第13話 自分で選ぶ音
休日の駅は、制服姿の生徒が少なかった。
由実は改札前の柱のそばで、赤いテナーのケースを両手で支えていた。
ケースは相変わらず重い。
学校まで運ぶときとは違い、今日は電車に乗ってここまで来た。階段では何度も持ち直し、地下街へ下りる前から腕が少し痛くなっている。
それでも、ケースを床へ置く気にはなれなかった。
人の流れを見ながら、時計を確認する。
約束の十分前だった。
(早く来すぎたかも)
香苗と学校の外で会うのは初めてだった。
吹奏楽部の練習でも、楽器を選ぶためでもある。遊びに行くわけではない。
そう分かっているのに、いつもの音楽室で待つより落ち着かなかった。
「由実」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
香苗が改札から歩いてきた。
私服姿だった。
薄い色のシャツに細身のパンツという簡単な服装で、肩から小さな鞄を下げている。反対の手には、見慣れたアルトサックスのケースがあった。
制服ではないだけで、いつもより少し違う人に見える。
「早いな」
「佐伯先輩もです」
「私は電車がちょうどよかっただけ」
香苗は由実の手元を見る。
「持てるか?」
「大丈夫です」
「腕、曲がってるけど」
「大丈夫です」
「無理なら言えよ」
香苗はそう言いながら、由実のケースを奪おうとはしなかった。
二人で地下街へ下りる。
休日の通路には、買い物袋を持った人や家族連れが多かった。赤いテナーの大きなケースは目立ち、何人かが避けるように道を空ける。
由実は人へぶつけないよう気をつけながら歩いた。
「佐伯先輩も、アルトを持ってくる必要があったんですか?」
「店員に音の違いを説明するときに使えるし、私のセッティングも比較になる」
「私、アルトは吹かないですよね」
「吹かない。でも、同じ人間が違う組み合わせを吹いたときの違いを聞くのも参考にはなる」
香苗は迷いなく地下街を進んでいく。
「それに、店によってはマウスピースを選ぶときに、楽器との相性も見る。由実のテナーだけあれば十分だけど、手ぶらで行くより話が早い」
「手ぶらではないと思います」
「そういう意味じゃない」
香苗は少し笑った。
その顔を見て、由実の肩からわずかに力が抜ける。
学校の外でも、香苗は香苗だった。
◇
楽器店は、地下街の端にあった。
ガラス越しに、金色のトランペットや銀色のフルートが並んでいる。壁には黒いクラリネットが整然と吊られ、奥にはサックスのベルがいくつも見えた。
店へ入ると、木と金属と、どこか甘い油の匂いがした。
「いらっしゃい」
奥のカウンターから、白髪の店主が顔を上げる。
香苗が軽く頭を下げた。
「テナーのマウスピースを選びたいんです。初心者で、今は学校備品を使っています」
「楽器は持ってきたかい」
「はい」
由実は赤いテナーのケースを試奏室の前へ置いた。
店主は香苗のアルトケースへ一度目をやったあと、由実のケースへ視線を止める。
「ずいぶん古いケースだね」
「学校の備品です」
「開けてもらえるかい」
由実が留め金を外す。
蓋を持ち上げた瞬間、店主の目がわずかに見開かれた。
「……ブュッフェの赤ベルか」
店主はカウンターから出てきた。
普段から多くの楽器を見ているはずなのに、赤いテナーをのぞき込む目だけが急に鋭くなる。
「しかも、初期の方だな」
由実は香苗を見る。
香苗も少し驚いたように店主の手元を見ていた。
店主は楽器へ直接触れず、まず由実へ尋ねる。
「少し見てもいいかい」
「はい」
許可を得てから、ベルの内側や管体の刻印を確かめる。
「二万七千番台か。これは珍しい」
「そんなに珍しいんですか?」
由実が尋ねると、店主は赤い外装へ目を細めた。
「赤い個体自体、今ではほとんど見かけない。前に店へ持ち込まれたのも五年くらい前だったかな。ただ、これはそれよりさらに古い」
傷や剥がれのある管体を、店主は使い古されたものを見るようには眺めていなかった。
むしろ、残っていることを確かめるように、細部へ目を向けている。
「よく学校に残っていたね」
「古い楽器ですけど、最近調整はしてあります」
香苗が言う。
「それは見れば分かる。タンポも替えてあるし、手を入れながら使ってきたんだろう」
由実はケースの内側を見る。
そこには、歴代使用者の名前や修理日が書かれた記録が入っている。
最初に見たときは、何人もの手を渡った古い楽器の証拠にしか思えなかった。
