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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 音を揃える夏

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第19話 審査される音

 夏休みに入って最初の朝、音楽室の空気は、いつもより少し重かった。


 窓には日差しを遮るカーテンが引かれ、冷房も入っている。それでも、三十人近い部員が楽器を組み立て、音を出し始めると、部屋にはすぐ熱がこもった。


 由実は椅子へ座り、赤いテナーを膝の上へ置いた。


 譜面台には、二冊の楽譜が並んでいる。


 第三課題曲、行進曲『青空へ続く道』。


 自由曲、『元禄』。


 地域演奏を終えたあとから、少しずつ練習してきた曲だった。


 けれど今日からは、練習の意味が変わる。


「地区大会まで、あと三週間です」


 音楽室の前に立った高瀬美緒が、部員たちを見渡した。


「地域演奏とコンクールは、同じ本番でも目的が違います」


 部屋のざわめきが止まる。


「地域演奏は、聴いてくださる方に楽しんでもらうことが大切でした。もちろん、コンクールでも音楽を届けることは変わりません。ただし、今回は審査されます」


 由実は、楽譜の端を指で押さえた。


 審査。


 その言葉だけで、譜面台に置かれた二曲が、少し違って見える。


「去年、私たちは地区大会で金賞を取りました」


 何人かの三年生が、わずかに表情を固くした。


「でも、県大会の代表には選ばれませんでした」


 由実は顔を上げた。


 金賞なら、喜んで終わるものだと思っていた。


 けれど、金賞を取っても、その先へ進めないことがある。


「賞の色だけではなく、代表に選ばれるかどうかも含めて結果が出ます。今年は、去年届かなかった場所を目指します」


 高瀬は指揮台の上へ楽譜を置いた。


「音程、リズム、音の立ち上がり、音の長さ、音色、強弱、全体のまとまり。それから、曲としてどう表現しているか。細かいところまで聴かれます」


 そして、部員たちをもう一度見渡した。


「最後まで吹ければいい、ではありません」


 由実の指が止まった。


 商業施設での演奏が、頭へ浮かぶ。


 入りを間違えた。


 一度、曲の中で自分の居場所を見失った。


 それでも香苗の呼吸や、真琴と莉央の音を頼りに、最後まで戻ることができた。


 あの日から、由実は少しだけ、自分にも本番を乗り越えられると思っていた。


 失敗しても、戻ればいい。


 けれど、コンクールでは、その失敗そのものを減らさなければならない。


「まず、課題曲からいきます」


 高瀬が指揮棒を構えた。


「冒頭、四小節」


 由実は背筋を伸ばし、マウスピースを口へ運んだ。


 行進曲『青空へ続く道』は、明るい曲だった。


 軽やかな旋律が続き、聴いているだけなら、自然に足を踏み出したくなる。


 自由曲の『元禄』に比べれば、楽譜もすっきりしている。


 由実も最初に譜面を渡されたときは、こちらの方が吹きやすそうだと思っていた。


 高瀬の腕が下りる。


 音が始まった。


 二小節目で、指揮棒が止まる。


「もう一度」


 由実は楽器を下ろした。


「出だしがそろっていません。低音は少し遅れています。木管は八分音符が短すぎます」


 もう一度。


 今度は三小節目で止まった。


「アクセントが強すぎます。音を叩かないでください」


 もう一度。


「テナー、音程が高いです」


 由実は一瞬、自分のことだと分からなかった。


「橋本さん。出した直後が上ずっています」


「はい」


 返事をしながら、由実は首を傾げた。


 音は間違えていない。


 指も合っていた。


 休符にも入っていない。


 楽譜に書かれた音を、書かれた長さだけ吹いたつもりだった。


「もう一度、冒頭から」


 合奏が始まる。


 由実はさっきより慎重に息を入れた。


 けれど今度は、周りより音の入りが遅れた。


 すぐに指揮が止まる。


「慎重になると遅れます。音程を気にして、息の出る瞬間がずれています」


「すみません」


「謝らなくていいです。次で変えてください」


 高瀬の声は厳しかったが、責める調子ではなかった。


 由実は息を吸い直す。


 隣では、香苗が楽譜へ目を落としていた。


 何も言わない。


 助けるように音を大きくすることもない。


 ただ、次の開始を待っている。


 もう一度。


 今度は音の入りだけを意識した。


 すると、伸ばしている途中で息が細くなった。


「止めます」


 高瀬の指揮棒が下りる。


「今度は、音の後ろが落ちています」


 由実は、思わず譜面を見つめた。


 たった一つの音だった。


 同じ高さで、同じ長さだけ伸ばす。


 それだけのはずなのに、音の最初と最後が同じ形にならない。


 周囲と重なったとき、自分の音だけが少し上へ浮かび、途中から沈んでいく。


 簡単だと思っていたマーチの冒頭が、終わりの見えない基礎練習のように感じられた。


「一度、チューナーを出しましょう」


 高瀬の指示で、部員たちが譜面台へ小さな機械を置いていく。


 由実もケースのポケットからチューナーを取り出した。


「ロングトーン。自分の音がどう動いているか、見てください」


 由実はテナーを構える。


 息を入れた瞬間、針が中央より右へ動いた。


 高い。


 少し息を緩めると、針は中央へ近づく。


 けれど、そのまま伸ばしていると、今度は左へ傾いた。


 低い。


「動いてる……」


 由実の口から、小さく声が漏れた。


「最初、噛みすぎてる」


 隣から香苗が言った。


「音が出たあと安心して、息が抜けてる」


「自分では、ずっと同じように吹いてるつもりでした」


「つもりと、実際に出てる音は違うからな」


