第12話 上と下のあいだ
「莉央、今日は由実も連れていって」
サックスパートの基礎練習が終わったところで、千秋がそう言った。
ロングトーンを終えたばかりの由実は、赤いテナーを構えたまま顔を上げる。
「どこへですか?」
「木管低音の練習。テナーの役割を知るには、アルトと吹いているだけじゃ足りないから」
千秋の隣では、莉央がバリトンサックスのネックを外していた。
サックスパートの基礎練習には五人で参加しているが、曲の練習になると莉央は木管低音へ移ることが多い。
由実はこれまで、それを深く考えたことがなかった。
同じサックスなのだから、莉央も香苗や真琴と一緒に練習するものだと思っていた。
「楽器、持てる?」
莉央が尋ねる。
「はい」
「譜面も」
由実は慌てて譜面台から楽譜を取った。
香苗を見ると、アルトを膝へ置いたまま、当然のように頷く。
「行ってこい」
「佐伯先輩は来ないんですか?」
「今日は来ない。由実が何を聞いてくるか、あとで教えてもらう」
いつも香苗がそばにいる練習とは違う。
少し不安だったが、由実は莉央のあとについて音楽室を出た。
◇
木管低音の練習場所は、音楽室から少し離れた空き教室だった。
教室の中央には譜面台が三つ並び、その前にバスクラリネットとファゴットを持った部員が座っている。
莉央がバリトンサックスを組み立て始めると、由実もその隣へ譜面台を置いた。
赤いテナーを肩から下げる。
教室の中では、いつも以上に楽器が大きく見えた。
バリトンサックスは由実のテナーよりさらに長く、ベルも太い。バスクラリネットは黒い管が床近くまで伸び、ファゴットは由実がまだ名前を覚えたばかりの、木の色をした細長い楽器だった。
「ここ」
莉央が由実の譜面をのぞき込み、鉛筆の先で一か所を示した。
「同じ和音」
「同じ音を吹くんですか?」
「同じ音じゃない。同じ和音の中」
莉央は自分の譜面を隣へ並べた。
由実には、音符の位置が違うことしか分からない。
「こっちが下。由実は、その少し上」
「アルトよりは下ですよね」
「うん」
「じゃあ、低音なんですか?」
莉央は少し考えたあと、首を傾げた。
「低い方だけど、一番下ではない」
必要なことだけを答え、それ以上は説明しない。
香苗なら譜面へ印をつけながら、息を吸う場所まで続けて話しただろう。
けれど莉央は、由実が譜面を見直すのを黙って待っていた。
「まず、私たちだけで吹く」
バスクラリネットの先輩が言った。
「橋本さんは聞いてて」
「はい」
由実は赤いテナーを支えたまま、三人の音へ耳を向けた。
莉央のバリトンサックス。
バスクラリネット。
ファゴット。
三つの低い音が、ほとんど同時に始まる。
全体合奏の中では目立たなかった音が、狭い教室では床から身体へ伝わってくるように響いた。
バリトンの太い音の下へ、バスクラリネットの暗い響きが重なる。ファゴットは少し硬い輪郭を持ちながら、その二つへ混じっていた。
大きい。
由実はそう感じた。
音量だけでなく、音そのものが太い。
「次、入って」
莉央が言った。
由実はマウスピースをくわえる。
譜面に書かれているのは、同じ音を四拍伸ばすだけだった。
これなら吹ける。
けれど、目の前には自分より低く、太い音を出す楽器が三つ並んでいる。
(負けないようにしないと)
息を吸う。
三人が構える動きを見て、由実も音を出した。
最初の一瞬はそろった。
しかし、低音の響きが広がった途端、自分のテナーが小さく感じる。
由実は息を強く押し込んだ。
音が急に硬くなり、少し上ずる。
「止めよう」
バスクラリネットの先輩が手を上げた。
由実はすぐに音を切った。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。今、途中から大きくした?」
「はい。聞こえなくなったので」
莉央が由実を見る。
「昨日も?」
「昨日?」
「合奏で、同じことしたって聞いた」
千秋から伝わっているらしい。
由実は赤いテナーのベルへ視線を落とした。
「自分の音が分からなくなると、ちゃんと吹けているのか不安になるんです」
「今は聞こえた?」
