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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第四章 はじめて音楽になった日

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第17話 次の息を吸う

 指揮棒が上がった。


 由実は息を止めたまま、その先端を見つめた。


 会場のざわめきが、完全に消えたわけではない。


 遠くでは食器の触れ合う音がしている。小さな子どもの声も聞こえる。けれど、指揮者が腕を動かした瞬間、それらの音が一歩だけ遠ざかった。


 打楽器が最初の拍を刻む。


 金管が明るい音を重ね、フルートとクラリネットが旋律を受け取った。


 由実はまだ吹かない。


 譜面の休符を目で追いながら、心の中で数える。


(一、二、三、四)


 楽譜を見る。


 指揮を見る。


 香苗のアルトが少し持ち上がる。


 その隣では、真琴も同じタイミングで息を吸った。


 由実も腹へ息を入れた。


 最初に担当するのは、長く伸ばす一音だった。


 黒いマウスピースを噛みすぎないようにする。


 肩を下げる。


 香苗の音が始まる瞬間に合わせて、舌を離した。


 赤いテナーから音が出た。


 わずかに震えていたが、止まらなかった。


 アルト三人の下へ入り、金管の響きと低音の間へ伸びていく。


 音楽室とは違う方向から、自分の音が返ってくる。


 由実はその響きを追いかけそうになった。


 けれど、すぐ隣にある香苗の音へ意識を戻した。


 息の速さを変えない。


 譜面に書かれた長さまで伸ばし、指揮に合わせて音を切る。


 周囲の音も、ほとんど同時に消えた。


(吹けた)


 胸の奥で、緊張が少しだけほどけた。


 次の部分は休みだった。


 由実は楽器を構えたまま、演奏を聴く。


 香苗と真琴のアルトが、明るい旋律を受け持っている。


 自分の譜面には音符がない。


 以前なら、吹いていない自分だけが演奏から外れているように感じただろう。


 今は、次に入る場所を待つための時間だと思える。


 曲が進むにつれ、客席の気配が薄れていった。


 誰かが咳をした。


 椅子の動く音がした。


 けれど、由実の耳は少しずつ、指揮と周囲の楽器へ向かっていく。


 もう一度、長い音へ入る。


 今度は最初より落ち着いていた。


 莉央のバリトンサックスが、低い場所から響きを支えている。


 その上へ、自分のテナーを置く。


 香苗の言ったとおり、自分の音だけを聞こうとはしなかった。


 演奏の中へ入れている。


 そう思えた。


 最初の曲が終わる。


 客席から拍手が起こった。


 由実は驚いて顔を上げた。


 目の前の人たちは、楽譜を見ていない。


 音程が少し揺れたことも、最初の音が震えていたことも、分からないかもしれない。


 それでも、自分たちの演奏へ拍手をしている。


 胸の中に、わずかな熱が生まれた。


 だが、次の曲が始まるまでの時間は短かった。


 指揮者が楽譜をめくる。


 部員たちも姿勢を整える。


 由実は慌てて次のページを確認した。


 この曲では、最初の方に四分音符が並ぶ箇所がある。


 真琴と同じリズム。


 途中には、莉央の低い音を二回聞いたあとに入る場所もある。


 何度も練習した。


 楽譜にも印をつけてある。


(大丈夫)


 由実は指を置き直した。


 指揮棒が上がる。


 二曲目が始まった。


 軽いリズムに乗って、木管が旋律を受け渡していく。


 由実は最初の休符を数えた。


 予定していた場所で息を吸い、短い音を並べる。


 一つ目。


 二つ目。


 三つ目。


 指は少し固かったが、音は出ていた。


 真琴のアルトが近くに聞こえる。


 香苗の音は、その少し先で旋律を支えている。


 由実は譜面と指揮を交互に見ながら、次の休符へ入った。


 そのとき、客席の方から大きな拍手が聞こえた。


 曲の途中だった。


 どうやら、前方にいた小さな子どもが、演奏に合わせて手を叩き始めたらしい。


 一定ではない拍手が、由実の数えていた拍へ重なった。


(一、二……)


 どちらが二拍目なのか分からなくなる。


 由実は焦って、もう一度数え直そうとした。


(一、二、三――)


