが使っている音楽室の隅には、譜面台が二つだけ並べられていた。


「何が大丈夫なんだ?」


「昨日みたいに、音が飛び出さないようにです」


「それで、小さく吹くのか」


「はい」


 香苗は否定も肯定もせず、自分の譜面台へ目を落とした。


 置かれているのは、昨日のパート練習で使った曲の一部分だった。由実が何度か練習した、同じ音を二拍伸ばし、四分音符を三つ並べるだけの短いフレーズである。


「じゃあ、一回やってみろ」


「先輩は吹かないんですか?」


「まず由実だけ」


 由実はマウスピースをくわえた。


 肩へ力を入れないようにする。


 腹部へ息を入れ、昨日よりも少しだけ細く吐く。


 最初の音が鳴った。


 大きくなりすぎないよう、すぐに息を抑える。


 二拍。


 次の音へ移る。


 途中で音が揺れた。


 四分音符を三つ吹く頃には、息がほとんど残っていなかった。最後の音は細くなり、消えるように途切れる。


「もう一回」


 香苗が言った。


 由実は息を吸い直し、同じように吹いた。


 一度目よりさらに小さくする。


 今度は最初の音から輪郭が曖昧になった。音の中に空気の音が混じり、二つ目へ移る前に息が止まりかける。


「止めろ」


 香苗が片手を上げた。


 由実はマウスピースから口を離す。


「小さくしすぎ」


「でも、大きく吹くなって言われました」


「誰が言った?」


「水野先輩です」


「水野先輩は、音を消せって言ったのか?」


「それは……」


 由実は昨日の言葉を思い出した。


『大きい音を出すことと、届く音を出すことは違う』


 小さく吹けとは言われていない。


 けれど、大きく吹けば周囲を押してしまう。ならば、その反対をすればよいと思っていた。


「音が飛び出すのが駄目なら、小さくすればいいのかと思って」


「今の音、最後まで届いてなかっただろ」


「先輩には聞こえてましたよね」


「聞こえるかどうかだけの話じゃない」


 香苗は由実の譜面へ指を置いた。


「最初は音が鳴ってた。でも途中から息が止まりかけて、音が痩せた。最後は、自分で終わらせたんじゃなくて、息がなくなって消えた」


 由実は何も言えなかった。


 確かに、最後の音を決めた場所で切ったわけではない。


 消えてしまっただけだった。


「小さい音でも、最後まで支えられてればいい。でも今のは、出さないように怖がってただけだ」


「じゃあ、どうすればいいんですか」


「今日はそれをやる」


 香苗は自分のアルトを持ち上げた。


「同じフレーズを吹くぞ」


「アルトとテナーでですか?」


「昨日も言っただろ」


「でも、音の高さが違います」


「譜面の音は同じだ。実際に鳴る高さは違っても、リズムも長さも合わせられる」


 香苗は譜面台を少し動かし、由実と向かい合う位置へ立った。


「まず、私の音量に合わせようとしなくていい」


「合わせる練習なのに?」


「音量だけが合ってても、入りがずれたら合わない。音色がばらばらでも合わない。途中で息が止まっても合わない」


 由実には、急に難しいことを言われたように思えた。


「全部一度に考えるんですか」


「考えられるならな」


「無理です」


「だろうな。だから一つずつやる」


 香苗は楽器を構えた。


「最初は、始まりだけ」


 香苗が息を吸う。


 由実も慌てて吸った。


 二人で同じフレーズを吹く。


 香苗のアルトが先に鳴り、その少し後から由実のテナーが続いた。


 由実の音が始まった頃には、香苗はすでに安定した響きを作っている。


「遅い」


「分かりました」


「本当に?」


「先輩の音が先でした」


「じゃあ、どうして遅れた」


 由実は考える。


「先輩が吹いたのを聞いてから、吹こうとしたからです」