「最初は聞こえました。でも、みなさんが入ったら、だんだん……」
「私は聞こえた」
莉央は短く言った。
「途中から、音が変わったのも」
「それは、悪い意味ですよね」
「硬くなった」
余計な慰めを加えず、莉央は事実だけを口にする。
由実は少し肩を落とした。
そのとき、香苗と練習したときの言葉を思い出した。
『聞こえなかったんじゃなくて、境目が分かりにくくなった』
今の音が同じだったかは分からない。
けれど、聞こえなくなったからといって、音が出ていないとは限らない。
「もう一度やってもいいですか?」
由実が尋ねると、莉央は頷いた。
「今度は、息を強くしない」
「でも、低い音に負けませんか?」
「勝たなくていい」
莉央はバリトンサックスを構えた。
「始まりを合わせて」
由実は三人の呼吸を見る。
息を吸う。
舌を離す。
低音が始まる。
今度は、最初に決めた息の速さを変えない。
自分の音は聞こえている。
だが、バリトンとバスクラリネットが加わると、少しずつ境目が曖昧になった。
強くしたくなる。
由実は肩へ入りかけた力を抜いた。
ファゴットの音の輪郭を聞く。
莉央のバリトンが伸ばしている太い音へ、自分のテナーを押しつけずに重ねる。
四拍。
音を切る。
「さっきよりいい」
莉央が言った。
「私の音、聞こえませんでした」
「でも、途中で変わらなかった」
由実はマウスピースから口を離した。
聞こえないことより、変わらないこと。
少し前までなら、何を言われているのか分からなかっただろう。
「次、由実は抜けて」
「私だけですか?」
「うん。聞いて」
三人がもう一度構えた。
由実は演奏せず、耳を澄ませる。
バリトンサックスとバスクラリネットが低い響きを作り、ファゴットがその上へ重なる。
先ほどと同じ和音のはずだった。
悪い音には聞こえない。
けれど、低いところに音が固まっているように感じる。
教室の床近くへ響きが集まり、その上に空間が残っている。
「次、入って」
莉央が言った。
由実は再び楽器を構えた。
三人の呼吸へ合わせる。
音を出す。
低音の上へ、テナーの音が重なった。
由実の音だけが前へ出たわけではない。
はっきりと聞き分けることも難しい。
それでも、さきほど空いていた場所が埋まった。
低い音が下で固まっているのではなく、上へ向かってつながったように聞こえる。
音を切ったあとも、由実はその違いを確かめるように教室の空気を見つめた。
「分かった?」
莉央が尋ねた。
「少しだけ」
「何が違った?」
「私がいないと、音が下に集まっていました」
「うん」
「入ると……上までつながった感じがしました」
教室の後ろから、譜面を閉じる音がした。
振り返ると、いつの間にか千秋が壁際に立っていた。
「それがテナーの仕事の一つ」
千秋は由実たちの方へ歩いてくる。
「アルトやクラリネットが上で鳴って、バリトンやバスクラリネットが下を支える。その間が離れすぎると、響きが二つに分かれて聞こえることがある」
千秋は由実の赤いテナーへ視線を落とした。
「テナーは、上と下の間に橋を架ける楽器」
「橋……」
「旋律を吹くこともあるし、低音と同じ動きをすることもある。どちらか一方だけじゃない」
由実は香苗や真琴と練習した譜面を思い出した。
アルトと同じリズムを吹く部分。
低音楽器と同じ和音を作る部分。
テナーは、香苗と同じ旋律を吹くためだけの楽器ではなかった。
自分の音が目立たなくても、抜けると間が空く。
そのことが、先ほどの二度の演奏ではっきり分かった。
「もう一回やろう」
千秋が言った。
「今度は、上も入れる」
香苗と真琴が教室へ入ってくる。
アルト二本が加わり、由実の隣へ譜面台を並べた。
「聞こえたか?」
香苗が小声で尋ねる。
「何がですか?」
「自分の場所」
由実は少し考えた。
「たぶん、真ん中です」
「たぶんでいい。吹けばもっと分かる」
演奏が始まる。
アルトの明るい音。
その下に、由実のテナー。
さらに下へ、バリトン、バスクラリネット、ファゴット。
由実は香苗の音だけを聞かなかった。
莉央の音だけにも合わせなかった。
上と下の両方へ耳を向ける。
自分のテナーは、その間にあった。
目立ってはいない。