けれど今、店主はそれを、長く残されてきた楽器として見ている。
「いい楽器なんですか?」
「いいか悪いかは、吹く人と状態にもよる」
店主は由実へ視線を戻した。
「ただ、簡単に代わりが見つかる楽器ではないよ。大事にした方がいい」
由実はすぐに返事ができなかった。
香苗が横から言う。
「由実、今日は楽器本体を評価してもらいに来たんじゃないぞ」
「分かってます」
「顔が固まってる」
店主は穏やかに笑った。
「珍しいからといって、気負って吹く必要はない。楽器は飾るためじゃなく、音を出すためにあるからね」
そう言って、店主は赤いテナーを試奏台へ置いた。
「今の組み合わせを見せてもらおうか」
由実は学校備品のマウスピースを取り出した。
「セルマーのS80、Cスター。リードはバンドレンのトラディショナル三番です」
「覚えたんだな」
香苗が言う。
「昨日、何度も見ましたから」
「うん。悪い組み合わせではない」
店主はマウスピースとリードを確認する。
「ただ、始めたばかりで三番は、少し頑張らないと鳴らしにくいかもしれないね」
「低い音を出すとき、息を押し込んで噛みます」
香苗が由実より先に説明した。
「音の立ち上がりも不安定です。まだ経験は短いので、道具だけの問題ではありません」
「それでいい」
店主は頷く。
「道具を替えれば上達する、という話にしてしまうと、選ぶ意味を間違えるからね」
由実の予算を確認したあと、店主は棚の奥から複数の箱を取り出した。
黒いマウスピースが、布の上へ一本ずつ並べられていく。
「まずは樹脂系を中心に。セルマーからS90、S80、コンセプト、ソロイスト。バンドレンはV5、TL、プロファイル」
最後に、小さな金属製のマウスピースが置かれた。
「オットーリンクのスーパートーンマスターも、一応試してみるかい」
その瞬間、香苗の表情が変わった。
「試した方がいいです。今の由実には少し難しいかもしれませんけど、テナーの音色の違いを知るにはすごく分かりやすいので。スーパートーンマスターは息を入れたときに音の芯が硬く出すぎなくて、柔らかいのに輪郭がなくなるわけでもなくて、開きによっては――」
「佐伯先輩」
「それに父さんもテナーでは使ってて、吹奏楽だけじゃなくてジャズ寄りの音も作りやすいし、渋い音が――」
「佐伯先輩」
「なんだ?」
「早いです」
香苗が口を閉じる。
店主が笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
「お父さんも吹かれるのかい」
「アルトもテナーも。今はあまり吹いてませんけど」
「なるほど。詳しいわけだ」
「詳しいというか、普通です」
「普通ではないと思います」
由実が言うと、香苗は少しだけ眉を寄せた。
店主は金属製のマウスピースを持ち上げる。
「これは佐伯さんの好みがかなり入っているね」
「でも、柔らかくていい音がします」
「それと、この子が吹きやすいかは別の話だ」
「分かってます」
香苗は答えたが、少し不満そうだった。
由実は思わず笑いそうになり、慌てて口元を引き締めた。
音楽室では、香苗は迷う由実を引っ張り、できていないところをすぐに見抜く先輩だった。
けれど並べられたマウスピースを前にすると、店主にたしなめられる側になっている。
「一度に全部試すと分からなくなる」
店主は数本を選び、番号を書いた小さな札を添えた。
「最初は商品名を気にせず吹いてみよう。今のマウスピースも基準として間に挟む」
◇
試奏室へ入り、由実は赤いテナーへ最初のマウスピースを取りつけた。
リードは、まずトラディショナルの二番半を使う。
いつもの三番より少し薄く感じられた。
「最初から上手く吹こうとするなよ」
香苗が言う。
「ロングトーンと、低い音。あとは吹き始めがどう感じるか」
「違いが分からなかったらどうしますか?」
「分からないって言えばいい。分かったふりをする方が困る」
由実は息を吸う。
一音目。
音は出た。
けれど、いつものマウスピースより少し軽く感じるだけで、それ以上はよく分からない。
「どう?」
店主が尋ねる。
「少し音が出やすい気がします」
「どこが?」
「最初が……早いです」
「それで十分」
二本目。
今度は、息を入れてから音になるまでにわずかな間があった。
鳴り始めると音はまとまるが、低い音へ下がるときに少し力が必要になる。
三本目は、吹き始めが柔らかかった。
ただ、息を増やすと音の輪郭が広がり、自分がどこへ息を送っているのか分からなくなる。