「それだと絶対に遅れる」


 香苗はマウスピースから口を離した。


「私の音が聞こえてから始めるんじゃない。始める前の動きを見る」


「動き?」


「息を吸うところ。楽器を構えるところ。舌を離す直前」


 香苗はもう一度、ゆっくり動いて見せた。


 アルトを持ち上げる。


 口元へ運ぶ。


 鼻と口から息を吸い、わずかに顎が動く。


「音が出る前に、もう始まってるんだよ」


 由実も赤いテナーを構えた。


「私が吸ったら、一緒に吸え。構えたら、音を出せるところまで準備する」


「先輩を見るんですか。譜面じゃなくて」


「今は短いフレーズだから見ていい。合奏なら指揮を見る」


 香苗が息を吸う。


 由実も合わせる。


 楽器を構える。


 舌を離す。


 今度は二つの音が、ほとんど同時に始まった。


 しかし由実は、香苗のアルトが思ったより明るく前へ響いたことで、自分の音が小さいと感じた。


 息を強くする。


 テナーの音が膨らみ、途中から硬くなる。


 香苗が吹くのをやめた。


「今度は、途中で押した」


「先輩の音の方が大きく聞こえたので」


「アルトとテナーは、同じ鳴り方をしない」


「でも、合わせるんですよね」


「同じ大きさにすることと、合うことは別」


 昨日から、別のことばかり増えていく。


 大きい音と届く音は違う。


 小さく吹くことと、周囲へなじむことも違う。


 同じ音量と、合った音も違う。


 由実は眉を寄せた。


「難しいです」


「簡単なら、昨日の合奏でできてる」


「そうですけど」


「次は、音の途中を聞け」


 香苗は短く息を入れ、アルトで一音を伸ばした。


 音量は大きくない。


 それでも、最初から最後まで同じ太さの線が続いているように聞こえた。


 途中で急に膨らんだり、細くなったりしない。


「音の中心が動いてないだろ」


「中心って、何ですか」


「言葉にすると難しいな」


 香苗は少し考えた。


「音の真ん中に芯がある感じ。息の音とか、ざらついたところじゃなくて、一番はっきり聞こえる部分」


「分かるような、分からないような……」


「じゃあ、目を閉じろ」


「え?」


「見てると、指とか楽器の方を気にするから」


 由実は言われたとおり、目を閉じた。


「私が吹く。音の最初と、途中と、最後を聞け」


 すぐ近くでアルトが鳴った。


 歓迎演奏で初めて耳にしたときよりも、ずっと静かな音だった。


 それでも、香苗の息が楽器へ入り、金属の管を通って音になる流れが分かる気がした。


 最初は輪郭がはっきりしている。


 途中でも形が変わらない。


 最後は弱く消えるのではなく、決めた場所で音が切れる。


「どうだった」


 由実は目を開けた。


「ずっと同じでした」


「何が」


「音の太さが」


「それを自分の音でもやる」


 香苗が由実の横へ移動した。


 向かい合っていたときよりも距離が近くなる。


「吹いてみろ」


 由実は楽器を構えた。


 一音を伸ばす。


 最初は出た。


 しかし途中で息が足りなくなるのが怖くなり、無意識に息を弱める。


「今、細くなった」


 耳元に近いところで香苗の声がした。


 由実の肩が少し上がる。


「先輩が近いからです」


「私のせいにするな」


「だって、急に隣に来るので」


「音を聞くには近い方がいい」


 香苗は由実の背後へ回り込んだ。


 以前、姿勢を直されたときと同じ距離だった。


 由実は赤いテナーを持つ手へ力が入るのを感じた。


「肩」


「はい」


「力を抜け」


 香苗の指が、由実の肩を軽く押す。


 由実は息を吐いた。


「もう一回。途中で弱くしない。大きくする必要もない。ただ同じ速さで流せ」