けれど、いなくても同じではない。
そのことが、少しだけうれしかった。
◇
練習の終盤、低い音を繰り返しているうちに、由実の口元が痛くなってきた。
音が鳴りにくくなる。
低音を出そうと息を強く押し込むと、今度は音が割れた。
「噛みすぎ」
香苗がすぐに言った。
「力を抜いて」
「抜くと音が出ません」
「今は、リードを止めてるから出ない」
由実はマウスピースをくわえ直した。
けれど、一度固くなった口元はうまく戻らない。
もう一度吹く。
息の音が混じる。
香苗が手を上げた。
「ちょっと貸して」
由実はテナーからネックを外し、香苗へ渡した。
香苗は黒いマウスピースを確認する。
側面へ小さく刻まれた文字を読み、リードを外した。
「セルマーのS80。Cスターか」
「それが名前なんですか?」
「マウスピースのな。吹奏楽ではよく使われる。変なものじゃない」
香苗はリードも指で確かめる。
「リードはバンドレンのトラディショナル、三番」
「三番?」
「硬さの目安。数字が大きいほど、基本的には硬くなる」
「硬い方が上手い人向けなんですか?」
「単純には決まらない。マウスピースの開き方や吹く人の息でも変わる」
由実には、また知らない言葉が増えた。
「壊れてるんですか?」
「いや」
香苗ははっきり否定した。
「古いけど、使えないものじゃない。S80も悪いマウスピースじゃないし、リードも普通に使われるものだ」
「じゃあ、私が吹けないだけですよね」
「そういう言い方をするな」
香苗が由実を見る。
「道具が悪いか、由実が悪いかの二択じゃない」
「でも、壊れていないなら」
「合ってない可能性はある」
香苗はマウスピースを光へかざした。
「開きや抵抗の感じが、今の由実の息や口に合ってるとは限らない。三番のリードも、今は少し硬いかもしれない」
「合わないものを使っていたんですか?」
「備品だからな。誰が使ってもある程度まとめやすい組み合わせにはしてある。でも、一人一人に合わせて選んだわけじゃない」
由実はマウスピースを見る。
赤いテナーと一緒にケースへ入っていたものだ。
楽器と同じように、与えられたからそのまま使っていた。
「替えたら、低い音が出るようになりますか?」
「急に上手くはならない」
香苗は即答した。
「道具が勝手に吹いてくれるわけじゃないし、噛みすぎる癖も息を押す癖も、練習しないと直らない」
「じゃあ、替える意味はないんですか?」
「ある」
香苗はマウスピースを由実へ返した。
「今の由実が、必要以上に力を使わなくても音を出しやすい組み合わせを探せる。練習の邪魔をしない道具を選ぶってこと」
「私が選ぶんですか?」
「吹くのは由実だからな」
香苗は当然のように言った。
「マウスピースとリードと、リガチャー。予算が許すなら、自分のを持ってもいいと思う」
「楽器を買うんですか?」
由実の声が少し大きくなった。
教室の反対側で片付けていた莉央が振り返る。
「マウスピースの話だ」
「でも、サックスって高いですよね」
「だから本体じゃない。ここだけ」
香苗はマウスピースを指差した。
「安い買い物ではないけど、楽器本体とは全然違う。自分のものなら、学校の楽器が変わっても使える」
「赤いテナーじゃなくなっても?」
「テナーを続けるならな」
その言葉に、由実は少しだけ黙った。
テナーを続ける。
正式入部届へは、自分で「テナーサックス」と書いた。
けれど、赤いテナーを好きになったわけではない。
今も、香苗や真琴のアルトを見てしまうことがある。
それでも、自分のマウスピースを持つという話に、嫌だとは思わなかった。
「ご両親に相談してみろ」
千秋が言った。
「無理に買う必要はないよ。今の備品でも練習はできる。でも、長く続けるつもりなら、試す価値はある」
「続けるつもり……」
「ない?」
千秋の問いに、由実はすぐには答えられなかった。
赤いテナーを見る。
深い赤色の表面には、細かな傷や剥がれが残っている。
最初に見たときは、誰かが使い古した余り物にしか思えなかった。
けれど先ほど、この楽器の音が入ったときだけ、上と下の響きがつながった。
「あります」
由実は小さく答えた。
「続けたいです」