 香苗は自分のチューナーを譜面台へ置いたまま、短くロングトーンを吹いた。


 針はわずかに揺れたものの、ほとんど中央から動かない。


「動かない……」


「動いてるよ。完全に止めるのは無理」


 香苗は楽器を下ろした。


「でも、どっちへ動いたか分かれば直せる」


 由実はもう一度吹いた。


 音の最初で噛みすぎない。


 途中で息を抜かない。


 頭では分かっているのに、針はまた右へ振れ、そのあと左へ落ちた。


 向かい側では、真琴も同じ音を確認していた。


 一度吹く。


 チューナーを見る。


 口元をわずかに直す。


 二度目。


 針の揺れが、さっきより小さくなった。


 三度目には、ほとんど中央で安定している。


 由実は自分の針へ目を戻した。


 もう一度吹く。


 やはり、最初に高くなる。


 真琴はできた。


 自分はまだできない。


 地域演奏では、二人の音を互いに頼った。


 同じ曲を作る同期になれたと思った。


 それでも、中学から積み重ねてきた真琴の基礎が消えたわけではない。


 由実が数か月で覚えたことを、真琴は何年も繰り返してきた。


「由実」


 真琴がこちらを見た。


「最初、息を強く入れすぎてない?」


「強く?」


「音が出るか不安なとき、最初だけ押す感じになるでしょ。私も一年のとき、よく言われた」


「真琴も?」


「うん。今もたまにやるよ」


 真琴はそう言って、もう一度楽器を構えた。


 由実も息を吸う。


 音を押し出さない。


 それでも、音が出ることを信じる。


 針は一度だけ右へ揺れた。


 さっきより、小さい。


「今の方がいい」


 香苗が言った。


「はい」


 できたわけではない。


 それでも、何が違うのか少しだけ分かった。


 ◇


 午後になると、譜面台の上には自由曲『元禄』が置かれた。


 午前中のマーチとは、空気が違う。


 冒頭から独特の緊張があり、静かな部分にも、次の音へ向かう力がある。


「今日は最初から、流れを確認します」


 高瀬が全体を見渡した。


「千秋、冒頭お願いします」


「はい」


 千秋は椅子へ座ったまま、楽器を持ち上げた。


 いつも通りの姿勢だった。


 大きく息を吸う様子を見せることもない。


 それでも、千秋がマウスピースへ口を添えた瞬間、音楽室の空気が静まった。


 高瀬が小さく腕を上げる。


 千秋が息を入れた。


 最初の音が鳴る。


 強く押し出された音ではなかった。


 耳を塞ぎたくなるほど大きくもない。


 それなのに、音楽室の一番奥まで迷いなく届いた。


 静かさの中に張りがある。


 一つの音が終わる前から、次の音へ向かう道が見えるようだった。


 千秋の音に引かれ、部屋全体の呼吸が変わる。


 由実は、テナーを構えたまま動けなくなりそうになった。


 同じサックスだった。


 息を入れ、音を出す。


 それだけなら、由実がしていることと変わらないはずだった。


 けれど、千秋の一音はまるで違う。


 ただ鳴っているのではない。


 その音が、曲の始まりそのものになっている。


 由実は以前、千秋に言われた言葉を思い出した。


『大きい音を出すことと、届く音を出すことは違う』


 あのときは、頭で分かったつもりになっていた。


 音量を上げすぎない。


 周りを押しのけない。


 そういう意味だと思っていた。


 けれど今、千秋が音だけで示したものは、もっと違っていた。


 大きくなくても、耳が向く。


 押し出さなくても、こちらまで届く。


 聴く側が、自然にその先を待ちたくなる。


 千秋のソロが終わり、全体の音が重なった。


 由実も遅れて息を入れる。


「止めます」


 すぐに指揮が止まった。


「冒頭のあと、全体が遅れています」


 高瀬が楽譜を指で示す。


「千秋の音を聴きすぎています。受け取って、次へ進んでください」


 由実は頬が熱くなった。


 自分だけではなかったようだが、完全に聴き入っていた。


 千秋が振り返る。


「私のソロで終わる曲じゃないからね」


 少しだけ笑って言った。


「はい」


 由実は楽器を持ち直した。


 もう一度、冒頭から。


 千秋の音が始まる。


 今度は、ただ聴き入らない。


 音がどこへ向かっているのかを聴く。


 自分が入る場所を待つ。


 千秋の最後の音が、全体へ渡される。


 由実は息を入れた。


 まだ音程は安定しない。


 音色も、千秋のようにはならない。


 それでも、さっきより遅れずに入ることができた。


 合奏が終わる頃には、外の空が少し赤くなっていた。


 由実は楽器を片づけ、記録帳を開いた。


 今日の日付を書く。


 その下へ、午前中のことを一つずつ並べた。


 音を出した直後に音程が高くなる。


 長く伸ばすと息が足りなくなる。


 真琴は指摘されたあと、すぐ直せていた。


 マーチは簡単ではない。


 少し間を空けて、午後のことを書く。


 千秋先輩の最初の音で、部屋の空気が変わった。


 そこで鉛筆が止まった。


 今日できなかったことを書くための記録帳だった。


 いつからか、できたことも書くようになった。


 けれど、なりたいものを書くのは初めてかもしれない。


 由実は、少し迷ってから続きを書いた。


 いつか、あんなふうに吹けるようになりたい。


 文字にすると、急に大きなことを書いたようで恥ずかしくなった。


 消そうかと思った。


 けれど、鉛筆は動かなかった。


 去年、先輩たちは金賞を取った。


 それでも、県大会には届かなかった。


 最後まで吹くこと。


 金賞を取ること。


 そのどちらにも、さらに先がある。


 由実は記録帳を閉じた。


 地区大会は、思っていたよりずっと高い。


 だからこそ、そこへ届く音を吹きたいと思った。

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