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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第三章 大きな音と、届く音

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第14話 音の置き場所

 黒いマウスピースは、赤いテナーのケースの中で思った以上に目立っていた。


 由実は音楽室の隅でケースを開いたまま、昨日買ったばかりの箱を取り出す。


 隣には、これまで使っていた学校備品のマウスピースが置いてある。


 セルマーのS80、Cスター。


 少しくすんだ黒い表面には細かな傷があり、何人もの部員が使ってきた時間が残っていた。


 新しいV5のT20は、同じ黒でも艶が違う。


 形もわずかに細く見えた。


「並べて眺めてても音は出ないぞ」


 頭の上から声が降ってきた。


 由実が顔を上げると、香苗が横に立っていた。


「見てただけです」


「知ってる」


 香苗は由実の手元をのぞき込む。


「リードは?」


「昨日買った二番半です」


「最初の一本で決めるなよ。何枚か湿らせたか?」


「三枚あります」


「よし」


 由実は水を含ませておいたリードをケースから取り出した。


 どれも同じように見える。


 昨日、店主から一本ごとに状態が違うと聞いたばかりだが、由実にはまだ木目の違いさえよく分からなかった。


「先端が欠けてないか。左右で極端に厚さが違わないか。まず目で見る」


 香苗が横から指示する。


 由実は一枚ずつ光へかざした。


「これでいいですか?」


「吹かないと分からない。取りつけてみろ」


 T20へリードを合わせ、その上からBGのリガチャーを通す。


 昨日店で何度もやったはずなのに、学校へ戻ると急に手元が不安になった。


「曲がってる」


「どっちにですか?」


「由実から見て右。先端も少し出すぎ」


 香苗がすぐ隣へしゃがむ。


 指先でリードを押さえ、位置をわずかに直した。


「ネジは締めすぎなくていい。ずれなければ十分」


「はい」


「返事だけは上手いな」


「ちゃんと聞いてます」


「なら吹けば分かる」


 由実はマウスピースをネックへ差し込んだ。


 新しい黒と、使い込まれた赤がつながる。


 見慣れない。


 古い赤い楽器の一部分だけが、急に新しくなったように見えた。


「最初はネックだけで確認する」


 香苗に言われ、由実は頷く。


 息を吸った。


 昨日の店では、これを吹いた瞬間に違いが分かった。


 音の始まりが怖くなかった。


 だから今日も、昨日よりよい音が出るような気がしていた。


 口元を固める。


 息を入れた。


 甲高い音がひっくり返り、音楽室の壁へ突き刺さった。


 由実はすぐにマウスピースを離す。


 近くで音を出していた真琴が振り向いた。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 由実は顔を伏せた。


