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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第四章 はじめて音楽になった日

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第18話 赤い楽器、格好よかった

 拍手の音は、もう聞こえなくなっていた。


 それでも由実の耳には、途中で出しかけた濁った音だけが残っていた。


 部員たちは演奏場所の周りを動き回り、椅子や譜面台を片付けている。打楽器のそばでは、小さな子どもが母親の手を引きながら、太鼓を指差していた。


「あれ、叩いてたね」


「大きい音だったね」


 そんな声が聞こえる。


 少し離れたところでは、演奏を聴いていたらしい年配の女性たちが、最後の曲について話していた。


 誰も、テナーサックスが途中で入り損ねたとは言っていない。


 けれど、気付いていないはずがないと由実は思った。


 赤い楽器は、遠くからでも目立つ。


 その楽器を持った自分が、途中で音を止めた。周囲の演奏が続いている中で、一人だけ吹けなくなった。


 見ていた人には分かったはずだ。


 由実はストラップから赤いテナーを外し、ケースのそばへ腰を下ろした。


 マウスピースを抜く。


 リードを外し、水分を拭き取る。


 普段なら一つずつ確認しながら行う作業なのに、今日は指だけが勝手に動いているようだった。


(入りを間違えた)


 練習記録が手元にあれば、最初にそう書く。


 次に、楽譜の場所が分からなくなった。


 その次に、香苗へ助けを求めた。


 書くことはいくらでもあった。


 できなかったことだけなら。


「橋本さん」


 真琴が、組み立てたままのアルトサックスを抱えて近づいてきた。


 由実は顔を上げる。


「片付け、進んでる?」


「うん。今、マウスピースを拭いてたところ」


「そっか」


 真琴は由実の隣へしゃがんだ。


 先ほどまで本番で吹いていたためか、頬が少し赤い。緊張が解けたのか、声もいつもより明るかった。


「初めての本番、終わったね」


「……うん」


「すごかった。練習のときより、あっという間だった」


 真琴は素直に笑った。


 由実も笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。


「でも、私、途中で間違えたから」


「私も間違えたよ」


「小川さんは、ちゃんと吹いてた」


「全部は吹けてないよ。二曲目、指が一回ずれたし」


 由実には分からなかった。


 真琴の音は、最初から最後まできれいにつながっていたように聞こえていた。


「気付かなかった」


「でしょ?」


 真琴は少しだけ得意そうに言ったあと、すぐに首を横へ振った。


「違う。気付かれなかったからいいってことじゃなくて……たぶん、私も自分の失敗ばっかり大きく聞こえてるんだと思う」


 由実は手の中のリードへ視線を落とした。


 自分が出した濁った音は、会場全体へ響いたように感じた。


 けれど、真琴が指を間違えたことには気付かなかった。


「それに、途中で橋本さんのテナーが戻ってきたから、私も次の場所が分かったし」


「でも、私は小川さんの音を聞いて戻ったよ」


「うん」


 真琴はあっさりとうなずいた。


「じゃあ、お互いに聞いてたってことだね」


 その言い方があまりに簡単で、由実は返事に困った。


 助けてもらったと思っていた。


 真琴の音に。


 莉央の低音に。


 香苗の呼吸に。


 けれど、真琴も自分の音を聞いていた。


 由実のテナーは、演奏の中で誰かの目印になっていた。


「橋本さんの音、戻ってきたとき分かりやすかったよ」


「赤いから?」


 由実は思わず聞いた。


 真琴が目を瞬く。


「音に色はついてないよ」


「……そうだよね」


「でも、橋本さんの音だった」


 真琴はそれだけ言うと、立ち上がった。


「私、譜面台運んでくる。橋本さんも終わったら手伝おう」


「うん」


 由実は真琴の背中を見送った。


 自分の音だった。


 まだ、その意味はよく分からない。


 香苗のアルトのように、音を聞いただけで誰が吹いているか分かるほどのものではないと思う。


 それでも、本番の中で戻ってきたテナーの音を、真琴は自分のものとして聞いていた。


 由実はリードをケースへしまった。


 赤いテナーの管内へスワブを通す。


 途中で布が引っかからないよう、ゆっくり引き抜いた。


「全員、少し集まって」


 千秋の声がした。


 サックスパートだけではなく、近くにいた部員たちも片付けの手を止める。


 由実は赤いテナーを持ったまま立ち上がった。


 部員たちは演奏場所の端へ集まる。


 千秋は全員の顔を見回した。


「お疲れさま。細かい乱れはいくつかあったけど、止まらず最後まで届けられた。初めて本番に出た一年生も、よく周りを見てたと思う」


 細かい乱れ。


 由実の胸が縮む。


 あの濁った音も含まれている。


 入りを逃したことも。


「反省は学校に戻ってからやる。ここでは、借りた場所をきれいにして、忘れ物をしないこと。最後まで本番だから」


 千秋の言葉に、部員たちが返事をする。


 由実も遅れて声を出した。


 千秋はそれ以上、誰の失敗がどうだったとは言わなかった。


 演奏を最後まで届けた。


 その言葉だけが残る。


「橋本、顔」


 近くで香苗が言った。


「顔?」


「反省会が始まってる」


「まだ何も言ってません」


「言ってなくても分かる」


 香苗は折り畳んだ譜面台を片手に持ち、もう一方の手で由実のケースを指差した。


「先に片付けろ。反省は学校に戻ってからでいい」


「でも、間違えました」


「間違えた」


 香苗は否定しなかった。


 由実は少しだけ俯く。


「それで、戻った」


「でも、最初から間違えなかった方がよかったです」


「それはそうだな」


 また、否定されなかった。


 慰めてほしかったわけではない。


 けれど、正面から認められると胸が痛む。


 香苗は由実の顔を見たまま続けた。


「間違えたことと、戻ったことは、どっちか一つにしなくていい」


「……両方ですか」


「両方だよ」


 香苗はそう言うと、譜面台を運ぶために離れていった。


 由実はその場に残った。


 失敗した。


 戻った。


 最後まで吹いた。


 どれか一つだけが本当なのではない。


 すべて今日、自分がやったことだった。


 由実は赤いテナーをケースへ収めようとした。


 ベルを支え、横向きに寝かせる。


 照明を受けた赤い外装には、細かな傷が浮かんでいた。


 塗装が薄くなっている部分もある。ベルの縁には、小さな剥がれがいくつも並んでいた。


 商業施設へ着いたときには、それらを見られることが恥ずかしかった。


 周囲の金色のサックスとは違う。


 古く、傷があり、必要以上に目立つ。


 由実は楽器を身体の陰へ隠した。


 今も傷は消えていない。


 ケースへ入れてしまえば、もう誰にも見られない。


「お姉ちゃん」


 後ろから、細い声がした。


 由実の手が止まった。


 振り返る。


 小学生くらいの少女が立っていた。


 前髪を小さなピンで留め、両手を身体の前で握っている。


 少し離れたところには、母親らしい女性が立っていた。


「すみません。この子が、どうしてもお話ししたいって」


 女性が申し訳なさそうに頭を下げる。


 由実の胸が強く鳴った。


(間違えたこと?)


