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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 音を揃える夏

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第21話 休むのも練習

「もう一回、お願いします」


 由実がそう言ったのは、その日だけで何度目だっただろう。


 音楽室の隅では、課題曲『青空へ続く道』の一部分を使ったパート練習が続いていた。


 アルトサックスの香苗と真琴。


 テナーの由実。


 バリトンサックスの莉央。


 そこへ木管低音の部員も加わり、同じ四小節を何度も繰り返している。


 午前中には、もう少しそろっていた。


 音の入りも、長さも、昨日よりよくなったと思えた。


 けれど午後になると、少しずつ何かが崩れ始めていた。


 由実はテナーを構える。


 香苗の肩が動く。


 莉央が息を吸う。


 由実も同じタイミングで息を入れた。


 音が始まる。


 最初はそろった。


 しかし、二小節目で由実の音だけが上ずる。


 次の低音は、うまく鳴らなかった。


 息の音が混じり、最後には甲高いリードミスが音楽室へ響いた。


 由実は楽器を下ろした。


「すみません。もう一回お願いします」


「由実、少し休め」


 香苗が言った。


「大丈夫です。次はできます」


「さっきも言ってたぞ」


「でも、今のまま終わったら、できないままなので」


 由実は再びマウスピースを口へ運んだ。


 次こそは。


 今度こそ。


 音の入りをそろえる。


 息を固くしない。


 低音を無理に押し出さない。


 頭の中で何度も確認する。


 ところが、意識すればするほど肩へ力が入った。


 タンギングが強くなり、音の最初が硬くなる。


 自由曲『元禄』の和音でも、旋律を支えようとするほど息が細くなり、自分の音がどこにあるのか分からなくなった。


「もう一回だけ」


 由実が言う。


 香苗は返事をしなかった。


 高瀬の合図で、四人が息を吸う。


 由実は音を外した。


 一度だけではない。


 次の音でもリードが鳴り、午前中には出ていた低音までかすれた。


 指揮が止まる。


「橋本さん、一度楽器を置きましょう」


 高瀬の声は穏やかだった。


「でも」


「今の状態で続けても、よくはなりません」


 由実はマウスピースを口から離した。


 悔しさが喉の奥へ残る。


 練習しているのに、朝より下手になっている。


 吹けば吹くほど、できていたことまで遠ざかっていく。


「貸せ」


 香苗が由実の譜面台から楽譜を外した。


「先輩?」


「休憩」


「まだ吹けます」


「吹けるかどうかじゃない。今は休む」


 有無を言わせない口調だった。


 由実はしぶしぶテナーをスタンドへ置く。


 香苗は由実へペットボトルを渡した。


「飲め」


「はい」


「肩も回す」


 由実が両肩を動かすと、首の付け根に鈍い痛みが走った。


 自分でも気付かないうちに、ずっと力が入っていたらしい。


「口、疲れてるだろ」


「少しだけです」


「少しじゃない。噛みすぎてる」


 香苗は由実の顔をのぞき込んだ。


 口元を確認するだけの距離だと分かっていても、由実は反射的に背筋を伸ばす。


「肩も上がってる。息も浅い。集中も切れてる」


「でも、練習しないと」


「疲れた状態で変な吹き方を繰り返したら、それも身体が覚えるぞ」


 由実は言葉に詰まった。


 覚える。


 その言葉が、妙に重く聞こえた。


 たくさん練習すれば、その分だけ上手くなると思っていた。


 けれど、悪い吹き方も同じように残るのだとしたら、続けることがいつも正しいとは限らない。


「真琴に追いつきたいんだろ」


 香苗が言った。


 由実はペットボトルを握ったまま、うつむいた。


「……はい」


「千秋先輩みたいにも、吹けるようになりたい」


「はい」


「それは別に悪くない」


 香苗は由実の隣へ座った。


 少し離れた場所では、真琴たちが別の部分を確認している。


「でも、真琴は中学から吹いてる。千秋先輩だって、高校に入ってから三年近く積み重ねてきた」


 由実は黙って聞いた。


「その時間を、数日で追い越すのは無理だ」


「分かってます」


「頭ではな」


 香苗は由実のペットボトルを指で軽く叩いた。


「千秋先輩みたいになりたいと思うのはいい。でも、同じ一日で同じ場所まで行こうとするな」


 由実は顔を上げた。


「昨日の自分より少しよくなる。それで十分だよ」


「でも、地区大会まで時間がありません」


「だからって、一日で三年分吹くのか?」


「それは……」


「無理だろ」


 香苗はあっさり言った。


 慰めるような言い方ではない。


 できないことを、できないまま言葉にしている。


「今日できたことを、明日もできるようにする。明日できたことを、本番でもできるようにする。その積み重ねしかない」


 由実は視線を落とした。


 休んでいるあいだにも、真琴たちは吹いている。


 その音が聞こえるたび、置いていかれるような気がした。


 けれど今の自分が混ざれば、また音を崩すだけかもしれない。


「五分だけ休め」


 香苗が言う。


「五分でいいんですか?」


「ちゃんと休めるなら」


 由実は時計を見た。


 たった五分。


 それでも、何もしないで座っていると、思ったより長く感じた。


 水を飲む。


 肩を回す。


 首をゆっくり倒す。


 口元の力を抜く。


 音を出さない時間の中で、音楽室の響きがいつもよりよく聞こえた。


 真琴のアルト。


 莉央の低音。


 遠くで鳴るクラリネット。