 昨日は吹けた。


 自分で選んだ。


 それなのに、最初の一音から失敗した。


「噛んだな」


 香苗が言う。


「少しだけです」


「少しであの音は出ない」


「でも、新しいマウスピースなら、もっと出しやすいと思って」


「道具が吹いてくれるわけじゃない」


 香苗の声はいつもと変わらなかった。


 責めるでもなく、慰めるでもない。


「昨日、吹きやすかったから期待した。期待したから、絶対にいい音を出そうとして力んだ。違うか?」


 由実は答えられなかった。


 違わなかった。


「肩を下ろす。顎を固めない。昨日と同じ息を入れろ」


「昨日と同じって言われても」


「昨日も由実が吹いたんだよ。マウスピースが勝手に鳴ったわけじゃない」


 香苗は由実の肩を軽く押した。


「もう一回」


 由実は息を吐いた。


 肩を下げる。


 下唇を巻き込みすぎないようにして、マウスピースをくわえる。


 きれいに吹こうと考えない。


 ただ、息を前へ流す。


 二度目の音は、派手ではなかった。


 けれど、息を入れた直後に音が立ち上がった。


 空気だけが先に抜ける時間が、これまでより短い。


 由実は音を数秒伸ばし、ゆっくり切った。


「今の」


「はい」


「それが昨日選んだ理由だろ」


 香苗に言われ、由実は小さく頷いた。


 もう一度吹く。


 次は少し低い音。


 これまでなら音が出る前に息を強く押し込みたくなった。


 けれどT20では、強く押さなくてもリードが震え始める感覚がある。


 音程は少し揺れた。


 音色にも息が混じった。


 それでも、音が始まった場所が分かる。


「低音、前より楽です」


「楽だからって雑に吹くなよ」


「分かってます」


「本当に?」


「たぶん」


「正直でよろしい」


 香苗が笑う。


 由実は赤いテナー本体へネックを取りつけた。


 新しいマウスピースが、赤い管体の上に収まる。


 まだ見慣れない。


 それでも昨日より、少しだけ自分が触れてよいものに見えた。


 ◇


 全体合奏の前に、サックスパートで該当箇所を確認することになった。


 千秋、香苗、真琴、由実が横一列に並ぶ。


 莉央も最初の基礎練習には参加していたが、曲の練習になるとバリトンサックスを抱え、木管低音の集まる場所へ移っていった。


「橋本さん、新しいマウスピースはどう?」


 千秋が尋ねる。


「前より音の始まりが分かりやすいです」


「そう。吹きやすくなったところほど、息が雑になりやすいから気をつけてね」


「はい」


「じゃあ、前に合奏で止まったところから」


 譜面へ目を落とす。


 由実が担当するのは、長く伸ばす音と、四分音符を中心とした短い動きだった。


 複雑な旋律ではない。


 それでも、休符のあとへ正しく入るだけで難しい。


「最初に呼吸を合わせよう」


 千秋が楽器を構える。


「吸う位置はここ。目で合図を待つんじゃなくて、周りが息を吸う気配も聞いて」


 聞くと言われても、息は音ではない。


 由実はそう思いながら、隣の香苗へ意識を向けた。


 香苗の肩がわずかに開く。


 真琴の楽器が少し上がる。


 千秋の息が入る。


 由実も吸った。


「せーの」


 四本のサックスが鳴る。


 由実の音は、アルト三本の下へ重なった。


 昨日までのマウスピースより、自分の音の輪郭をつかみやすい。


 けれど、その輪郭を確かめようとすると、周りを聞き損ねる。


「橋本さん、入りは合ってる。でも途中で少し膨らんだ」


 千秋が言う。


「自分の音を確認しようとした?」


「はい」


「確認するなとは言わないよ。ただ、自分だけを聞かないで」


 由実は譜面の同じ小節を見る。


 香苗と練習したときにも言われた。


 音量を合わせるのではない。


 始まりと終わり。


 息の流れ。


 音の輪郭。


「もう一度」


 二回目。


 由実は自分の音を追いかけず、アルト三本のまとまりを聞いた。


 千秋の音は落ち着いている。


 香苗の音はその下で少し太く響く。


 真琴の音は明るく、始まりがはっきりしていた。


 同じアルトでも、すべて同じ音ではない。


 けれど三本が一緒に鳴ると、一つの塊に聞こえる。


 その下へ、自分の音を置く。


 強く押し上げるのではない。


 小さく隠すのでもない。


 由実は息を一定に流した。


 音を切る位置まで、四人の響きが崩れなかった。


「今の感じ」


 千秋は大げさに褒めなかった。


「合奏でも、自分が聞こえなくなったら、まず隣を聞いて」


「はい」


「ただし、隣だけに寄りすぎないこと。テナーはアルトの一番下じゃないから」


 由実は莉央のいる方を見る。


 低音楽器が椅子を動かし、合奏の準備をしている。


「上と下の間、でしたよね」


「そう。今日はそこを探してみて」


 千秋が譜面を閉じる。


「全体合奏へ行こう」


 その言葉だけで、由実の胸が重くなった。


 前回、自分の音を見失った。


 強く吹きすぎ、合奏を止めた。


 新しいマウスピースを買ったからといって、あの失敗が消えたわけではない。


 赤いテナーを持ち直すと、香苗が隣から小さく言った。


「道具を信じすぎるな」


「はい」


「でも、自分で選んだ感覚は信じていい」


 由実は香苗を見る。


「音の始まり、分かるんだろ」


「分かります」


「なら、前みたいに聞こえなくなっても、すぐ押すな」


 香苗は先に自分の席へ向かった。


 由実も、その背中を追った。


 ◇


 全体合奏が始まる。


 最初の数小節は、由実が吹かない箇所だった。


 指揮に合わせ、フルートの高い音が流れる。


 クラリネットが重なり、金管が和音を広げる。


 打楽器の拍が、音楽室の床まで震わせた。


 由実は休符を数える。


 一、二、三、四。


 次の小節で入る。


 香苗の肩が動いた。


 真琴も息を吸う。


 由実はその気配に合わせ、口から息を取り込んだ。


 指揮棒が下りる。


 音を出す。


 最初の瞬間は、自分のテナーが聞こえた。


 けれどすぐに、ほかの楽器の中へ沈んでいく。


 前回と同じだった。


 耳から、自分の音が消える。


(出てる?)


