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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 音を揃える夏

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第20話 私たちの曲

「もっと難しい曲でも、よかったんじゃないかな」


 休憩に入った音楽室で、その声は思ったよりはっきり聞こえた。


 由実はペットボトルの蓋を開ける手を止めた。


 少し離れたところで、金管の部員たちが一台のスマートフォンを囲んでいる。画面には、昨年のコンクールで強豪校が演奏した映像が流れていた。


 速い。


 木管の指が、目で追えないほど細かく動いている。


 金管は高い音を迷いなく鳴らし、打楽器が激しく曲を押し進めていた。


「こういうの、コンクールって感じするよね」


「分かる。せっかく出るなら、一回くらいやってみたかった」


「うちの自由曲、悪くはないけどさ」


 そこで声が少し小さくなる。


「『元禄』って、わりと安全な選曲じゃない?」


 由実は譜面台の上に置かれた自由曲の楽譜を見た。


 決して簡単ではない。


 音の数も多いし、場面ごとに雰囲気が大きく変わる。華やかに押し出すところもあれば、音量を落とし、周囲の響きへ溶け込まなければならないところもある。


 それでも、画面の中で演奏されている曲と比べると、確かに派手さは少ないように見えた。


「課題曲も、マーチだしね」


 別の部員が言った。


「どこの学校が吹いても、同じように聞こえそう」


 由実は『青空へ続く道』の楽譜へ目を移した。


 午前中も、冒頭の八小節だけで何度止められただろう。


 音の入り。


 音の長さ。


 アクセント。


 テンポ。


 どれも楽譜どおりに吹いているつもりなのに、全員で合わせると少しずつずれる。


 簡単だとは、とても思えなかった。


 けれど、強豪校が難しい曲を吹いている映像を見ると、不安になる。


 音符が多い方が、技術が高く見える。


 速い曲を演奏できる方が、審査員にも評価されるのではないか。


 前年、聖フェリス学園は地区大会で金賞を取った。


 それでも、県大会の代表には選ばれなかった。


 今年も同じ結果になるのではないか。


 もっと難しい曲へ挑まなければ、その先へは進めないのではないか。


「聞こえてるよ」


 いつの間にか、千秋がすぐそばに立っていた。


 スマートフォンを囲んでいた部員たちが、気まずそうに顔を上げる。


「すみません」


「謝ることじゃないよ。そう思うのも分かるから」


 千秋はスマートフォンを取り上げるでもなく、画面を横からのぞいた。


 演奏はちょうど、速い木管のパッセージへ入っていた。


「難しい曲に挑戦するのは、悪いことじゃない。できるようになれば、身につくことも多いしね」


 責めるような声ではなかった。


 部員たちの肩から、わずかに力が抜ける。


「でも、難しい譜面を選べば、それだけで難しい演奏になるわけじゃないよ」


「どういうことですか?」


 誰かが尋ねた。


 千秋は音楽室の前へ戻り、譜面台に置かれた『青空へ続く道』を持ち上げた。


「休憩、あと少しあるけど。試してみようか」


 部員たちは顔を見合わせながら、それぞれの席へ戻っていく。


 由実もペットボトルを置き、赤いテナーを持ち上げた。


「冒頭から八小節。高瀬先生には悪いけど、ちょっと借ります」


 千秋が指揮台の前へ立つ。


 高瀬は少し離れた場所で楽譜へ書き込みをしていたが、何も言わずに場所を譲った。


「いつもどおり吹いて」


 千秋が手を上げる。


 由実は息を吸った。


 合図とともに、マーチが始まる。


 明るい旋律。


 一定のテンポ。


 それぞれの部員が、楽譜に書かれた音を吹く。


 八小節を終えたところで、千秋が手を下ろした。


「今の、どうだった?」


 誰もすぐには答えなかった。


「……少し重かったです」


 真琴が言った。


「低音が?」


「全体がです。前に進みにくい感じがしました」


「うん。他には?」


「木管がちょっと急いでた気がします」


「金管の音が長かったかも」


 言われてみれば、由実にもそう聞こえた。


 低音は一歩ずつ強く踏みしめるように鳴っていた。


 その上で木管の旋律が、少しだけ前へ走っている。


 同じテンポで吹いているはずなのに、歩幅が違っていた。


「じゃあ、次は隣の音を聞いて」