 けれど、その数え方が正しいのか確信が持てない。


 周囲の音が急に速くなったように感じた。


 入らなければ。


 そう思い、由実は予定より早く息を吸った。


 マウスピースをくわえる。


 舌を離しかけた瞬間、香苗の指がまだ別の音を押さえていることに気付いた。


(違う)


 由実は慌てて音を止めた。


 短く、濁った音が一つだけ漏れる。


 その直後が、本来の入りだった。


 しかし、止めた反動で息がなくなり、由実は音を出せなかった。


 譜面の上では、次の小節へ進んでいる。


 周囲の演奏も止まらない。


 由実だけが取り残された。


(どこ)


 目で楽譜を追う。


 いま演奏している音が、どの小節なのか分からない。


 似たようなリズムが続いている。


 指揮を見ても、何拍目なのか判断できない。


 間違えた場所へ戻ろうとした。


 けれど、その場所はもう終わっている。


 演奏だけが先へ進んでいく。


 胸が詰まった。


 息を吸わなければならないのに、身体が固まっている。


 手の中で、赤いテナーが急に重くなった。


 由実は助けを求めるように、隣を見た。


 香苗は演奏を続けていた。


 由実の音を隠すように強く吹くこともない。


 楽器を下ろして教えることもできない。


 ただ、いつもどおり指揮を見て、自分のアルトを吹いている。


(先輩)


 由実は目で訴えた。


 香苗の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。


 それだけだった。


 すぐに前へ戻る。


 置いていかれたような気がした。


 けれど、数小節後。


 香苗の肩が、ゆっくりと下がった。


 フレーズの切れ目だった。


 次のまとまった入りへ向けて、香苗が深く息を吸う。


 普段の練習より、少し大きく。


 由実から見えるように。


 アルトのベルが、わずかに持ち上がった。


(ここ)


 由実も息を吸おうとした。


 しかし、まだ確信が持てない。


 楽譜のどこなのか分からなければ、入ったあとに指が動かせない。


 そのとき、反対側から真琴の音が聞こえた。


 四分音符が二つ。


 短い休み。


 もう一度、同じ音。


 何度も一緒に練習したリズムだった。


 由実は譜面へ目を落とす。


 ページの中央に、香苗が鉛筆でつけた印がある。


 真琴と同じリズム。


 その次に、二拍休む。


(ここだ)