「難しいです」
「何が難しい?」
香苗がすぐに聞く。
「音は出ます。でも、途中からどこにいるのか分からなくなります」
「音の中心がつかみにくい?」
「たぶん」
「じゃあ、そう書いておけ」
香苗は用意していた紙へ、番号ごとの感想を書き込んでいく。
「次」
由実がマウスピースを替えると、香苗が顔を近づけた。
「ちょっと待て」
「はい」
「下唇、もう痛いか?」
「少しだけ」
「噛んでる」
香苗の指が、由実の顎の近くへ伸びる。
触れる直前で止まり、唇の形を確かめるように顔を寄せた。
近い。
由実は視線の置き場を失い、香苗の肩越しへ目を向ける。
「さっきより深くくわえてる。試奏が続いて疲れてきたな」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかを聞いてるんじゃない。休む」
「まだ吹けます」
「疲れた状態で選ぶと、吹きやすいものじゃなくて、疲れてても鳴るものだけ残る」
香苗は由実からマウスピースを受け取った。
「五分休憩」
由実は反論できず、椅子へ座る。
香苗は純粋に唇の状態を見ていただけだった。
分かっている。
それなのに、顔を近づけられると、試奏より呼吸が難しくなる。
「水、飲むか?」
「持ってます」
「なら飲め」
由実は鞄から水筒を取り出した。
香苗は試奏台へ並んだマウスピースを見ながら、店主と話し始める。
「今の三番、S90ですよね。抵抗はあるけど、まとまりは一番分かりやすかった気がします」
「そうだね。ただ、今の橋本さんには、低音で少し噛みやすい」
「コンセプトは反応が速いけど、息が広がってました」
「吹く人によっては、それを自由に感じる」
「でも由実は、音の場所を見失いやすいので」
自分のことを話している香苗の声を、由実は黙って聞いた。
香苗は自分の好みだけで決めているわけではなかった。
由実がどこで力み、どの音で不安になるのかを覚えている。
そのことが、少しくすぐったかった。
休憩後、試奏は続いた。
セルマーのS80は、学校備品と近い感覚があった。
違いがないわけではないが、由実には細かく言葉にできない。
S90は音がまとまりやすい一方、低音では少し息を強く使いたくなる。
コンセプトは音が立ち上がるのが早く、息が通りやすい。
ソロイストは柔らかい感触があったが、由実には音を一定に保つのが難しかった。
オットーリンクのスーパートーンマスターを取りつけると、見た目からしてほかとは違った。
黒ではなく、金属の光を持っている。
「これ、父さんが使ってたのと同じ系統」
香苗の声がまた少し速くなる。
「吹いたときに角が丸いというか、柔らかいのに暗すぎなくて、テナーらしい渋さが――」
「佐伯先輩」
「まだ何も言ってないだろ」
「もう言ってます」
店主が肩を揺らして笑った。
「まず吹いてもらおう」
由実はマウスピースをくわえた。
息を入れる。
音が鳴る。
確かに、これまでの黒いマウスピースとは違う響きだった。
音の表面が少し丸く、耳へ強く当たらない。
香苗の言った柔らかさが、由実にも少し分かった。
けれど、音をまっすぐ伸ばそうとすると、息が左右へ散っていくように感じる。
低い音では鳴り始めるまでに迷いが生まれ、由実は無意識に強く噛んだ。
「止めよう」
香苗がすぐに言った。
由実はマウスピースを外す。
「音は好きです」
「でも吹きにくい?」
「はい。息をどこへ入れればいいか分からなくなります」
「今はそれでいい」
香苗は残念そうに金属製のマウスピースを見た。
「先輩、それ欲しかったんですか?」
「由実に合えば面白いと思っただけ」
「好みと吹きやすさは別ですよ」
店主の言葉をそのまま返すと、香苗は由実を見た。
「覚えてたのか」
「さっきのことですから」
◇
バンドレンの候補へ移る。
TLシリーズ。
プロファイル。
V5シリーズ。
由実には、どれも最初は黒いマウスピースにしか見えなかった。
けれど何度か吹くうちに、少しずつ違いが感じられるようになる。
あるものは、息を入れた瞬間に音が前へ出る。
あるものは、抵抗がある代わりに音が散りにくい。
あるものは低音が鳴りやすいが、強く吹くと音が広がる。
「これ、もう一回吹きたいです」
由実は番号札のついた一本を指差した。
「どれと比べる?」
「その隣と、さっき吹いたセルマーの……」
「コンセプト?」
「はい」
香苗が店主を見る。
店主は三本を、商品名が見えないように並べ直した。