 今までは、自分が吹くことばかり考えていた。


 休んでいるからこそ、周囲の音がどこへ向かっているのか少し分かる。


「そろそろいいぞ」


 香苗が言った。


 由実は立ち上がり、赤いテナーを構えた。


 先ほどまでの重さが完全に消えたわけではない。


 それでも、首と肩は少し軽くなっている。


「低音、一つだけ確認しよう」


 香苗が言う。


 由実は息を吸った。


 無理に押し出さない。


 出るまで待つのでもない。


 息をまっすぐ通す。


 低い音が鳴った。


 わずかに揺れたが、先ほどのようにはかすれない。


「戻った」


 由実は思わずつぶやいた。


「完全じゃないけどな」


 香苗はそう言いながら、少しだけ笑った。


「休んだ時間も、無駄じゃなかっただろ」


 由実はもう一度、同じ音を吹いた。


 今度も鳴る。


 休んでいた五分間は、練習を失った時間ではなかった。


 音を戻すために必要な時間だった。


 ◇


 練習が終わる頃には、空はまだ明るかった。


 夏の日は長い。


 校門を出ても、道路には昼間の熱が残っている。


「先輩、今日の課題曲なんですけど」


 由実は赤いテナーのケースを持ちながら、香苗の隣を歩いた。


「四小節目の音が、まだ少し高くて。それから『元禄』の和音も、もっと息を――」


「由実」


「はい」


「コンビニ寄るぞ」


 話を途中で切られ、由実は瞬きをした。


「飲み物、もうないだろ」


 確かに、ペットボトルは空になっていた。


 二人は学校近くのコンビニへ入った。


 冷房の風が、火照った頬へ当たる。


 由実は飲料棚の前に立ちながら、先ほどの続きを話し始めた。


「それで、低音に合わせようとすると、今度は音が重くなって――」


「今は飲め。反省は明日でも逃げない」


 香苗が冷蔵棚からスポーツドリンクを一本取り、由実へ渡した。


「でも、忘れたら」


「記録帳に書けばいい」


「まだ整理できてません」


「飲んでから整理しろ」


 由実はしぶしぶ蓋を開けた。


 一口飲む。


 冷たい液体が喉を通った瞬間、自分が思っていた以上に渇いていたことへ気付いた。


「おいしい……」


「だろ」


 香苗は自分の飲み物を選び、財布を出した。


 その拍子に、肩へ掛けていた鞄の口が少し開く。


 中から厚い問題集がのぞいた。


 その隣には、何校かの大学名が印刷された冊子も入っている。


「先輩、それ」


 由実が指差すと、香苗は鞄の中を見た。


「ああ、これ?」


「大学案内ですか?」


「一応な」


「もう考えてるんですか?」


「もうって、二年だぞ」


 香苗は何でもないように言い、鞄の口を閉じた。


「練習の合間に読んでたのも、それですか?」


「英単語帳」


「小説だと思ってました」


「そんな余裕あるように見えた?」


「少しだけ」


「ないよ」


 香苗は笑った。


 由実は、朝の練習が始まる前、香苗が一人で本を開いていた姿を思い出した。


 電車で移動するときも、ときどき鞄から小さな本を出していた。


 由実は、それを深く考えたことがなかった。


 香苗はいつも部室にいる。


 由実が早く来ても、遅くまで残っても、近くにいることが多かった。


 けれど、その時間の隙間で、別のことも積み重ねていたのだ。


「部活と勉強、両方やるのって大変じゃないですか?」


 香苗は飲み物を持ったまま、ほんの一瞬だけ黙った。


「まあ、大変ではある」


「毎日、こんなに練習もあるのに」


「だから、少しずつやってるんだよ」


「先輩も、休んでないじゃないですか」


「休んでる」


「いつですか?」


「由実が吹いてる間」


「それ、休みじゃないです」


 由実が言うと、香苗は声を立てて笑った。


「言うようになったな」


「先輩が休めって言ったんです」


「私は変な吹き方してないから」


「そういう問題ですか?」


「そういう問題」


 香苗はレジへ向かいかけ、少しだけ足を止めた。


「まだ別に、辞めるとかじゃないから」


「え?」


「部活と勉強、両方大変って顔してるから」


 香苗は由実を見ず、棚へ視線を向けたまま言った。


「今は両方やるよ。できる範囲で」


「そうですよね」


 由実はすぐにうなずいた。


 香苗が部活を辞める姿など、想像したこともなかった。


 吹奏楽部に来れば、香苗がいる。


 テナーを吹けば、隣からアルトの音が聞こえる。


 それは、春からずっと変わらないことのように思えていた。


「ほら、会計するぞ」


「はい」


 由実は香苗のあとを追った。


 ◇


 帰宅後、由実は机へ記録帳を開いた。


 今日できなかったことは、いくつもある。


 午後になると低音が出にくくなった。


 タンギングが強くなった。


 噛みすぎて音程が上がった。


 けれど、それだけを書いて終わる気にはならなかった。


 由実は少し考えてから、鉛筆を動かした。


 午前中は、音の入りがそろった。


 休んだあと、低音が戻った。


 疲れた状態で続けない。


 そこまで書いて、手を止める。


 千秋の音。


 真琴の基礎。


 香苗の言葉。


 同じ一日で、同じ場所まで行こうとするな。


 由実は最後に、もう一行付け加えた。


 千秋先輩と同じ時間を、今日一日で埋めようとしない。


 記録帳を閉じる。


 休むことは、止まることではない。


 明日も同じ音を出すために、今日の音を身体へ残すことなのだ。


 由実は机の脇に置いたテナーのケースを見た。


 明日は、今日より少しだけいい音を出せばいい。


 そのくらいの歩幅なら、自分にも進める気がした。

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