第15話 誰かに聴いてもらう曲
「来週の日曜日、駅前の商業施設で演奏します」
全体練習が始まる前、顧問の言葉に音楽室が少しざわついた。
由実は膝の上に置いた赤いテナーを押さえながら、隣にいる香苗へ目を向けた。
香苗は驚いた様子もなく、配られた予定表へ視線を落としている。
どうやら、上級生にはすでに知らされていたらしい。
「毎年参加している地域の催しです。買い物に来た方や家族連れの前で、三十分ほど演奏します」
演奏を聴くために集まる人だけではない。
買い物の途中で足を止める人もいれば、子どもを連れて通りかかる人もいる。
顧問の説明を聞きながら、由実は予定表の端を指でつまんだ。
人前で吹く。
その言葉だけで、口の中が乾いた。
「今回、一年生も全員参加します」
その一言で、由実は思わず顔を上げた。
(私も?)
まだ一曲を最初から最後まで吹けない。
合奏へ参加しているとはいっても、千秋に指定された箇所だけだ。長い音や単純な動きは吹けるようになったが、指の速いところでは楽器を構えたまま休んでいる。
そんな自分が、大勢の前に出てもよいのだろうか。
周囲では、曲目の書かれた紙を見ながら部員たちが話し始めていた。
子どもにも親しみやすい明るい曲と、耳にしたことのある行進曲。最後には、客席も手拍子で参加できる曲が予定されている。
「橋本さん」
名前を呼ばれ、由実は肩を揺らした。
千秋が譜面を手に、こちらを見ていた。
「サックス、少し集まろうか」
「はい」
由実は赤いテナーを持って立ち上がった。
千秋、香苗、真琴が譜面台を寄せる。莉央もバリトンサックスを抱えて加わった。
「今回、由実ちゃんには、今まで合奏で吹いてきたところを中心に参加してもらうね」
千秋は由実の譜面を開き、鉛筆で小さく印をつけた。
「ここからここまでは吹く。ここは休む。この四小節は、余裕があったら入ってみる」
譜面の上に、丸と斜線が増えていく。
吹く場所より、休む場所の方が多い。
「全部吹かなくていいんですか」
「今から全部を無理に覚える方が危ないからね」
千秋の声は穏やかだった。
「休むところも含めて、演奏だから」
由実は譜面へ目を落とした。
分かっている。
初心者なのだから、真琴や先輩たちと同じようには吹けない。
それでも、たくさん引かれた斜線は、自分だけが演奏から外されている印のように見えた。
「由実、ここ見せて」
香苗が由実の隣へ入り、譜面をのぞき込んだ。
肩が触れそうな距離に、由実の背筋がわずかに固くなる。
「この前、合奏でやったところだ。ここは確実に吹ける」
香苗は丸の横へ、息を吸う印を書き足した。
「次のここは、最初から入ろうとしなくていい。途中で分からなくなったら、次の四角で囲んだところまで休め」
「途中から入ってもいいんですか」
「曲は待ってくれないからな」
香苗は簡単に言った。
「分からないまま適当に吹くより、次に入れる場所を決めておく方がいい」
真琴も自分の譜面を並べた。
「橋本さん、ここ、私も同じリズムだよ」
指で示された箇所には、四分音符が同じ形で並んでいる。
「私の音が聞こえたら、次がここって分かると思う」
「うん」
真琴は経験者だから、由実よりずっと多くの場所を吹く。
けれど、それを見せつけるような言い方はしなかった。
莉央も由実の譜面をのぞき込み、少し先の小節を指した。
「この前に、低音が二回鳴る」
「二回?」
「バリトンとバスクラ。そこを聞いたら、次が由実の入り」
莉央はそれだけ言うと、自分の譜面を閉じた。
「聞こえると思う」
短い言葉だったが、由実はその小節へ印をつけた。
自分の譜面には、先輩たちが残した目印が少しずつ増えていった。
吹けない場所の印ではなく、戻るための印。
そう思おうとしても、胸の奥に残った不安は消えなかった。
◇
「今日は本番と同じ順番で、止めずに通します」
部長の声に、部員たちが楽器を構えた。
由実は新しい黒いマウスピースをくわえ、足元の譜面を見た。
最初の曲は、これまで何度か全体合奏で練習している。
吹く場所も限られている。
間違えなければ大丈夫。
指揮棒が上がる。
打楽器の合図に続き、金管の明るい音が音楽室へ広がった。
由実は休符を数えた。
一、二、三、四。
息を吸う。
香苗と真琴のアルトが入る。
由実も赤いテナーへ息を送った。
最初の長い音は、少し揺れたものの途切れなかった。
次の音も、莉央の低い響きを聞きながら入ることができた。
(吹けてる)
由実の胸が少し軽くなる。
そのまま曲は進み、四分音符が続く場所へ入った。
一つ目。
二つ目。
三つ目で、由実の指が隣のキーへ触れた。
音がわずかに外れる。
(違う)
直そうと思った瞬間には、曲はもう次の小節へ進んでいた。
由実は慌てて指を戻した。
けれど、どこを吹いているのか分からない。
真琴の音を探そうとしたが、金管と打楽器の音へ混じって聞き取れなかった。
(今、どこ?)