口に出すと、思っていたよりもはっきりした言葉になった。
◇
その日の夕食後、由実は両親へ話を切り出した。
テーブルの上には、食べ終えた食器がまだ残っている。
「相談があるんだけど」
父と母が同時に由実を見る。
由実は膝の上で手を組んだ。
「吹奏楽部で使う道具を、買いたくて」
「楽器?」
母が少し驚いた声を出す。
「楽器本体じゃなくて、マウスピースと、リードと……リガチャー」
最後の言葉は、自分でもまだ言い慣れていなかった。
「口につけるところです。今は学校のものを借りてるんだけど、私には少し硬いかもしれないって」
「買えば上手くなるの?」
父の問いに、由実は首を振った。
「そうじゃないって言われた。練習は必要で、道具を替えても急には上手くならない。でも、自分の息に合うものを選べば、無理に力を入れなくても練習しやすくなるかもしれないって」
香苗から聞いたことを、自分なりの言葉へ変えて話す。
「吹奏楽部、続けるの?」
母が尋ねた。
由実は一度だけ息を吸った。
「続けたい」
今度は、学校で答えたときよりも迷わなかった。
「正式に入部したし、担当も決まったから」
「何を吹いてるんだっけ」
「テナーサックス」
「大きいやつ?」
「アルトより少し大きい」
赤いことまでは言わなかった。
父と母は顔を見合わせた。
すぐに買ってよいとは言わず、金額や必要なものを尋ねる。
由実は香苗から教えられた範囲で答えた。
詳しい種類や値段は、店で試してから決めること。
予算を先に決め、その範囲で選ぶこと。
合わないものを無理に買わないこと。
「その先輩も一緒に行ってくれるの?」
「うん。佐伯先輩」
母が少し笑った。
「よく名前が出てくる先輩ね」
「そう?」
「入部するときも、その人に教えてもらったんでしょう」
「うん」
由実はなぜか少し落ち着かなくなり、手元のコップへ視線を移した。
両親は相談の末、予算の上限を決めた。
すべてを一度に高価なものへ替えるのではなく、必要なものを店員や香苗と相談して選ぶこと。
条件はついたが、許可はもらえた。
「ありがとう」
由実はそう言って、自分の部屋へ戻った。
机の上に練習記録を開く。
今日の日付の下へ、鉛筆を走らせた。
『テナーは、上と下の間に橋を架ける』
『自分の音は、抜けたときに分かることもある』
少し迷い、最後にもう一行加える。
『お父さんとお母さんに、吹奏楽部を続けたいと言った』
書いてから、その一文を何度か読み返した。
◇
翌日、由実が購入の許可をもらえたことを伝えると、香苗はすぐに予定を確認した。
「じゃあ、今度の日曜」
「もう決めるんですか?」
「早い方がいい。リードも今の三番だけじゃなく、二番半くらいを試したいし、マウスピースも何本か吹き比べた方がいい」
「何本もあるんですか?」
「ある。メーカーも種類も開きも違う」
香苗の声が少しだけ速くなる。
「セルマーでもS80だけじゃないし、S90やコンセプトもある。バンドレンも――」
「佐伯先輩」
「なんだ?」
「まだお店にも行ってません」
香苗は口を閉じた。
少し間を置いてから、咳払いをする。
「詳しい話は店でしよう」
「はい」
「駅前の地下街に店がある。テナーを持ってこい」
「先輩も楽器を持ってくるんですか?」
「比較した方が説明しやすいから、アルトを持っていく」
「重くないですか?」
「由実に言われたくない」
香苗は赤いテナーのケースを見る。
「日曜、十時。駅の改札前」
「分かりました」
休日に、学校の外で香苗と会う。
楽器を選ぶためだと分かっているのに、そのことを考えると、練習とは違う緊張が胸の奥へ生まれた。
由実は赤いテナーのケースを開く。
使い込まれた楽器の隣には、学校備品の黒いマウスピースが収まっている。
まだ、自分で選んだものは一つもない。
けれど次の日曜日には、このケースの中へ、自分の息で選んだものが加わるかもしれない。
由実はマウスピースを手に取り、側面の小さな文字を確かめた。
セルマーS80、Cスター。
今まで名前も知らなかった道具だった。
それをケースへ戻しながら、由実は初めて、赤いテナーからどんな音を出したいのかを考えた。




