第17話 次の息を吸う
指揮棒が上がった。
由実は息を止めたまま、その先端を見つめた。
会場のざわめきが、完全に消えたわけではない。
遠くでは食器の触れ合う音がしている。小さな子どもの声も聞こえる。けれど、指揮者が腕を動かした瞬間、それらの音が一歩だけ遠ざかった。
打楽器が最初の拍を刻む。
金管が明るい音を重ね、フルートとクラリネットが旋律を受け取った。
由実はまだ吹かない。
譜面の休符を目で追いながら、心の中で数える。
(一、二、三、四)
楽譜を見る。
指揮を見る。
香苗のアルトが少し持ち上がる。
その隣では、真琴も同じタイミングで息を吸った。
由実も腹へ息を入れた。
最初に担当するのは、長く伸ばす一音だった。
黒いマウスピースを噛みすぎないようにする。
肩を下げる。
香苗の音が始まる瞬間に合わせて、舌を離した。
赤いテナーから音が出た。
わずかに震えていたが、止まらなかった。
アルト三人の下へ入り、金管の響きと低音の間へ伸びていく。
音楽室とは違う方向から、自分の音が返ってくる。
由実はその響きを追いかけそうになった。
けれど、すぐ隣にある香苗の音へ意識を戻した。
息の速さを変えない。
譜面に書かれた長さまで伸ばし、指揮に合わせて音を切る。
周囲の音も、ほとんど同時に消えた。
(吹けた)
胸の奥で、緊張が少しだけほどけた。
次の部分は休みだった。
由実は楽器を構えたまま、演奏を聴く。
香苗と真琴のアルトが、明るい旋律を受け持っている。
自分の譜面には音符がない。
以前なら、吹いていない自分だけが演奏から外れているように感じただろう。
今は、次に入る場所を待つための時間だと思える。
曲が進むにつれ、客席の気配が薄れていった。
誰かが咳をした。
椅子の動く音がした。
けれど、由実の耳は少しずつ、指揮と周囲の楽器へ向かっていく。
もう一度、長い音へ入る。
今度は最初より落ち着いていた。
莉央のバリトンサックスが、低い場所から響きを支えている。
その上へ、自分のテナーを置く。
香苗の言ったとおり、自分の音だけを聞こうとはしなかった。
演奏の中へ入れている。
そう思えた。
最初の曲が終わる。
客席から拍手が起こった。
由実は驚いて顔を上げた。
目の前の人たちは、楽譜を見ていない。
音程が少し揺れたことも、最初の音が震えていたことも、分からないかもしれない。
それでも、自分たちの演奏へ拍手をしている。
胸の中に、わずかな熱が生まれた。
だが、次の曲が始まるまでの時間は短かった。
指揮者が楽譜をめくる。
部員たちも姿勢を整える。
由実は慌てて次のページを確認した。
この曲では、最初の方に四分音符が並ぶ箇所がある。
真琴と同じリズム。
途中には、莉央の低い音を二回聞いたあとに入る場所もある。
何度も練習した。
楽譜にも印をつけてある。
(大丈夫)
由実は指を置き直した。
指揮棒が上がる。
二曲目が始まった。
軽いリズムに乗って、木管が旋律を受け渡していく。
由実は最初の休符を数えた。
予定していた場所で息を吸い、短い音を並べる。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
指は少し固かったが、音は出ていた。
真琴のアルトが近くに聞こえる。
香苗の音は、その少し先で旋律を支えている。
由実は譜面と指揮を交互に見ながら、次の休符へ入った。
そのとき、客席の方から大きな拍手が聞こえた。
曲の途中だった。
どうやら、前方にいた小さな子どもが、演奏に合わせて手を叩き始めたらしい。
一定ではない拍手が、由実の数えていた拍へ重なった。
(一、二……)
どちらが二拍目なのか分からなくなる。
由実は焦って、もう一度数え直そうとした。
(一、二、三――)
けれど、その数え方が正しいのか確信が持てない。
周囲の音が急に速くなったように感じた。
入らなければ。
