第19話 審査される音
夏休みに入って最初の朝、音楽室の空気は、いつもより少し重かった。
窓には日差しを遮るカーテンが引かれ、冷房も入っている。それでも、三十人近い部員が楽器を組み立て、音を出し始めると、部屋にはすぐ熱がこもった。
由実は椅子へ座り、赤いテナーを膝の上へ置いた。
譜面台には、二冊の楽譜が並んでいる。
第三課題曲、行進曲『青空へ続く道』。
自由曲、『元禄』。
地域演奏を終えたあとから、少しずつ練習してきた曲だった。
けれど今日からは、練習の意味が変わる。
「地区大会まで、あと三週間です」
音楽室の前に立った高瀬美緒が、部員たちを見渡した。
「地域演奏とコンクールは、同じ本番でも目的が違います」
部屋のざわめきが止まる。
「地域演奏は、聴いてくださる方に楽しんでもらうことが大切でした。もちろん、コンクールでも音楽を届けることは変わりません。ただし、今回は審査されます」
由実は、楽譜の端を指で押さえた。
審査。
その言葉だけで、譜面台に置かれた二曲が、少し違って見える。
「去年、私たちは地区大会で金賞を取りました」
何人かの三年生が、わずかに表情を固くした。
「でも、県大会の代表には選ばれませんでした」
由実は顔を上げた。
金賞なら、喜んで終わるものだと思っていた。
けれど、金賞を取っても、その先へ進めないことがある。
「賞の色だけではなく、代表に選ばれるかどうかも含めて結果が出ます。今年は、去年届かなかった場所を目指します」
高瀬は指揮台の上へ楽譜を置いた。
「音程、リズム、音の立ち上がり、音の長さ、音色、強弱、全体のまとまり。それから、曲としてどう表現しているか。細かいところまで聴かれます」
そして、部員たちをもう一度見渡した。
「最後まで吹ければいい、ではありません」
由実の指が止まった。
商業施設での演奏が、頭へ浮かぶ。
入りを間違えた。
一度、曲の中で自分の居場所を見失った。
それでも香苗の呼吸や、真琴と莉央の音を頼りに、最後まで戻ることができた。
あの日から、由実は少しだけ、自分にも本番を乗り越えられると思っていた。
失敗しても、戻ればいい。
けれど、コンクールでは、その失敗そのものを減らさなければならない。
「まず、課題曲からいきます」
高瀬が指揮棒を構えた。
「冒頭、四小節」
由実は背筋を伸ばし、マウスピースを口へ運んだ。
行進曲『青空へ続く道』は、明るい曲だった。
軽やかな旋律が続き、聴いているだけなら、自然に足を踏み出したくなる。
自由曲の『元禄』に比べれば、楽譜もすっきりしている。
由実も最初に譜面を渡されたときは、こちらの方が吹きやすそうだと思っていた。
高瀬の腕が下りる。
音が始まった。
二小節目で、指揮棒が止まる。
「もう一度」
由実は楽器を下ろした。
「出だしがそろっていません。低音は少し遅れています。木管は八分音符が短すぎます」
もう一度。
今度は三小節目で止まった。
「アクセントが強すぎます。音を叩かないでください」
もう一度。
「テナー、音程が高いです」
由実は一瞬、自分のことだと分からなかった。
「橋本さん。出した直後が上ずっています」
「はい」
返事をしながら、由実は首を傾げた。
音は間違えていない。
指も合っていた。
休符にも入っていない。
楽譜に書かれた音を、書かれた長さだけ吹いたつもりだった。
「もう一度、冒頭から」
合奏が始まる。
由実はさっきより慎重に息を入れた。
けれど今度は、周りより音の入りが遅れた。
すぐに指揮が止まる。
「慎重になると遅れます。音程を気にして、息の出る瞬間がずれています」
「すみません」
「謝らなくていいです。次で変えてください」
高瀬の声は厳しかったが、責める調子ではなかった。
由実は息を吸い直す。
隣では、香苗が楽譜へ目を落としていた。
何も言わない。
助けるように音を大きくすることもない。
ただ、次の開始を待っている。
もう一度。
今度は音の入りだけを意識した。
すると、伸ばしている途中で息が細くなった。
「止めます」
高瀬の指揮棒が下りる。
「今度は、音の後ろが落ちています」
由実は、思わず譜面を見つめた。
たった一つの音だった。
同じ高さで、同じ長さだけ伸ばす。
それだけのはずなのに、音の最初と最後が同じ形にならない。
周囲と重なったとき、自分の音だけが少し上へ浮かび、途中から沈んでいく。
簡単だと思っていたマーチの冒頭が、終わりの見えない基礎練習のように感じられた。
「一度、チューナーを出しましょう」
高瀬の指示で、部員たちが譜面台へ小さな機械を置いていく。
由実もケースのポケットからチューナーを取り出した。
「ロングトーン。自分の音がどう動いているか、見てください」
由実はテナーを構える。
息を入れた瞬間、針が中央より右へ動いた。
高い。
少し息を緩めると、針は中央へ近づく。
けれど、そのまま伸ばしていると、今度は左へ傾いた。
低い。
「動いてる……」
由実の口から、小さく声が漏れた。
「最初、噛みすぎてる」
隣から香苗が言った。
「音が出たあと安心して、息が抜けてる」
「自分では、ずっと同じように吹いてるつもりでした」
「つもりと、実際に出てる音は違うからな」
香苗は自分のチューナーを譜面台へ置いたまま、短くロングトーンを吹いた。