 千秋はパートごとに視線を向ける。


「フルートはクラリネットの音の始まり。クラリネットはアルト。アルトはその隣。それからテナーは、アルトと低音の両方」


 由実は左右を見た。


 上には香苗と真琴のアルト。


 下には莉央のバリトンサックスや、さらに低い音を担当する楽器がある。


「低音は指揮だけじゃなくて、上の旋律がどれくらいの歩幅で進んでるか聞いて。全員、自分だけでマーチを吹かない」


 千秋が再び手を上げた。


 由実は香苗の肩が動くのを見た。


 莉央が息を吸う気配も聞こえる。


 自分も同じ瞬間に吸う。


 音が始まった。


 先ほどと同じ楽譜だった。


 同じテンポ。


 同じ八小節。


 それなのに、響きが違う。


 低音が重さを保ちながら前へ進み、その上へ木管の旋律が乗っている。


 音がばらばらに並ぶのではなく、一つの方向へ流れていく。


 演奏を終えると、音楽室に短い沈黙が残った。


「今の方が、マーチっぽい」


 誰かが小さく言った。


「同じ音符なのに……」


 由実も思わずつぶやいた。


 千秋がこちらを見る。


「簡単そうに聞こえる曲を、簡単に聞こえないところまで作るのも、難しいんだよ」


 楽譜に書かれている音を吹くだけでは、曲にならない。


 全員が同じ方向へ歩かなければ、行進曲にはならない。


「この曲は、できてないところが隠れにくい。音の入りも、長さも、音色も、全部そのまま聞こえるから」


 千秋は楽譜を譜面台へ戻した。


「『元禄』だって、今の私たちには十分難しいよ。速い音符の数だけで曲を選んだわけじゃない」


 部員たちは黙って聞いている。


「今の人数とパート構成で、一番いい演奏を作れる曲を選んだ。難しい曲を吹いて、最後までたどり着くのが目的じゃないから」


「じゃあ、もっと上手い部だったら、違う曲を選んでたんですか?」


 先ほど不満を口にしていた部員が尋ねた。


「たぶんね」


 千秋はあっさり答えた。


「その年の部員で、できることは変わるから。でも、今の私たちが『元禄』を選んだことは、逃げたって意味じゃないよ」


 言葉を飾らず、できることとできないことの両方を認めている。


 由実は、千秋が曲を好きだから守ろうとしているのではないと分かった。


 去年の結果も、今の部員全員の力も見たうえで、この二曲を選んでいる。


「去年、金賞を取っても代表には届かなかった」


 千秋は、譜面台に置かれた二曲へ視線を落とした。


「だからって、今年は難しい曲を選べば届く、ってほど単純じゃないよ。去年よりいい演奏を作るしかない」


 音楽室が静かになる。


 前年の大会を経験していない由実にも、その言葉の重さは分かった。


 金賞を取った。


 それでも、足りなかった。


 千秋たちは、その悔しさを知ったうえで、もう一度同じ場所へ向かっている。


「休憩、終わりにしましょう」


 高瀬が前へ出た。


「今の感覚を忘れないうちに、課題曲をもう一度」


 今度の合奏では、冒頭だけで終わらなかった。


 途中で何度か止められたものの、午前中より先まで曲が進んだ。


 由実は自分の音だけを確認しようとせず、香苗と真琴の音の始まりを聞いた。


 低音がどこへ進もうとしているのかも意識する。


 全部を聞こうとすると、自分の指がおろそかになりそうになる。


 それでも、さっきまでより、自分が曲の中にいる場所が分かる気がした。


 ◇


 午後は『元禄』の練習から始まった。


「冒頭、サックスだけ確認します」


 高瀬の指示で、他の部員たちが楽器を下ろす。


 千秋は椅子へ座ったまま、アルトサックスを構えた。


 由実も楽器を膝へ置き、ソロへ耳を向ける。


 一度目。


 千秋の音は強く、迷いなく前へ出た。


 曲の幕を一気に開くような音だった。


「少し強すぎるかもしれない」


 高瀬が言う。


「このあと、全体が入ったときの幅がなくなります」


「はい」


 千秋は譜面へ短く書き込む。


 二度目。


 今度は音量が少し抑えられた。


 静かになったわけではない。


 音の芯は残したまま、先ほどより余白がある。


「もう少し先を見せてください。ソロだけで完結しないように」


「分かりました」


 三度目。


 同じ音符だった。


 それでも、最初の二回とは違った。


 最後の音がわずかに先へ向かい、そのあとに全員の音が続く場所を開けている。


 高瀬の手が動く。


 全体が入る。


 由実も息を吹き込んだ。


 ソロの続きへ、音楽が自然につながった。


(同じ楽譜なのに)


