第20話 私たちの曲
「もっと難しい曲でも、よかったんじゃないかな」
休憩に入った音楽室で、その声は思ったよりはっきり聞こえた。
由実はペットボトルの蓋を開ける手を止めた。
少し離れたところで、金管の部員たちが一台のスマートフォンを囲んでいる。画面には、昨年のコンクールで強豪校が演奏した映像が流れていた。
速い。
木管の指が、目で追えないほど細かく動いている。
金管は高い音を迷いなく鳴らし、打楽器が激しく曲を押し進めていた。
「こういうの、コンクールって感じするよね」
「分かる。せっかく出るなら、一回くらいやってみたかった」
「うちの自由曲、悪くはないけどさ」
そこで声が少し小さくなる。
「『元禄』って、わりと安全な選曲じゃない?」
由実は譜面台の上に置かれた自由曲の楽譜を見た。
決して簡単ではない。
音の数も多いし、場面ごとに雰囲気が大きく変わる。華やかに押し出すところもあれば、音量を落とし、周囲の響きへ溶け込まなければならないところもある。
それでも、画面の中で演奏されている曲と比べると、確かに派手さは少ないように見えた。
「課題曲も、マーチだしね」
別の部員が言った。
「どこの学校が吹いても、同じように聞こえそう」
由実は『青空へ続く道』の楽譜へ目を移した。
午前中も、冒頭の八小節だけで何度止められただろう。
音の入り。
音の長さ。
アクセント。
テンポ。
どれも楽譜どおりに吹いているつもりなのに、全員で合わせると少しずつずれる。
簡単だとは、とても思えなかった。
けれど、強豪校が難しい曲を吹いている映像を見ると、不安になる。
音符が多い方が、技術が高く見える。
速い曲を演奏できる方が、審査員にも評価されるのではないか。
前年、聖フェリス学園は地区大会で金賞を取った。
それでも、県大会の代表には選ばれなかった。
今年も同じ結果になるのではないか。
もっと難しい曲へ挑まなければ、その先へは進めないのではないか。
「聞こえてるよ」
いつの間にか、千秋がすぐそばに立っていた。
スマートフォンを囲んでいた部員たちが、気まずそうに顔を上げる。
「すみません」
「謝ることじゃないよ。そう思うのも分かるから」
千秋はスマートフォンを取り上げるでもなく、画面を横からのぞいた。
演奏はちょうど、速い木管のパッセージへ入っていた。
「難しい曲に挑戦するのは、悪いことじゃない。できるようになれば、身につくことも多いしね」
責めるような声ではなかった。
部員たちの肩から、わずかに力が抜ける。
「でも、難しい譜面を選べば、それだけで難しい演奏になるわけじゃないよ」
「どういうことですか?」
誰かが尋ねた。
千秋は音楽室の前へ戻り、譜面台に置かれた『青空へ続く道』を持ち上げた。
「休憩、あと少しあるけど。試してみようか」
部員たちは顔を見合わせながら、それぞれの席へ戻っていく。
由実もペットボトルを置き、赤いテナーを持ち上げた。
「冒頭から八小節。高瀬先生には悪いけど、ちょっと借ります」
千秋が指揮台の前へ立つ。
高瀬は少し離れた場所で楽譜へ書き込みをしていたが、何も言わずに場所を譲った。
「いつもどおり吹いて」
千秋が手を上げる。
由実は息を吸った。
合図とともに、マーチが始まる。
明るい旋律。
一定のテンポ。
それぞれの部員が、楽譜に書かれた音を吹く。
八小節を終えたところで、千秋が手を下ろした。
「今の、どうだった?」
誰もすぐには答えなかった。
「……少し重かったです」
真琴が言った。
「低音が?」
「全体がです。前に進みにくい感じがしました」
「うん。他には?」
「木管がちょっと急いでた気がします」
「金管の音が長かったかも」
言われてみれば、由実にもそう聞こえた。
低音は一歩ずつ強く踏みしめるように鳴っていた。
その上で木管の旋律が、少しだけ前へ走っている。
同じテンポで吹いているはずなのに、歩幅が違っていた。
「じゃあ、次は隣の音を聞いて」