 少女は前の席にいた。


 赤いテナーをずっと見ていた子だ。


 由実が途中で吹けなくなったところも、近くから見ていたはずだった。


「あの」


 少女が由実を見上げる。


 由実は楽器のベルへ手を置いたまま身構えた。


 何を言われても、謝らなければならないような気がした。


 少女は赤いテナーを指差した。


「赤い楽器、格好よかった」


 由実は動けなかった。


「……え?」


「赤いの。すごく格好よかった」


 少女はもう一度言った。


 笑っている。


 からかっているようには見えない。


「ほかのは金色だったけど、お姉ちゃんのだけ赤かったから、すぐ見つけられた」


 少女の指が、ベルの近くを示す。


「大きくて、低い音がした」


「低い音……」


「うん。どーんってする音」


 実際のテナーの音を、うまく言葉にできないらしい。


 少女は少し考え、両手を広げた。


「下から聞こえた」


 由実は何も言えなかった。


 入りを間違えたことは、言われない。


 音を止めてしまったことも。


 次の場所が分からなくなったことも。


 少女が覚えていたのは、赤い楽器だった。


 低い音だった。


 今日の演奏の中にいた、自分のテナーだった。


「この楽器、古いんだよ」


 由実は気付けば、そんなことを口にしていた。


「傷もあるし」


 少女はベルへ顔を近づけるようにして見る。


「でも、赤いよ」


「うん」


「だから格好いい」


 迷いのない声だった。


 古いから格好悪い。


 傷があるから恥ずかしい。


 目立つから隠したい。


 少女には、そのどれも関係がなかった。


 赤い。


 ほかとは違う。


 遠くからでも見つけられる。


 それが、格好よかった。


「……ありがとう」


 由実はやっと答えた。


 声が少し震えた。


 少女は満足そうに笑い、母親のもとへ戻った。


「お姉ちゃん、ありがとう」


 女性が頭を下げる。


 由実も慌てて頭を下げた。


 二人は人の流れの中へ戻っていく。


 少女は途中で一度振り返り、赤いテナーへ小さく手を振った。


 由実は、ベルに置いていた手を離せなかった。


 表面の傷が、照明の下でよく見える。


 塗装の剥がれたところは、赤の中へ細い線を作っている。


 今までは、新しい金色の楽器と比べるたび、古さを示す跡にしか見えなかった。


 けれど、この楽器は今日、演奏へ参加した。


 途中で止まり、もう一度鳴った。


 香苗の音と重なった。


 真琴の音を聞き、真琴にも聞かれた。


 莉央の低音の上へ乗った。


 最後の音まで、部員全員の音と一緒に伸びた。


 その音が、少女のところまで届いた。


「何を言われた?」


 香苗の声がした。


 由実は顔を上げる。


 譜面台を運び終えた香苗が、少し離れたところからこちらを見ていた。


「……格好よかったそうです」


「何が?」


「楽器が」


 香苗は赤いテナーへ視線を移した。


「そうか」


 短い返事だった。


 驚いた様子もない。


 自分のことのように喜ぶこともない。


 由実は少しだけ不満を覚えた。


「それだけですか」


「何がだ」


「もっと驚くかと思いました」


「赤いテナーが格好いいのは、最初から知ってる」


 由実は香苗を見つめた。


「先輩は、恥ずかしいと思ったことないんですか」


「何を」


「赤いことです」


 香苗は本気で分からないという顔をした。


「ないな」


「目立つのに」


「目立つのと、恥ずかしいのは別だろ」


 由実は返事ができなかった。


 自分にとっては、ずっと同じだった。


 目立つ。


 見られる。


 失敗を見つけられる。


 だから恥ずかしい。


 けれど少女にとって、目立つことは見つけられることだった。


 香苗にとっては、最初から恥ずかしい理由ではなかった。


「ケースへ入れないのか」


 香苗が尋ねる。


「あ、入れます」


 由実は赤いテナーを持ち上げた。