 由実は息を吸う。


 音を出す。


 今度は途中で怖がらない。


 腹部から息を一定に送り、音を支える。


 少し揺れたが、先ほどより長く同じ形を保てた。


「今の方がいい」


 香苗が由実の横から離れる。


 肩へ触れていた指もなくなった。


 ほっとしたような、少し残念なような感覚があり、由実はすぐにマウスピースへ視線を落とした。


「次は一緒に吹くぞ」


 二人は再び向かい合った。


「私の音を追いかけるな。始まる前から合わせる。途中は、自分の息を止めない。最後は、私が切るところを聞け」


「音を吹きながら、そこまで聞けるでしょうか」


「聞こうとしなきゃ、ずっと聞こえない」


 香苗は容赦がない。


 けれど、できないことだけを並べているわけではなかった。


 何を聞くのか。


 どこを合わせるのか。


 一つずつ示してくれる。


 二人で息を吸う。


 楽器を構える。


 音を出す。


 始まりは、ほぼそろった。


 由実は香苗の音量を追わない。


 自分の息が途中で遅くならないようにする。


 香苗のアルトは明るく、由実のテナーはそれよりも低く太い。


 違う音色なのに、同じ速さで前へ進んでいるように聞こえた。


 最後だけ、由実が少し遅れた。


「惜しい」


 香苗が言った。


「今のは、途中まで合ってた」


「途中までですか」


「最初から全部できると思うな」


 もう一度。


 今度は始まりがずれた。


 もう一度。


 由実の音が途中で揺れた。


 もう一度。


 香苗の音を聞こうとしすぎて、自分の息が止まった。


 何度目か分からなくなった頃、由実は一度楽器を下ろした。


「自分の音と先輩の音を、両方聞くなんて無理です」


「今、聞いてただろ」


「聞けてません」


「じゃあ、私が途中で音色を変えたのは?」


 由実は顔を上げた。


「変えたんですか」


「三回前。少しだけ明るくした」


「気付きませんでした」


「じゃあ、さっき私が終わるのを遅らせたのは?」


「それは分かりました」


「聞けてるじゃん」


 香苗は当然のように言った。


「全部分からなくても、一つ聞けたなら前より進んでる」


 由実は赤いテナーへ目を落とした。


 以前なら、気付かなかったことだけを考えていただろう。


 香苗の音色が変わったことは分からなかった。


 けれど、終わる場所が違ったことには気付いた。


「もう一回やります」


「休まなくていいのか」


「大丈夫です」


「唇が疲れてきたら言えよ。噛み始めるから」


 由実は口元へ手を当てた。


「見ただけで分かるんですか」


「さっきから、少し下唇を巻き込みすぎてる」


 香苗が由実の顔へ近づいた。


 口元を確認するように、視線を下げる。


 由実は思わず息を止めた。


「ほら。また固くなった」


「近いです」


「口の形を見るんだから仕方ないだろ」


「そんなに見なくても……」


「見ないで分かるなら見ない」


 香苗は少しも気にしていない。


 由実だけが視線の置き場を失い、譜面台の端を見つめた。


「噛みすぎない。疲れたら音量でごまかさない」


「はい」


 香苗が元の位置へ戻る。


 由実は小さく息を吐いた。


「いくぞ」


 二人で息を吸う。


 音を出す。


 由実は香苗の音を聞いた。


 自分のテナーも聞こうとする。


 最初は、二つの音が別々にあった。


 明るいアルトと、少し息の混じったテナー。


 由実は音量を変えず、息の速さを保つ。


 香苗の音が進む方向へ、自分の音を重ねる。


 どちらかを追い越そうとせず、遅れないようにする。


 途中から、自分のテナーが聞こえにくくなった。


(また消えた)