千秋はパートごとに視線を向ける。
「フルートはクラリネットの音の始まり。クラリネットはアルト。アルトはその隣。それからテナーは、アルトと低音の両方」
由実は左右を見た。
上には香苗と真琴のアルト。
下には莉央のバリトンサックスや、さらに低い音を担当する楽器がある。
「低音は指揮だけじゃなくて、上の旋律がどれくらいの歩幅で進んでるか聞いて。全員、自分だけでマーチを吹かない」
千秋が再び手を上げた。
由実は香苗の肩が動くのを見た。
莉央が息を吸う気配も聞こえる。
自分も同じ瞬間に吸う。
音が始まった。
先ほどと同じ楽譜だった。
同じテンポ。
同じ八小節。
それなのに、響きが違う。
低音が重さを保ちながら前へ進み、その上へ木管の旋律が乗っている。
音がばらばらに並ぶのではなく、一つの方向へ流れていく。
演奏を終えると、音楽室に短い沈黙が残った。
「今の方が、マーチっぽい」
誰かが小さく言った。
「同じ音符なのに……」
由実も思わずつぶやいた。
千秋がこちらを見る。
「簡単そうに聞こえる曲を、簡単に聞こえないところまで作るのも、難しいんだよ」
楽譜に書かれている音を吹くだけでは、曲にならない。
全員が同じ方向へ歩かなければ、行進曲にはならない。
「この曲は、できてないところが隠れにくい。音の入りも、長さも、音色も、全部そのまま聞こえるから」
千秋は楽譜を譜面台へ戻した。
「『元禄』だって、今の私たちには十分難しいよ。速い音符の数だけで曲を選んだわけじゃない」
部員たちは黙って聞いている。
「今の人数とパート構成で、一番いい演奏を作れる曲を選んだ。難しい曲を吹いて、最後までたどり着くのが目的じゃないから」
「じゃあ、もっと上手い部だったら、違う曲を選んでたんですか?」
先ほど不満を口にしていた部員が尋ねた。
「たぶんね」
千秋はあっさり答えた。
「その年の部員で、できることは変わるから。でも、今の私たちが『元禄』を選んだことは、逃げたって意味じゃないよ」
言葉を飾らず、できることとできないことの両方を認めている。
由実は、千秋が曲を好きだから守ろうとしているのではないと分かった。
去年の結果も、今の部員全員の力も見たうえで、この二曲を選んでいる。
「去年、金賞を取っても代表には届かなかった」
千秋は、譜面台に置かれた二曲へ視線を落とした。
「だからって、今年は難しい曲を選べば届く、ってほど単純じゃないよ。去年よりいい演奏を作るしかない」
音楽室が静かになる。
前年の大会を経験していない由実にも、その言葉の重さは分かった。
金賞を取った。
それでも、足りなかった。
千秋たちは、その悔しさを知ったうえで、もう一度同じ場所へ向かっている。
「休憩、終わりにしましょう」
高瀬が前へ出た。
「今の感覚を忘れないうちに、課題曲をもう一度」
今度の合奏では、冒頭だけで終わらなかった。
途中で何度か止められたものの、午前中より先まで曲が進んだ。
由実は自分の音だけを確認しようとせず、香苗と真琴の音の始まりを聞いた。
低音がどこへ進もうとしているのかも意識する。
全部を聞こうとすると、自分の指がおろそかになりそうになる。
それでも、さっきまでより、自分が曲の中にいる場所が分かる気がした。
◇
午後は『元禄』の練習から始まった。
「冒頭、サックスだけ確認します」
高瀬の指示で、他の部員たちが楽器を下ろす。
千秋は椅子へ座ったまま、アルトサックスを構えた。
由実も楽器を膝へ置き、ソロへ耳を向ける。
一度目。
千秋の音は強く、迷いなく前へ出た。
曲の幕を一気に開くような音だった。
「少し強すぎるかもしれない」
高瀬が言う。
「このあと、全体が入ったときの幅がなくなります」
「はい」
千秋は譜面へ短く書き込む。
二度目。
今度は音量が少し抑えられた。
静かになったわけではない。
音の芯は残したまま、先ほどより余白がある。