 さらに低音側から、莉央のバリトンサックスが鳴った。


 一つ。


 少し間を空けて、もう一つ。


 大きくはない。


 けれど、足元から床を支えるような音だった。


 由実は思い出した。


『止まっても、次の息は吸える』


 失敗した場所へ戻ろうとしていた。


 もう終わった音を取り返そうとしていた。


 取り返すことはできない。


 なら、次に入れる場所へ入る。


 由実は肩を下げた。


 マウスピースを噛んでいた力を緩める。


 息を吐く。


 空になったところへ、香苗と同じタイミングで新しい息を吸った。


 楽器を構える。


 真琴のリズムが終わる。


 莉央の低い音が土台を作る。


 その間へ、テナーの音を入れた。


 最初の音は震えた。


 息も少し混じった。


 それでも、音は出た。


 由実は止めなかった。


 次の音へ指を動かす。


 さらに次へ。


 周囲の演奏が、もう一度近づいてくる。


 さっきまで自分を置き去りにしていた音楽が、由実のテナーを中へ受け入れた。


 真琴のアルトが、一瞬だけ遅れかけた。


 けれど、由実のテナーが入った直後、真琴の音も次の拍へそろった。


 二人は顔を見合わせなかった。


 そんな余裕はない。


 それでも、真琴の音が戻ったことは分かった。


 真琴にも、自分の音が聞こえたのかもしれない。


 由実は香苗を見た。


 香苗は前を向いたまま、いつもどおり演奏している。


 戻れたことに気付いていないのではないか。


 一瞬、そんな不安が浮かぶ。


 だが、本当に由実が戻れていなければ、香苗はもう一度合図を出したはずだった。


 何もせずに吹き続けている。


 それは、由実がもう同じ演奏の中にいるということだった。


 由実も前を向いた。


 終盤では、アルト三人が明るい旋律を吹く。


 その下で、テナーは少ない音を支える。


 莉央のバリトンサックスがさらに低い場所へ響いていた。


 由実は自分の音だけを確かめなかった。


 香苗の音を聞く。


 真琴の音を聞く。


 莉央の低い響きを聞く。


 その間に、自分の音を置く。


 赤いテナーの音は、もう一人ではなかった。


 最後の音へ入る。


 指揮者の腕が大きく広がる。


 由実は残っている息を押し出さず、最後まで一定に流した。


 香苗のアルト。


 真琴のアルト。


 莉央のバリトンサックス。


 金管と木管と打楽器。


 すべての音が、一つの終わりへ向かう。


 指揮棒が止まった。


 由実も音を切った。


 会場に一瞬だけ静けさが生まれる。


 その直後、拍手が広がった。


 前の席にいた子どもたちも手を叩いている。


 立ったまま見ていた人たちも、こちらを向いて拍手していた。


 由実は楽器を下ろした。


 指先が震えている。


 自分も最後まで吹いた。


 けれど、その実感より先に、途中で出してしまった濁った音が浮かんだ。


(絶対、分かった)


 あれだけ人がいた。


 赤い楽器は目立つ。


 間違えたのが自分だと、きっと気付かれた。


 由実は客席を見られず、楽譜へ視線を落とした。


 演奏を終えた部員たちは、指揮者の合図で立ち上がった。


 由実も遅れて立つ。


 赤いテナーを身体の前へ抱えたまま、頭を下げた。


 拍手はまだ続いていた。


 ◇


 舞台を降りると、全身から力が抜けた。


 由実は人の流れを避けながら、楽器を持って控え場所へ戻る。


 失敗した。


 途中で完全に分からなくなった。


 香苗が合図を出してくれなければ、最後まで戻れなかったかもしれない。


「橋本さん」


 真琴が後ろから追いついてきた。


「最後、一緒に入れたね」


「うん」


「あそこ、私も一瞬分からなくなりそうだった」


「小川さんも?」


「橋本さんのテナーが聞こえたから、次だって分かった」


 真琴はそう言い、少し照れたように笑った。


「助かった」


 由実は何も返せなかった。


 自分は真琴の音を手掛かりにした。


 けれど、真琴も由実の音を聞いていた。


 どちらか一方が助けたのではない。


 同じ演奏の中で、互いの位置を確かめただけだった。


「橋本」


 香苗の声がした。


 由実は振り返る。


 香苗はアルトを持ったまま、こちらへ歩いてきた。


 怒られるかもしれない。


 入りを間違えた。


 楽譜も見失った。


 由実は無意識に背筋を伸ばした。


 香苗は由実の前で止まると、短く言った。


「戻ったな」


 それだけだった。


「……はい」


 由実は赤いテナーのベルへ視線を落とした。


「先輩が合図してくれたからです」


「合図はした」


 香苗は否定しなかった。


「でも、息を吸ったのも、音を出したのも由実だ」


「でも、先輩がいなかったら」


「私が息を吸っても、由実のテナーは鳴らない」


 由実は口を閉じた。


 香苗は少しだけ視線をやわらげた。


「真琴の音も聞いたんだろ」


「はい」


「莉央の音も」


「……聞きました」


「だったら、自分で戻る場所を見つけたんだよ」


 由実には、すぐには信じられなかった。


 途中で何も分からなくなった自分が、自分の力で戻ったとは思えない。


 香苗に呼吸を示してもらった。


 真琴のリズムを聞いた。


 莉央の低音に支えてもらった。


 一人では戻れなかった。


 それでも、最後に息を吸ったのは自分だった。


 指を動かし、赤いテナーから音を出したのも自分だった。


「失敗したことは、なくならないぞ」


 香苗が言った。


 由実の胸が小さく痛む。


「はい」


「でも、戻ったこともなくならない」


 香苗はそれ以上慰めず、楽器の片付けへ向かった。


 由実はその背中を見送った。


 手の中には、赤いテナーの重さが残っている。


 マウスピースへ息を入れた感触も。


 最初の震えた音。


 真琴のアルト。


 莉央の低音。


 香苗が吸った息。


 そして、最後までつながった自分の音。


 失敗は消えなかった。


 けれど、演奏もそこで終わらなかった。


 由実は赤いテナーを持ち直した。


 まだ胸を張れるほどではない。


 それでも、最後の音まで吹いたことだけは、確かに自分の手元へ残っていた。

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