 ケースの中へ収める。


 黒いマウスピースは別の場所へしまう。


 自分で選んだもの。


 学校から借りた古い楽器。


 その二つが、同じケースの中へ並んでいる。


 蓋を閉める前に、由実はもう一度赤いベルを見た。


 隠したいとは思わなかった。


 ほんの少し前までは、早くケースへ入れたかったのに。


 傷も剥がれも、そのままだった。


 それでも今日の演奏を終えた楽器に見えた。


 ◇


 学校へ戻ると、片付けと短いミーティングが行われた。


 本格的な反省は次の練習で行うことになり、その日は忘れ物と楽器の状態を確認して解散となった。


 由実はすぐには帰らず、音楽室の端で練習記録を開いた。


 日付を書く。


 その下で、鉛筆が止まる。


 最初に書く言葉は決まっていた。


『入りを間違えた』


 由実はそのまま書いた。


 嘘にはしたくない。


 間違えたことは消えない。


 次の行へ進む。


『楽譜の場所が分からなくなった』


 そこまで書き、少し考える。


 以前なら、ここで終わっていた。


 できなかったことを並べ、最後にもっと練習すると書く。


 由実は鉛筆を持ち直した。


『次の入りから戻れた』


 続けて書く。


『最後まで吹いた』


 紙の上に並んだ言葉を見る。


 間違えた。


 戻れた。


 最後まで吹いた。


 香苗が言ったとおり、どれか一つを消す必要はなかった。


 由実はさらに一行空けた。


 何と書けばよいのか迷う。


 少し恥ずかしい。


 誰かに見られるものではないはずなのに、書くと本当のことになるような気がした。


『赤い楽器が格好よかったと言われた』


 書き終える。


 文字を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。


 音がきれいだったとは言われていない。


 上手だったとも言われていない。


 けれど、少女は自分の楽器を見つけた。


 低い音を聞いた。


 演奏が終わったあと、わざわざ伝えに来てくれた。


 誰かに聴いてもらうとは、間違いがないか確かめてもらうことではなかった。


 自分が気にしているものとは別の何かを、受け取ってもらうこともある。


 由実は記録帳を閉じた。


 赤いテナーのケースが、椅子の横に置かれている。


 古く、傷も多い。


 持ち運ぶには重い。


 アルトより大きく、目立つ。


 まだ、自分の楽器だとは言えない。


 好きかと聞かれても、すぐには答えられない。


 それでも。


 次に人前で吹くときは、今日よりもう少し長く吹きたい。


 途中で分からなくならず、最初から最後まで自分の場所にいたい。


 もう少しきちんと、この楽器の音を届けたい。


「橋本、帰らないのか」


 音楽室の入口から香苗が呼んだ。


「今、行きます」


 由実は記録帳を鞄へ入れ、ケースを持ち上げた。


 重さは変わっていない。


 けれど、商業施設へ向かった朝より、少しだけ持ちやすく感じた。


 廊下へ出ると、千秋が掲示板へ新しい予定表を貼っていた。


「来週から、地区大会の練習に入るから確認しておいて」


 真琴が予定表へ駆け寄る。


「大会って、夏のですか?」


「そう。今度は今日みたいな演奏とは練習の仕方も変わるよ」


 審査。


 結果。


 由実にはまだ、具体的な重さが分からない。


 ただ、予定表には今までより細かな練習時間が書き込まれていた。


 パート練習。


 分奏。


 全体合奏。


 基礎練習。


 由実はケースの持ち手を握り直した。


 今日の演奏では、途中で音を見失った。


 それでも戻った。


 誰かへ音が届いた。


 次は、もっと吹けるようになりたい。


 赤いテナーを仕方なく運ぶのではなく、この楽器でもう一度音を出すために。


 由実は香苗の隣を歩きながら、予定表をもう一度振り返った。

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