第16話 赤い楽器を持って
赤いテナーのケースは、学校の外で見ると、いつもより古く見えた。
黒い表面には細かな擦り傷が走り、角には何度も貼り直されたような補修跡がある。金具も少しくすんでいた。
由実は校門前に並べられた楽器ケースの中へ、自分のケースをそっと置いた。
隣には、傷の少ないアルトサックスのケースが二つ並んでいる。少し離れたところには、香苗のKeilwerth SX90Rが入った大きなケースもあった。
同じ楽器のケースなのに、自分のものだけが長い時間を過ごしてきたように見える。
「橋本さん、それ、こっちへ積むよ」
運搬を担当する上級生に呼ばれ、由実は慌てて持ち手を握った。
「はい」
ケースを持ち上げると、腕へ重さがかかった。
楽器本体だけでなく、譜面やストラップ、手入れ道具も入っている。普段は部室から音楽室までしか運ばないため、校門まで持ってくるだけでも肩が疲れていた。
「底をぶつけないようにな」
香苗が自分のケースを片手に、由実の隣へ来た。
「はい」
「あと、立てたまま手を離すなよ。倒れたら中身までいくことがある」
香苗の視線はケースの補修跡ではなく、由実の持ち方へ向いていた。
古いですね、とも、格好いいだろ、とも言わない。
由実は少しだけ安心し、ケースを両手で持ち直した。
部員たちは譜面台や打楽器を確認し、忘れ物がないか声を掛け合っている。
その慌ただしさの中で、由実も赤いテナーを運ぶ一人として動いた。
◇
商業施設へ着く前から、人の多さは学校とは違っていた。
休日の駅前には家族連れや買い物袋を下げた人が行き交い、部員たちの大きな楽器ケースを避けながら歩いていく。
由実は誰かとすれ違うたびに、ケースを身体へ引き寄せた。
知らない人の視線が、傷のついたケースへ向いている気がする。
実際には、誰もそこまで長く見ていない。
分かっていても、由実はケースを後ろへ隠すように持ってしまった。
「由実、前見ろ」
香苗の声に顔を上げる。
危うく、前を歩いていた部員のケースへぶつかるところだった。
「すみません」
「ケースを隠そうとして、人にぶつけたら意味ないぞ」
由実は返事をしながら、持ち手を握り直した。
香苗はそれ以上何も言わず、由実の少し前を歩いた。
駅前の商業施設へ入ると、音が一度に押し寄せてきた。
天井から流れる館内放送。
店先で鳴っている明るい音楽。
買い物客の話し声。
走る子どもを呼び止める声。
食器の触れ合う音や、遠くで響く笑い声。
音楽室では、誰かが話せばほかの人は静かになる。
けれど、ここでは何かが鳴り終わる前に、別の音が重なっていた。
演奏場所は、建物の中央にある開けた空間へ作られていた。
低い舞台の前に椅子が並べられているが、その横を買い物客が普通に通り過ぎていく。
学校の講堂のように、舞台と客席がきっぱり分かれてはいない。
演奏が始まる前から、誰にでも見える場所だった。
「楽器を出したら、ケースは指定された場所へまとめて置いて」
部長の指示に、部員たちが一斉に動き始める。
由実もケースを床へ寝かせ、留め金を外した。
蓋を開ける。
深い赤色のテナーが、館内の白い照明を受けた。
部室で見ているときよりも、赤が明るく浮かんで見える。
周囲では金色のアルトやトランペットが次々と組み立てられていた。その中に置かれた赤い楽器は、一つだけ別のもののようだった。
「あ、赤い」
近くを通った子どもの声が聞こえた。
由実の指が止まる。
小さな男の子が、母親の手を引きながら赤いテナーを指差していた。
母親は軽く頭を下げ、子どもを連れて歩いていく。
笑われたわけではない。
それでも、由実は楽器を持ち上げると、ベルを身体の陰へ寄せた。
「やっぱり目立つね」
隣でアルトを組み立てていた真琴が言った。
由実の胸が縮む。
「遠くからでも、橋本さんがどこにいるか分かりそう」
「……そんなに変かな」
「変?」
真琴は首を傾げ、赤いテナーを見た。
「ううん。金色ばっかりの中にあるから、見つけやすいって意味」
真琴の表情には、からかう様子も嫌がる様子もなかった。
「舞台で見失わなくて済みそう」
そう言って、真琴は自分のマウスピースへリードを取りつけ始めた。
由実は赤いテナーへ視線を戻した。
見つけやすい。
それは褒め言葉なのか、ただの事実なのか分からない。
少なくとも、真琴は恥ずかしい楽器だとは思っていないらしい。
由実はベルを隠すようにしていた腕を、少しだけ緩めた。
◇
音出しが始まると、由実はすぐに学校との違いを思い知った。
新しい黒いマウスピースへ息を入れる。
赤いテナーから音が出た瞬間、その音が斜め上へ飛び、少し遅れて遠くの壁から返ってきた。
手元で聞こえる音と、返ってくる音がずれている。
もう一度吹くと、今度は近くで鳴っている金管の音に押され、自分の音が薄くなった。