「順番も変えよう」
由実は一本ずつ吹く。
音を出す。
低い音へ下りる。
一度休み、もう一度吹く。
一つ目は、音の始まりが早い。
けれど、息を増やすと少し音が開く。
二つ目は、まとまりがある。
ただ、低音では息を押したくなる。
三つ目は、息を入れた瞬間に音が鳴るというより、息がそのまま音へ変わるように感じた。
弱く吹いても音の始まりが分かる。
低い音でも、力で押し出さなくてよい。
由実は同じ音をもう一度吹いた。
「これがいいです」
香苗はすぐに答えなかった。
「理由は?」
「音が出る前に、怖くならないです」
「怖くならない?」
「いつものマウスピースだと、音が出るか分からなくて、最初から強く息を入れたくなります。でも、これは普通に息を入れても始まる感じがします」
店主が頷いた。
「その感覚は大事だね」
香苗が番号札を裏返す。
「V5のT20」
一瞬だけ、香苗の顔が明るくなった。
「やっぱりな。今の由実ならT20が――」
そこまで言って、香苗は口を閉じた。
由実を見る。
「いや」
少し言い直すように息をつく。
「由実が吹いて決めたなら、それが一番いい」
由実は黒いマウスピースを見る。
香苗が勧めたからではない。
評判がよいからでもない。
自分で吹き比べて、自分でこれがよいと思った。
それだけのことなのに、胸の内側が少し温かくなった。
「これにします」
「分かりました」
店主はT20を別の布へ移した。
「次はリガチャーだね」
◇
リガチャーを替えるだけでも、吹いた感触は変わった。
石森管楽器。
BG。
バンドレン。
由実には最初、マウスピース以上に違いが分かりにくかった。
「同じに聞こえます」
「じゃあ、音だけじゃなくて、吹き始めを比べろ」
香苗が言う。
「舌を離したとき、反応が遅くないか。息を入れたときに音が散らないか」
何度か繰り返す。
石森のリガチャーでは、音が明るく前へ出るように感じた。
バンドレンはまとまりがあり、音を伸ばしやすい。
BGは、音の始まりがつかみやすかった。
大きな違いではない。
けれど、最初の一音を出すときの不安が少ない。
「これがいいです」
「BGだな」
香苗は今度は先に喜ばず、由実の答えを待っていた。
「はい」
リードはトラディショナルの二番と二番半を試した。
二番はすぐに鳴った。
低い音も出やすく、疲れた口でも反応する。
ただ、息を少し強く入れると音が広がり、由実には止めにくかった。
二番半は、二番よりわずかに抵抗がある。
それでも、学校備品の三番ほど苦しくはない。
息を入れたとき、音の中心が残る。
「二番半の方が好きです」
「毎日全部が同じように鳴るわけじゃないぞ」
香苗が言う。
「リードは一本ずつ違う。疲れてる日もあるし、鳴りにくい個体もある」
「じゃあ、二番も買った方がいいですか?」
「最初は二番半を基本でいいと思う。無理に硬いものへこだわるな。鳴らない日に噛んで押す癖がつく方が困る」
店主も頷いた。
「数字が大きい方が偉いわけではないからね」
選び終えるころには、由実の下唇は少し痺れていた。
試奏室の外へ出ると、店主が商品を箱へ収めていく。
V5、T20。
BGのリガチャー。
バンドレン・トラディショナル二番半。
どれも、赤いテナー本体に比べれば小さなものだった。
けれど由実にとっては、初めて自分で選んだ、音を作るための道具だった。
◇
会計を待つ間、由実は香苗のアルトケースへ目を向けた。
「先輩の楽器も、見せてもらっていいですか?」
「これ?」
「はい」
香苗は床へケースを置き、蓋を開けた。
中には、金色のアルトサックスが収められている。
赤いテナーとは違い、深みのある金色だった。表面には細かな使用跡があり、新品のようではない。
「カイルヴェルトのSX90R」
香苗は楽器を持ち上げる。
「父さんが使ってた」
「先輩が選んだんじゃないんですか?」
「違う。中学に入る前に譲ってもらった」
「嫌じゃなかったんですか?」
「何が?」
「自分で選んでない楽器を使うのが」
聞いてから、由実は少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
香苗はすぐには答えず、アルトのベルを見た。
「最初は、父さんの楽器って感じが強かった」
「やっぱり」
「重いし、周りが使ってる楽器と吹いた感じも違った。父さんはいい楽器だって言ってたけど、それで私に合うとは限らないと思ってた」