そう思い、由実は予定より早く息を吸った。
マウスピースをくわえる。
舌を離しかけた瞬間、香苗の指がまだ別の音を押さえていることに気付いた。
(違う)
由実は慌てて音を止めた。
短く、濁った音が一つだけ漏れる。
その直後が、本来の入りだった。
しかし、止めた反動で息がなくなり、由実は音を出せなかった。
譜面の上では、次の小節へ進んでいる。
周囲の演奏も止まらない。
由実だけが取り残された。
(どこ)
目で楽譜を追う。
いま演奏している音が、どの小節なのか分からない。
似たようなリズムが続いている。
指揮を見ても、何拍目なのか判断できない。
間違えた場所へ戻ろうとした。
けれど、その場所はもう終わっている。
演奏だけが先へ進んでいく。
胸が詰まった。
息を吸わなければならないのに、身体が固まっている。
手の中で、赤いテナーが急に重くなった。
由実は助けを求めるように、隣を見た。
香苗は演奏を続けていた。
由実の音を隠すように強く吹くこともない。
楽器を下ろして教えることもできない。
ただ、いつもどおり指揮を見て、自分のアルトを吹いている。
(先輩)
由実は目で訴えた。
香苗の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。
それだけだった。
すぐに前へ戻る。
置いていかれたような気がした。
けれど、数小節後。
香苗の肩が、ゆっくりと下がった。
フレーズの切れ目だった。
次のまとまった入りへ向けて、香苗が深く息を吸う。
普段の練習より、少し大きく。
由実から見えるように。
アルトのベルが、わずかに持ち上がった。
(ここ)
由実も息を吸おうとした。
しかし、まだ確信が持てない。
楽譜のどこなのか分からなければ、入ったあとに指が動かせない。
そのとき、反対側から真琴の音が聞こえた。
四分音符が二つ。
短い休み。
もう一度、同じ音。
何度も一緒に練習したリズムだった。
由実は譜面へ目を落とす。
ページの中央に、香苗が鉛筆でつけた印がある。
真琴と同じリズム。
その次に、二拍休む。
(ここだ)
さらに低音側から、莉央のバリトンサックスが鳴った。
一つ。
少し間を空けて、もう一つ。
大きくはない。
けれど、足元から床を支えるような音だった。
由実は思い出した。
『止まっても、次の息は吸える』
失敗した場所へ戻ろうとしていた。
もう終わった音を取り返そうとしていた。
取り返すことはできない。
なら、次に入れる場所へ入る。
由実は肩を下げた。
マウスピースを噛んでいた力を緩める。
息を吐く。
空になったところへ、香苗と同じタイミングで新しい息を吸った。
楽器を構える。
真琴のリズムが終わる。
莉央の低い音が土台を作る。
その間へ、テナーの音を入れた。
最初の音は震えた。
息も少し混じった。
それでも、音は出た。
由実は止めなかった。
次の音へ指を動かす。
さらに次へ。
周囲の演奏が、もう一度近づいてくる。
さっきまで自分を置き去りにしていた音楽が、由実のテナーを中へ受け入れた。
真琴のアルトが、一瞬だけ遅れかけた。
けれど、由実のテナーが入った直後、真琴の音も次の拍へそろった。
二人は顔を見合わせなかった。
そんな余裕はない。
それでも、真琴の音が戻ったことは分かった。
真琴にも、自分の音が聞こえたのかもしれない。
由実は香苗を見た。
香苗は前を向いたまま、いつもどおり演奏している。
戻れたことに気付いていないのではないか。
一瞬、そんな不安が浮かぶ。
だが、本当に由実が戻れていなければ、香苗はもう一度合図を出したはずだった。
何もせずに吹き続けている。
それは、由実がもう同じ演奏の中にいるということだった。
由実も前を向いた。
終盤では、アルト三人が明るい旋律を吹く。
その下で、テナーは少ない音を支える。
莉央のバリトンサックスがさらに低い場所へ響いていた。