針はわずかに揺れたものの、ほとんど中央から動かない。
「動かない……」
「動いてるよ。完全に止めるのは無理」
香苗は楽器を下ろした。
「でも、どっちへ動いたか分かれば直せる」
由実はもう一度吹いた。
音の最初で噛みすぎない。
途中で息を抜かない。
頭では分かっているのに、針はまた右へ振れ、そのあと左へ落ちた。
向かい側では、真琴も同じ音を確認していた。
一度吹く。
チューナーを見る。
口元をわずかに直す。
二度目。
針の揺れが、さっきより小さくなった。
三度目には、ほとんど中央で安定している。
由実は自分の針へ目を戻した。
もう一度吹く。
やはり、最初に高くなる。
真琴はできた。
自分はまだできない。
地域演奏では、二人の音を互いに頼った。
同じ曲を作る同期になれたと思った。
それでも、中学から積み重ねてきた真琴の基礎が消えたわけではない。
由実が数か月で覚えたことを、真琴は何年も繰り返してきた。
「由実」
真琴がこちらを見た。
「最初、息を強く入れすぎてない?」
「強く?」
「音が出るか不安なとき、最初だけ押す感じになるでしょ。私も一年のとき、よく言われた」
「真琴も?」
「うん。今もたまにやるよ」
真琴はそう言って、もう一度楽器を構えた。
由実も息を吸う。
音を押し出さない。
それでも、音が出ることを信じる。
針は一度だけ右へ揺れた。
さっきより、小さい。
「今の方がいい」
香苗が言った。
「はい」
できたわけではない。
それでも、何が違うのか少しだけ分かった。
◇
午後になると、譜面台の上には自由曲『元禄』が置かれた。
午前中のマーチとは、空気が違う。
冒頭から独特の緊張があり、静かな部分にも、次の音へ向かう力がある。
「今日は最初から、流れを確認します」
高瀬が全体を見渡した。
「千秋、冒頭お願いします」
「はい」
千秋は椅子へ座ったまま、楽器を持ち上げた。
いつも通りの姿勢だった。
大きく息を吸う様子を見せることもない。
それでも、千秋がマウスピースへ口を添えた瞬間、音楽室の空気が静まった。
高瀬が小さく腕を上げる。
千秋が息を入れた。
最初の音が鳴る。
強く押し出された音ではなかった。
耳を塞ぎたくなるほど大きくもない。
それなのに、音楽室の一番奥まで迷いなく届いた。
静かさの中に張りがある。
一つの音が終わる前から、次の音へ向かう道が見えるようだった。
千秋の音に引かれ、部屋全体の呼吸が変わる。
由実は、テナーを構えたまま動けなくなりそうになった。
同じサックスだった。
息を入れ、音を出す。
それだけなら、由実がしていることと変わらないはずだった。
けれど、千秋の一音はまるで違う。
ただ鳴っているのではない。
その音が、曲の始まりそのものになっている。
由実は以前、千秋に言われた言葉を思い出した。
『大きい音を出すことと、届く音を出すことは違う』
あのときは、頭で分かったつもりになっていた。
音量を上げすぎない。
周りを押しのけない。
そういう意味だと思っていた。
けれど今、千秋が音だけで示したものは、もっと違っていた。
大きくなくても、耳が向く。
押し出さなくても、こちらまで届く。
聴く側が、自然にその先を待ちたくなる。
千秋のソロが終わり、全体の音が重なった。
由実も遅れて息を入れる。
「止めます」
すぐに指揮が止まった。
「冒頭のあと、全体が遅れています」
高瀬が楽譜を指で示す。
「千秋の音を聴きすぎています。受け取って、次へ進んでください」
由実は頬が熱くなった。
自分だけではなかったようだが、完全に聴き入っていた。
千秋が振り返る。
「私のソロで終わる曲じゃないからね」
少しだけ笑って言った。
「はい」
由実は楽器を持ち直した。
もう一度、冒頭から。
千秋の音が始まる。
今度は、ただ聴き入らない。
音がどこへ向かっているのかを聴く。
自分が入る場所を待つ。
千秋の最後の音が、全体へ渡される。
由実は息を入れた。
まだ音程は安定しない。
音色も、千秋のようにはならない。
それでも、さっきより遅れずに入ることができた。
合奏が終わる頃には、外の空が少し赤くなっていた。
由実は楽器を片づけ、記録帳を開いた。
今日の日付を書く。
その下へ、午前中のことを一つずつ並べた。
音を出した直後に音程が高くなる。
長く伸ばすと息が足りなくなる。
真琴は指摘されたあと、すぐ直せていた。
マーチは簡単ではない。
少し間を空けて、午後のことを書く。
千秋先輩の最初の音で、部屋の空気が変わった。
そこで鉛筆が止まった。
今日できなかったことを書くための記録帳だった。
いつからか、できたことも書くようになった。
けれど、なりたいものを書くのは初めてかもしれない。
由実は、少し迷ってから続きを書いた。
いつか、あんなふうに吹けるようになりたい。
文字にすると、急に大きなことを書いたようで恥ずかしくなった。
消そうかと思った。
けれど、鉛筆は動かなかった。
去年、先輩たちは金賞を取った。
それでも、県大会には届かなかった。
最後まで吹くこと。
金賞を取ること。
そのどちらにも、さらに先がある。
由実は記録帳を閉じた。
地区大会は、思っていたよりずっと高い。
だからこそ、そこへ届く音を吹きたいと思った。