 千秋は、覚えた正解を繰り返しているのではなかった。


 自分の音だけを美しくするのでもない。


 そのあとに入る全員の音を考えて、吹き方を変えている。


「サックス、もう一度」


 今度は冒頭から少し先まで確認する。


 千秋のソロが終わり、アルトとテナーが重なる。


 由実は香苗の音を聞こうとした。


 香苗が吹いたのを確かめてから、自分も入る。


「テナー、遅い」


 高瀬の指揮が止まった。


「すみません」


「橋本さん。聞くことと、待つことは違います」


 由実は楽譜へ目を落とした。


 相手の音を聞こうとすると、その音が聞こえてから吹こうとしてしまう。


 ほんの少し。


 けれど、全体の中ではその少しがはっきり分かる。


「低音だけ、少し借りてもいいですか?」


 莉央が言った。


 高瀬がうなずく。


 サックスと木管低音だけが残り、ほかの部員たちは休憩に入った。


 莉央はバリトンサックスを構え、由実を見た。


「由実。香苗先輩が吹いたのを聞いてから入ってるでしょ」


「はい。合わせようと思って」


「それだと遅れるよ」


「でも、聞かないと、そろわなくないですか?」


「聞く。でも、あとからついていかない」


 由実は首を傾げた。


 莉央は自分の楽器を指で軽く叩く。


「ついていくんじゃなくて、一緒に始める」


 香苗がマウスピースを口へ運ぶ。


「相手が息を吸うところを見る。指揮を見る。自分でも同じタイミングで準備する。音が聞こえてから始めたら、遅い」


「支える音でも、自分から入るってことですか?」


「そう。支えるからって、後ろから追いかけるわけじゃない」


 由実はテナーを構え直した。


 香苗を見る。


 視線は楽譜へ向いている。


 けれど、肩がわずかに上がる。


 息を吸った。


 由実も同時に吸う。


 高瀬の合図。


 二人の音が始まった。


 完全にそろったわけではない。


 由実の音は、まだ少し硬い。


 それでも、さっきのような遅れはなかった。


「今の」


 莉央がうなずく。


「聞いてからじゃなくて、一緒に始められてた」


「はい」


 もう一度。


 香苗の呼吸を見る。


 低音の気配も聞く。


 自分の息で、最初の一歩を踏み出す。


 二度目は、さらに近づいた。


「テナー、今の入りはよかったです」


 高瀬の言葉に、由実は小さく息を吐いた。


 千秋のように、一つの音で部屋全体を変えることはできない。


 ソロの吹き方を変え、次に入る全員を導くことも、今の自分には難しい。


 けれど、誰かの音が始まる場所へ、自分の音を同時に置くことならできるかもしれない。


 旋律の後ろへ隠れるのではなく、隣で支える。


 そのためには、相手が始めるのを待ってはいけない。


 自分も一緒に息を吸わなければならない。


 練習を終えた由実は、譜面台に残る二曲の楽譜を見た。


 朝までは、もっと難しい曲を選んだ学校の方が、すごい演奏をするのだと思っていた。


 今も、速い音符や高い音を吹けることはすごいと思う。


 けれど、自分たちの曲が簡単なわけではない。


 『青空へ続く道』では、全員の歩幅をそろえる。


 『元禄』では、一人の音から受け取った流れを、次の人へ渡していく。


 どちらも、一人だけ上手くても完成しない。


 去年の金賞を超えるために必要なのは、難しそうに見える曲ではない。


 今の部員全員で、この二曲をどこまで音楽にできるか。


 由実は二冊の楽譜を重ね、鞄へ入れた。


 千秋のような音を吹けるようになりたい。


 その憧れは変わらない。


 けれど、今の自分がしなければならないことも、少し分かった。


 誰かが安心して音を伸ばせる場所へ、自分の音を置く。


 それが、今の由実にできる『私たちの曲』の作り方だった。

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