 不安が胸へ浮かぶ。


 もっと息を入れれば聞こえる。


 肩へ力が入りかける。


 けれど由実は、マウスピースを通して伝わる振動へ意識を戻した。


 唇にリードの震えがある。


 指先の下で、楽器の管体がわずかに響いている。


 音の始まりも分かった。


 聞こえなくても、吹いている。


 由実は息を強く押さず、香苗と真琴の音を探した。


 二人のアルトは旋律の中にいた。


 そこへ寄りすぎない。


 けれど離れない。


 音の始まりをそろえ、息の速さを急に変えない。


 伸ばした音を、途中で膨らませない。


 一度目の箇所を通過する。


 合奏は止まらなかった。


 次は、低音楽器が大きく加わる部分だった。


 莉央のバリトンサックス。


 バスクラリネット。


 ファゴット。


 低い響きが床から立ち上がる。


 由実はその音へ沈み込みそうになる。


 負けないよう強く吹くのではない。


 先日の木管低音練習で聞いた響きを思い出す。


 テナーが抜けると、高い音と低い音が離れる。


 自分の音は、その間にある。


 由実はアルトを聞く。


 次に、低音を聞く。


 どちらかへ寄せるのではなく、そのあいだへ息を流した。


 音が重なった。


 由実のテナーだけが耳へ浮かぶことはない。


 けれど、和音の真ん中に何かが通ったように感じた。


 ばらばらだった高さが、一本につながる。


 ほんの短い瞬間だった。


 次の入りで、由実は遅れた。


 周囲を聞くことに意識を取られ、舌を離す瞬間が遅くなった。


「止めます」


 指揮が止まる。


 音楽室から響きが消えた。


 由実の背中に冷たい汗が流れる。


「今のところ、もう一度」


 千秋の声がサックス側から聞こえた。


 由実はすぐに譜面へ目を落とした。


 また自分だ。


 また止めた。


 次は遅れないよう、早めに吹かなければ。


 そう思った瞬間、香苗の言葉が浮かぶ。


『すぐ押すな』


 早く吹けばよいわけではない。


 小さく隠れればよいわけでもない。


 次の入りへ向けて、周囲の呼吸を聞く。


 由実は一度、長く息を吐いた。


 指揮棒が上がる。


 香苗が息を吸う。


 真琴の楽器がわずかに動く。


 遠くで莉央も身体を開いた。


 由実は同じ瞬間に息を吸った。


 指揮棒が下りる。


 四分音符の頭へ、音を置く。


 今度は遅れなかった。


 アルトの音が上にある。


 低音が下にある。


 由実のテナーは、そのどちらにも埋もれているようで、どちらとも離れていなかった。


 音が前へ進む。


 自分だけの音ではない。


 けれど、自分の音がなければ少し形が変わる。


 そう思える響きだった。


 不安が完全に消えたわけではない。


 耳では、まだ自分の音がよく分からない。


 それでも唇と息と指先には、音があることが分かる。


 由実は最後まで息を支えた。


 指揮棒が止まり、全員の音が切れる。


 残響だけが音楽室の天井へ上がっていった。


 ◇


 合奏後、千秋が由実のところへ来た。


 由実は叱られると思い、テナーを支え直す。


「橋本さん」


「はい」


「前より周りを聞けてた」


 千秋はそれだけ言った。


「途中で入りが遅れました」


「遅れたね」


 やはり見逃されてはいなかった。


「でも、次は合わせた。前みたいに怖くなって音を消さなかったのはよかった」


「私の音、聞こえませんでした」


「うん」


 千秋は少し考えるように、音楽室を見回した。


「合奏の中で、自分の音だけをずっと聞くのは難しいよ。特に今は、まだ耳も慣れてないから」


「じゃあ、どうやって出てるって分かるんですか?」


「今日は分かってたんじゃない?」


 由実は答えに詰まる。


「唇の振動とか、息とか」


「それも一つ。あとは、自分が入ったときに周りの響きがどう変わるか」


 千秋は低音楽器の方へ目を向けた。


「橋本さんが入ったとき、アルトと低音の間が前よりつながってた」


「私には、よく分かりませんでした」


「最初から全部分かったら、私たちの立場がないよ」


 千秋は穏やかに笑った。


「前に言ったでしょう。大きい音と、届く音は違うって」


「はい」


「今日の方が、必要なところには届いてた」


 千秋は次の片付けへ向かった。


 由実はその場に残り、赤いテナーを見る。


 大きく吹かなかった。


 自分の音は、ほとんど聞こえなかった。


 それでも前回のように、音が消えたとは思わなかった。


「よかったね」


 真琴が隣から声をかけた。


「何が?」


「前より合ってた。テナーが入ると、下が厚くなる感じがした」


「真琴にも聞こえたの?」


「橋本さんの音だけが聞こえたっていうより、全体が変わった感じ」