 不安が胸へ浮かぶ。


 息を強くしそうになり、昨日の荒れた音を思い出した。


 そのまま支える。


 香苗の音の下に、何かが重なっている。


 耳では境目がはっきりしない。


 けれど、マウスピースから伝わる振動と、指の下で鳴っている赤いテナーの感触は消えていない。


 二人の音が同じ場所へ向かって伸びていく。


 香苗の舌が動く気配を感じ、由実も音を切った。


 音楽室に、短い余韻が残った。


 香苗はすぐには何も言わなかった。


「今……」


 由実は自分から口を開いた。


「私の音、途中から分かりませんでした」


「うん」


「でも、音は出てましたよね」


「出てた」


「どうして聞こえなかったんですか」


「聞こえなかったんじゃなくて、境目が分かりにくくなった」


 香苗はアルトを持ち直した。


「始まる場所と終わる場所が近かった。途中の息の流れも、さっきまでよりそろってた。音色も完全じゃないけど、離れてなかった」


「それで、混じったんですか」


「そう」


「昨日の合奏でも、同じだったんでしょうか」


「昨日は違う」


 香苗は即答した。


「昨日は周りを聞かずに、自分の音を押し出した。今は、私の音を聞いて、その中へ入れた」


 由実は、赤いテナーのベルを見た。


 自分の音が聞こえないことは、怖い。


 吹いているのに、何も残っていない気がする。


 けれど今の音は、なくなったわけではなかった。


 香苗の音と近づいたことで、どこからが自分なのか分かりにくくなっただけだった。


「音が目立たなくても、合ってることがあるんですね」


「むしろ、合ってるから目立たないこともある」


「じゃあ、水野先輩が言っていた、届く音って……」


 香苗は少し考え、譜面台へ手を置いた。


「私の考えだけどな」


「はい」


「自分が出したい形で押しつけるんじゃなくて、相手が受け取れる形で出す音だと思う」


「相手が受け取れる形」


「合奏なら、周りが重ねられる音。始まる場所も、終わる場所も、息の流れもばらばらだったら、重ねにくいだろ」


「大きくても、受け取れなかったら届いていない?」


「たぶんな」


 香苗は軽く笑った。


「水野先輩に聞いたら、もっと難しいことを言うかもしれないけど」


「先輩にも分からないことがあるんですね」


「あるに決まってるだろ」


「何でも知ってるのかと思ってました」


「私を何だと思ってるんだ」


「サックスに詳しい先輩です」


「そこは否定しない」


 香苗は少し得意そうに言った。


 由実も笑った。


「最後に、もう一回」


「はい」


 二人で構える。


 今度は、香苗の動きを待つだけではなかった。


 由実も息を吸う準備をし、香苗の呼吸へ自分から合わせる。


 音が始まった。


 アルトとテナー。


 高さも響き方も違う。


 それでも、同じ速さで息が流れている。


 由実は自分の音を小さくしない。


 香苗の音を押しもしない。


 途中で少し揺れたが、息を止めずに支えた。


 二つの音はほとんど同じ場所で始まり、同じ場所で終わった。


「今のだ」


 香苗が言った。


 大げさに褒める声ではなかった。


 けれど、由実にはその一言で十分だった。


 ◇


 練習後、由実は赤いテナーをケースへ戻し、記録帳を開いた。


 昨日のページには、


『合奏を止めた』


 という文字が残っている。


 その下に書き加えた、


『パート練習では、一度だけ音の始まりがそろった』


 という一文もあった。


 今日の日付を書く。


 由実は鉛筆を動かした。


『小さく吹けば合うわけではない』


 少し考え、次の行へ続ける。


『音の始まりと終わりを合わせる』


『途中で息を止めない』


 最後に、もう一つ書いた。


『自分の音が聞こえにくくても、消えたとは限らない』


「長くなったな」


 隣から香苗が記録帳をのぞく。


「今日はできたことが多かったので」


「いい傾向だ」


「でも、まだ先輩の音色が変わったのは分かりませんでした」


「それは明日から聞けばいい」


 香苗は自分のアルトのケースを閉じた。


「一日で全部聞けるようになる必要はない」


 由実も記録帳を閉じる。


 昨日まで、自分の音が聞こえないことは、失敗でしかなかった。


 今も、全体合奏の中で聞き分けられる自信はない。


 それでも、誰かの音と境目が分からなくなる瞬間があることを知った。


 消えたのではなく、一緒に響いている音。


 明日は、今日より少しだけ、周囲の音を聞けるかもしれない。


 由実は赤いテナーのケースを持ち上げた。


 音楽室を出る香苗の背中を追いながら、もう一度、先ほど重なった二つの音を思い出していた。

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