(どっちが本当の音なんだろう)
由実は少し強く息を入れた。
返ってきた音が急に大きくなり、肩がすくむ。
慌てて息を弱めると、音が痩せた。
「由実、自分の音だけ追うな」
香苗が隣から言った。
「でも、聞こえ方が違います」
「会場が違うんだから当たり前だ。ここで音楽室と同じ聞こえ方を探しても無理だぞ」
香苗はアルトを構え、短い音を一つ吹いた。
澄んだ音が前へ抜け、少し遅れて天井から返ってくる。
「返ってくる音は参考にしすぎるな。指揮と、隣の音を見る」
「音を見るんですか」
「言い方だよ。聞け」
由実は小さくうなずいた。
リハーサルが始まり、最初の曲の一部を確認する。
指揮棒が上がった。
由実は休符を数え、香苗の呼吸を横目で追った。
けれど、館内放送の切れ目に子どもの声が重なり、一瞬だけ数が分からなくなった。
由実の入りが遅れる。
赤いテナーの音は、アルトの後ろから追いかけるように鳴った。
「もう一度」
千秋の声が飛んだ。
怒ってはいない。
それでも、由実は口元へ力を入れた。
「橋本さん、会場の音へ合わせようとしなくていいよ」
千秋が譜面越しに由実を見る。
「隣の呼吸と、指揮を見る。自分の音がどう返ってくるかは、今は気にしすぎない」
「はい」
香苗が由実の方へ身体を向けた。
「四拍で吸うぞ」
由実はうなずく。
一、二、三。
四で一緒に息を吸う。
香苗のアルトと由実のテナーが、ほとんど同時に始まった。
今度は、自分の音がどこから返ってくるかを考えなかった。
隣にある香苗の音だけを聞き、息を途切れさせない。
短いフレーズが終わる。
「今のでいい」
香苗はそれだけ言った。
由実は息を吐いた。
一度だけだった。
けれど、学校で練習してきたことが、ここでもまったく使えないわけではないらしい。
そう思えたのも、観客が集まり始めるまでだった。
舞台の前へ置かれた椅子が、少しずつ埋まっていく。
子どもを膝へ乗せた母親。
買い物袋を足元へ置いた夫婦。
演奏を待ちながら話している学生たち。
椅子へ座らず、柱の近くで立ち止まっている人もいる。
さっきまで通り過ぎていただけの人々が、こちらを向いていた。
由実の指先が冷たくなる。
その視線が、自分ではなく部全体へ向いていることは分かっている。
それでも、赤いテナーだけは、金色の楽器より先に見つけられてしまう気がした。
失敗したら、赤い楽器の子が間違えたと思われる。
由実はベルを膝の内側へ寄せた。
「橋本さん、曲がるよ」
真琴に言われ、慌てて楽器を戻す。
「ごめん」
「大丈夫?」
「うん」
答えた声は、自分でも分かるほど固かった。
本番開始まで、あと少し。
由実はリードの先を軽く触った。
ずれていない。
リガチャーも締まっている。
それでも不安になり、もう一度確認しようとしたところで、香苗の手が伸びてきた。
「動かすな」
香苗は由実のマウスピースをのぞき込み、リードの位置を確かめた。
顔が近づき、由実は別の意味で息を止めた。
「リードは大丈夫。リガチャーも緩んでない」
「はい」
「噛みすぎるなよ。緊張すると、すぐ口へ力が入るから」
香苗は由実の口元を見たまま言った。
由実は視線を譜面台の端へ逃がした。
「佐伯先輩」
「なんだ」
「間違えたら、どうしよう」
口にした途端、不安がはっきりした形になった。
香苗はすぐに、大丈夫だとは言わなかった。
間違えるなとも言わない。
「止まっても、次の息は吸える」
「次の息……」
「音を外した後でも、休符の途中でも、息は吸える。吸ったら、次に入れるところを探せ」
由実は譜面へ書いた言葉を思い出した。
『間違えても次へ戻る』
その下には、真琴と同じリズムの場所。
莉央の低い音を二回聞く場所。
戻るための印がある。
「最初から最後まで、ずっと一息で吹くわけじゃないだろ」
「はい」
「だったら、止まったところで終わりじゃない」
香苗は由実のマウスピースから手を離した。
「次の息を吸え」
会場の照明が少し落とされ、舞台の前が明るくなる。
部員たちが所定の位置へ座った。
由実も赤いテナーを持ち上げ、ストラップへ重さを預ける。
前を見る。
客席の一番前には、何人かの子どもが並んで座っていた。
その中の一人が、こちらをじっと見ている。
赤いテナーを指差した子どもとは違う、小さな女の子だった。
視線は由実の顔ではなく、深い赤色のベルへ向いていた。
由実は反射的に楽器を隠しかけた。
けれど、もう演奏が始まる。
ベルを正面へ戻し、足を床へつける。
譜面を見る。
指揮者が前へ立った。
館内放送が止まり、ざわめきが少しずつ小さくなっていく。
由実は黒いマウスピースをくわえた。
止まっても、次の息は吸える。
心の中で繰り返す。
赤いテナーを身体の前へ構えたまま、由実は指揮棒が上がるのを待った。