「もう少し先を見せてください。ソロだけで完結しないように」
「分かりました」
三度目。
同じ音符だった。
それでも、最初の二回とは違った。
最後の音がわずかに先へ向かい、そのあとに全員の音が続く場所を開けている。
高瀬の手が動く。
全体が入る。
由実も息を吹き込んだ。
ソロの続きへ、音楽が自然につながった。
(同じ楽譜なのに)
千秋は、覚えた正解を繰り返しているのではなかった。
自分の音だけを美しくするのでもない。
そのあとに入る全員の音を考えて、吹き方を変えている。
「サックス、もう一度」
今度は冒頭から少し先まで確認する。
千秋のソロが終わり、アルトとテナーが重なる。
由実は香苗の音を聞こうとした。
香苗が吹いたのを確かめてから、自分も入る。
「テナー、遅い」
高瀬の指揮が止まった。
「すみません」
「橋本さん。聞くことと、待つことは違います」
由実は楽譜へ目を落とした。
相手の音を聞こうとすると、その音が聞こえてから吹こうとしてしまう。
ほんの少し。
けれど、全体の中ではその少しがはっきり分かる。
「低音だけ、少し借りてもいいですか?」
莉央が言った。
高瀬がうなずく。
サックスと木管低音だけが残り、ほかの部員たちは休憩に入った。
莉央はバリトンサックスを構え、由実を見た。
「由実。香苗先輩が吹いたのを聞いてから入ってるでしょ」
「はい。合わせようと思って」
「それだと遅れるよ」
「でも、聞かないと、そろわなくないですか?」
「聞く。でも、あとからついていかない」
由実は首を傾げた。
莉央は自分の楽器を指で軽く叩く。
「ついていくんじゃなくて、一緒に始める」
香苗がマウスピースを口へ運ぶ。
「相手が息を吸うところを見る。指揮を見る。自分でも同じタイミングで準備する。音が聞こえてから始めたら、遅い」
「支える音でも、自分から入るってことですか?」
「そう。支えるからって、後ろから追いかけるわけじゃない」
由実はテナーを構え直した。
香苗を見る。
視線は楽譜へ向いている。
けれど、肩がわずかに上がる。
息を吸った。
由実も同時に吸う。
高瀬の合図。
二人の音が始まった。
完全にそろったわけではない。
由実の音は、まだ少し硬い。
それでも、さっきのような遅れはなかった。
「今の」
莉央がうなずく。
「聞いてからじゃなくて、一緒に始められてた」
「はい」
もう一度。
香苗の呼吸を見る。
低音の気配も聞く。
自分の息で、最初の一歩を踏み出す。
二度目は、さらに近づいた。
「テナー、今の入りはよかったです」
高瀬の言葉に、由実は小さく息を吐いた。
千秋のように、一つの音で部屋全体を変えることはできない。
ソロの吹き方を変え、次に入る全員を導くことも、今の自分には難しい。
けれど、誰かの音が始まる場所へ、自分の音を同時に置くことならできるかもしれない。
旋律の後ろへ隠れるのではなく、隣で支える。
そのためには、相手が始めるのを待ってはいけない。
自分も一緒に息を吸わなければならない。
練習を終えた由実は、譜面台に残る二曲の楽譜を見た。
朝までは、もっと難しい曲を選んだ学校の方が、すごい演奏をするのだと思っていた。
今も、速い音符や高い音を吹けることはすごいと思う。
けれど、自分たちの曲が簡単なわけではない。
『青空へ続く道』では、全員の歩幅をそろえる。
『元禄』では、一人の音から受け取った流れを、次の人へ渡していく。
どちらも、一人だけ上手くても完成しない。
去年の金賞を超えるために必要なのは、難しそうに見える曲ではない。
今の部員全員で、この二曲をどこまで音楽にできるか。
由実は二冊の楽譜を重ね、鞄へ入れた。
千秋のような音を吹けるようになりたい。
その憧れは変わらない。
けれど、今の自分がしなければならないことも、少し分かった。
誰かが安心して音を伸ばせる場所へ、自分の音を置く。
それが、今の由実にできる『私たちの曲』の作り方だった。