由実は赤いテナーを思い出す。
古く、傷があり、ほかのサックスとは色まで違う。
「でも、吹いているうちに変わった」
香苗は自分のマウスピースを取り出した。
「マウスピースを選んで、リードを変えて、リガチャーも試した。吹き方も変わった。毎日触って、掃除して、調整に出して」
「それで、自分の楽器になったんですか?」
「楽器そのものは、父さんからもらったままだよ」
香苗はSX90Rのケースへ手を置いた。
「父さんの楽器だけど、今、こいつから出てるのは私の音だよ」
由実はその言葉を、すぐには返せなかった。
与えられた楽器でも、自分の音へ変えられる。
赤いテナーは、まだ自分の楽器とは思えない。
けれど、今日選んだ黒いマウスピースをつければ、昨日までとは少し違う音が出るかもしれない。
「由実も、今日から始めればいい」
「何をですか?」
「自分の音にすること」
「まだ、テナーを好きになったわけじゃないです」
「好きになれとは言ってない」
香苗はケースの蓋を閉じた。
「自分で選んだものが一つ増えただろ。それで十分」
店主が紙袋を持ってきた。
由実はそれを両手で受け取る。
軽い。
けれど、駅まで持ってきた赤いテナーのケースより、大切に持たなければならないような気がした。
◇
買い物を終えると、二人は地下街の飲食店へ入った。
昼を少し過ぎていた。
由実は麺料理を頼み、香苗は定食を選んだ。
席へ着いてからも、香苗は紙袋の中身を気にしていた。
「明日、最初から二番半を使うとしても、リードは何枚か湿らせて比べろ。箱から出した一本目が必ず当たりとは限らない」
「はい」
「T20は今のS80より反応が分かりやすいと思うけど、息が雑でも鳴るって意味じゃないからな。鳴り始めが早い分、舌の使い方がずれると――」
「はい」
「BGも締めすぎるな。ネジを強く回せば安定するわけじゃない。リードがずれない程度で――」
「佐伯先輩」
「なんだ?」
「料理、来てます」
香苗は目の前を見る。
いつの間にか定食が置かれていた。
湯気が上がっている。
「あ」
「冷めますよ」
「分かってる」
香苗は慌てて箸を取った。
由実も自分の料理へ手を伸ばす。
しばらくは静かに食べていたが、香苗は数口でまた顔を上げた。
「そういえば、プロファイルも悪くなかったな。由実がもう少し息を安定させたら、ああいう反応の速いマウスピースも――」
「先輩」
「今度は何だ?」
「食べてください」
香苗は不満そうに由実を見る。
それから、また箸を動かした。
由実は笑いをこらえきれなかった。
「何がおかしい」
「先輩でも、食事を忘れることがあるんだなって」
「忘れてない」
「二回止めました」
「サックスの話をしてただけだ」
「それで料理を見てませんでした」
香苗は少し黙り、味噌汁を飲む。
「由実だって、今日は試奏中に三回噛みすぎた」
「それは関係ないです」
「私は見てた」
「私は先輩が食べてないのを見てました」
香苗が由実を見る。
由実も見返す。
先に目をそらしたのは、香苗だった。
「生意気になったな」
「先輩が話しすぎるからです」
そう答えると、香苗は小さく笑った。
音楽室では、香苗はいつも由実より先に気づき、先に判断する。
けれど好きなものを前にすると、店主にたしなめられ、料理が届いたことにも気づかない。
由実の知らなかった香苗が、今日だけでいくつも増えた。
そのことが、選んだマウスピースと同じくらいうれしかった。
食事を終え、二人で駅へ向かう。
赤いテナーのケースは、来たときと同じ重さだった。
中の楽器も変わっていない。
傷も、剥がれも、古い整備記録もそのままだ。
けれど由実の手には、自分で選んだ黒いマウスピースの入った紙袋がある。
「明日、すぐ使っていいですか?」
「そのために買ったんだろ」
「ちゃんと音が出ますかね」
「今日、出してただろ」
「学校だと違うかもしれません」
「違ったら、また合わせる」
香苗は簡単に言った。
「一回で決まる音なんてない」
由実は紙袋を見下ろす。
香苗に選んでもらったのではない。
香苗と店主に教えてもらいながら、自分で吹き、自分で決めた。
赤いテナーを選んだとは、まだ思えない。
けれど、そこから出す音の一部を、今日は自分で選んだ。
改札へ着くまでの間、由実は何度も紙袋の持ち手を確かめた。
明日、この小さな黒いマウスピースを赤いテナーへ取りつける。
どんな音が出るのか。
不安はあった。
それ以上に、早く吹いてみたいと思っていた。