由実は自分の音だけを確かめなかった。
香苗の音を聞く。
真琴の音を聞く。
莉央の低い響きを聞く。
その間に、自分の音を置く。
赤いテナーの音は、もう一人ではなかった。
最後の音へ入る。
指揮者の腕が大きく広がる。
由実は残っている息を押し出さず、最後まで一定に流した。
香苗のアルト。
真琴のアルト。
莉央のバリトンサックス。
金管と木管と打楽器。
すべての音が、一つの終わりへ向かう。
指揮棒が止まった。
由実も音を切った。
会場に一瞬だけ静けさが生まれる。
その直後、拍手が広がった。
前の席にいた子どもたちも手を叩いている。
立ったまま見ていた人たちも、こちらを向いて拍手していた。
由実は楽器を下ろした。
指先が震えている。
自分も最後まで吹いた。
けれど、その実感より先に、途中で出してしまった濁った音が浮かんだ。
(絶対、分かった)
あれだけ人がいた。
赤い楽器は目立つ。
間違えたのが自分だと、きっと気付かれた。
由実は客席を見られず、楽譜へ視線を落とした。
演奏を終えた部員たちは、指揮者の合図で立ち上がった。
由実も遅れて立つ。
赤いテナーを身体の前へ抱えたまま、頭を下げた。
拍手はまだ続いていた。
◇
舞台を降りると、全身から力が抜けた。
由実は人の流れを避けながら、楽器を持って控え場所へ戻る。
失敗した。
途中で完全に分からなくなった。
香苗が合図を出してくれなければ、最後まで戻れなかったかもしれない。
「橋本さん」
真琴が後ろから追いついてきた。
「最後、一緒に入れたね」
「うん」
「あそこ、私も一瞬分からなくなりそうだった」
「小川さんも?」
「橋本さんのテナーが聞こえたから、次だって分かった」
真琴はそう言い、少し照れたように笑った。
「助かった」
由実は何も返せなかった。
自分は真琴の音を手掛かりにした。
けれど、真琴も由実の音を聞いていた。
どちらか一方が助けたのではない。
同じ演奏の中で、互いの位置を確かめただけだった。
「橋本」
香苗の声がした。
由実は振り返る。
香苗はアルトを持ったまま、こちらへ歩いてきた。
怒られるかもしれない。
入りを間違えた。
楽譜も見失った。
由実は無意識に背筋を伸ばした。
香苗は由実の前で止まると、短く言った。
「戻ったな」
それだけだった。
「……はい」
由実は赤いテナーのベルへ視線を落とした。
「先輩が合図してくれたからです」
「合図はした」
香苗は否定しなかった。
「でも、息を吸ったのも、音を出したのも由実だ」
「でも、先輩がいなかったら」
「私が息を吸っても、由実のテナーは鳴らない」
由実は口を閉じた。
香苗は少しだけ視線をやわらげた。
「真琴の音も聞いたんだろ」
「はい」
「莉央の音も」
「……聞きました」
「だったら、自分で戻る場所を見つけたんだよ」
由実には、すぐには信じられなかった。
途中で何も分からなくなった自分が、自分の力で戻ったとは思えない。
香苗に呼吸を示してもらった。
真琴のリズムを聞いた。
莉央の低音に支えてもらった。
一人では戻れなかった。
それでも、最後に息を吸ったのは自分だった。
指を動かし、赤いテナーから音を出したのも自分だった。
「失敗したことは、なくならないぞ」
香苗が言った。
由実の胸が小さく痛む。
「はい」
「でも、戻ったこともなくならない」
香苗はそれ以上慰めず、楽器の片付けへ向かった。
由実はその背中を見送った。
手の中には、赤いテナーの重さが残っている。
マウスピースへ息を入れた感触も。
最初の震えた音。
真琴のアルト。
莉央の低音。
香苗が吸った息。
そして、最後までつながった自分の音。
失敗は消えなかった。
けれど、演奏もそこで終わらなかった。
由実は赤いテナーを持ち直した。
まだ胸を張れるほどではない。
それでも、最後の音まで吹いたことだけは、確かに自分の手元へ残っていた。