 真琴は自分のアルトを拭きながら、簡単に言った。


「私、橋本さんの音を聞こうとしてたから分かったのかも」


 由実は真琴を見る。


 これまで、真琴の音は自分より上手い音だった。


 アルトを選べた人の音。


 追いつけない相手の音。


 けれど今日、由実も真琴の音を探した。


 真琴も由実の音を聞こうとしていた。


「私も、真琴の音を聞いてた」


「本当?」


「入りを合わせるために」


「じゃあ、次も聞くね」


 真琴は明るく笑った。


 由実は、すぐには同じように笑えなかった。


 それでも、以前のように胸が苦しくなることはなかった。


「私も聞く」


 そう答えると、真琴は頷いた。


 少し離れたところでは、莉央がバリトンサックスを片付けていた。


 由実が視線を向けると、莉央もこちらを見た。


「さっきの和音」


 莉央が言う。


「前より間が埋まってた」


「ありがとうございます」


「でも、低い音で少し上ずってた」


「はい」


「次はそこ」


 それだけ言い、莉央は再び楽器へ視線を戻した。


 褒められたのか、課題を出されたのか分からない。


 たぶん、両方だった。


 由実は少しだけ口元を緩めた。


 ◇


 練習記録を開く。


 今日の日付を書く。


 新しいマウスピース。


 最初は音が裏返った。


 低音は前より出しやすかった。


 合奏では一度、入りが遅れた。


 由実はそこまで書き、次の行で鉛筆を止めた。


『音が聞こえなかった』


 書きかけた文字を見つめる。


 以前なら、そのまま続けていた。


 音が聞こえなかった。


 だから失敗した。


 だから自分はいなかった。


 けれど今日は違った。


 聞こえなくても、唇には振動があった。


 息は流れていた。


 アルトと低音の間が、わずかにつながった。


 真琴は由実の音を聞いていた。


 莉央も、千秋も、香苗も。


 由実は消しゴムで、書きかけた文字を消した。


 少し考えてから、新しく書く。


『音が消えたのではなく、合奏に混じった』


 文字にすると、少し大げさに見えた。


 けれど消さなかった。


「何て書いた?」


 いつの間にか、香苗が後ろに立っていた。


 由実は慌てて記録帳を閉じる。


「見ないでください」


「いつも見せてるだろ」


「今日はまだ途中です」


「じゃあ、書き終わったら見せろ」


「先輩は何でも見たがりますね」


「指導してるからな」


 香苗は赤いテナーのケースを指差した。


「片付ける前に、リード外せよ」


「分かってます」


「新品は特に丁寧に扱え」


「分かってます」


「マウスピースも拭いてから――」


「佐伯先輩」


「なんだ?」


「昨日から、そればっかりです」


「昨日買ったばかりだからだろ」


 香苗は当然のように言った。


 由実は赤いテナーからマウスピースを外した。


 リードを外し、水分を拭き取る。


 BGのリガチャーも、布で軽く拭いた。


 ケースの中には、これまで使っていた学校備品のマウスピースを入れる場所がある。


 その隣へ、T20を収める。


 古い赤い楽器。


 使い込まれたケース。


 歴代の使用者が残した整備記録。


 そこへ、新しい黒いマウスピースが一つ加わった。


 少し不釣り合いだった。


 けれど昨日までのケースとは違って見える。


「どうした?」


 香苗が尋ねる。


「何でもないです」


「また眺めてる」


「少しくらいいいじゃないですか」


 由実はケースの蓋を閉める前に、もう一度中を見た。


 この赤いテナーを、自分の楽器だとはまだ思えない。


 学校から借りている古い楽器。


 望んだアルトの代わりに渡された楽器。


 その気持ちは、まだ残っている。


 けれど、そこから出す音まで、すべて誰かに決められているわけではない。


 今日の音は、香苗に吹いてもらったものではなかった。


 千秋に置いてもらったものでもない。


 真琴や莉央の音を聞き、自分で息を流した。


 まだ不安定で、次も同じように吹けるとは限らない。


 それでも少しずつ、自分で作れるのかもしれない。


「佐伯先輩」


「ん?」


「今日の音、どうでしたか?」


 香苗はすぐに答えなかった。


 少し考え、ケースの上へ手を置く。


「前より由実の音だった」


「聞こえなかったのに?」


「聞こえたよ」


「どこでですか?」


「必要なところで」


 香苗はそれ以上説明しなかった。


 由実も聞き返さなかった。


 赤いテナーのケースを閉じる。


 留め金が、小さな音を立てた。


 以前と同じ重さのはずなのに、持ち上げたとき、少しだけ腕になじんだ気がした。

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