譜面を上から追い直す。
その間にも、音楽は止まらず進んでいく。
由実は入れそうな音を見つけ、遅れて息を入れた。
今度は入りがずれた。
誰も止まらない。
指揮も進んでいる。
由実は一度マウスピースから口を離した。
次の四角まで休む。
香苗に言われたことを思い出したときには、その四角も半分を過ぎていた。
結局、曲の終わりまで、由実はほとんど音を出せなかった。
最後の和音が消える。
けれど指揮棒は下がらず、そのまま次の曲の準備へ移った。
由実は息を整える間もなく、次の譜面をめくった。
失敗した音が頭から離れない。
間違えた。
戻れなかった。
今度こそ間違えないようにしなければ。
そう考えるほど、休符を数える声が頭の中で乱れた。
二曲目でも、由実は入りを一度遅らせた。
通し練習が終わった頃には、首から下げたテナーがいつもより重く感じられた。
「サックス、少し残って」
千秋の声に、由実の胸が沈んだ。
怒られる。
全員の練習を止めなかっただけで、自分は何度も失敗していた。
千秋は由実の譜面を開き、最初の曲の途中を指した。
「ここで音を外したよね」
「はい」
「その後、次に吹く予定だった場所まで遅れた」
「……はい」
由実は視線を上げられなかった。
千秋は責める口調ではなかった。
「音を一つ外したことより、そっちの方が本番では困るかな」
由実は顔を上げた。
「本番では、間違えた音をもう一度やり直すことはできない。曲は先へ進むから」
「でも、間違えたままになるんですよね」
「なるよ」
千秋はあっさり認めた。
「間違えたことは消せない。でも、その後の音楽へ戻ることはできる」
由実は譜面へ目を落とした。
間違いを残したまま進む。
それは、何となくずるをするように感じられた。
正しく吹き直さないまま、次へ行ってよいのだろうか。
「次に入れる場所を、もっとはっきり決めよう」
千秋が新しい印をつける。
「ここを逃したら、真琴ちゃんと同じリズムのここ。そこも分からなかったら、莉央の低音を二回聞いて、この音から」
「はい」
「全部に戻ろうとしなくていい。戻れる場所へ戻ればいいから」
千秋の言葉に、由実は小さくうなずいた。
それでも、心の中では別のことを考えていた。
(最初から間違えなければいいんだ)
そうすれば、戻る場所を探す必要もない。
演奏を乱すこともない。
由実が譜面へ視線を落としたままでいると、隣から香苗の声がした。
「間違えないことだけ考えてるだろ」
胸の内を見抜かれ、由実は言葉に詰まった。
「だって、本番ですよね」
「ああ」
「知らない人が聴いてるところで間違えたら、恥ずかしいです」
香苗はすぐには答えなかった。
ケースへ片づける前のアルトを膝へ置き、由実の譜面を見ている。
「間違えないためだけに吹くと、客の方を一度も見ないまま終わるぞ」
「演奏しながら、お客さんを見るんですか」
「顔をずっと見ろって意味じゃない」
香苗は由実の予想に気付いたらしく、少しだけ口元を緩めた。
「見てる余裕があるなら見てもいいけどな。最初は無理だろ」
「無理です」
「即答だな」
香苗は小さく笑った。
由実は笑えなかったが、その声を聞いて肩の力がわずかに抜けた。
「誰かが聴いてるって忘れないだけでも違う」
「どう違うんですか」
「音の出し方が変わる」
「大きくするんですか」
「そうじゃない」
香苗は少し考え、アルトのベルへ指先を置いた。
「練習だと、正しい音を出せたか、自分たちで確かめるだろ。でも本番は、出した音を受け取る人がいる」
「受け取る……」
「客が知ってる曲なら、口ずさむかもしれない。子どもなら手拍子するかもしれない。買い物の途中で、少しだけ立ち止まる人もいる」
由実には、まだよく分からなかった。
自分は譜面を追うだけで精いっぱいだ。
通りすがりの人が立ち止まったかどうかまで考えていたら、今よりもっと間違える気がする。
「今すぐ分からなくてもいい」
香苗は由実の表情を見て、そう続けた。
「まずは、間違えた後に戻る練習だ」
「はい」
「それから、吹いてないところでも演奏は続いてる。休みだからって、譜面から落ちるなよ」
由実は鉛筆を取り、譜面の端へ書き込んだ。
『間違えても次へ戻る』
文字を囲み、その下へ小さく矢印を引く。
次の入り。
真琴と同じリズム。
莉央の低い音が二回。
戻るための目印は、もう譜面にいくつもある。
由実は赤いテナーへ目を落とした。
来週、この楽器を学校の外へ持っていく。
音楽室よりずっと多くの人がいる場所で、金色の楽器の中に、赤いテナーが並ぶ。
誰かに聴いてもらうことよりも先に、誰かに見られることを想像してしまった。
傷のある赤い楽器。
まだ曲を全部吹けない自分。
似合っていると思われる気はしなかった。
由実は譜面を閉じた。
間違えても、次へ戻る。
そう書いたばかりなのに、胸の中では別の願いが消えずに残っていた。
(できれば、一度も間違えませんように)




