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赤いテナーと、先輩のとなり――聖フェリス学園吹奏楽部日誌  作者: Atelier Lotus文庫
第五章 音を揃える夏

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第22話 暗い舞台袖

 地区大会の朝、由実は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 まだ外は薄暗い。


 眠ったはずなのに、身体の奥に緊張が残っている。


 制服へ着替え、何度も鞄の中を確認した。


 楽譜。


 チューナー。


 予備のリード。


 ストラップ。


 記録帳。


 忘れ物はない。


 それでも家を出る直前に、もう一度だけ確認した。


 学校へ着くと、吹奏楽部員たちはすでに楽器の積み込みを始めていた。


「打楽器、数もう一回確認して」


「譜面台、こっちの箱です」


「小物、置いていかないでね」


 いつもより声は少ないが、全員の動きは慌ただしい。


 由実も赤いテナーのケースを抱え、バスの荷物入れへ運んだ。


 補修跡のある古いケースを手放す瞬間、少し不安になる。


「そんな顔しなくても、会場まで逃げないよ」


 隣で真琴が言った。


「分かってるけど」


「私も楽器を預けるとき、毎回ちょっと心配になる」


「真琴も?」


「うん。ケースごと違う学校に運ばれたらどうしようとか」


「さすがに、それはないと思う」


「分かってるよ」


 真琴が少し笑う。


 それだけで、由実の肩からわずかに力が抜けた。


 バスへ乗り込むと、普段なら聞こえる話し声がほとんどなかった。


 楽譜を開く部員。


 イヤホンを片耳だけに入れて、録音を聞く部員。


 膝の上で小さく指を動かしている部員。


 由実も、楽器を持たないまま運指を繰り返した。


 課題曲『青空へ続く道』の冒頭。


 全員と同じ息で始める。


 八分音符を短くしすぎない。


 低音へ引っ張られ、歩幅を重くしすぎない。


 頭の中で曲を進めていると、いつの間にか『元禄』の休符へ移っていた。


 一、二、三、四。


 数え直す。


 途中で別の旋律が頭へ入り、数が分からなくなる。


 由実は一度目を閉じた。


(今、全部確かめなくてもいい)


 昨日まで何度も吹いてきた。


 今日は、練習してきたことを舞台で出す日だ。


 そう思おうとしても、指は止まらなかった。


 ◇


 会場へ着いた瞬間、由実は足を止めそうになった。


 入口の前には、制服の異なる生徒たちが何組も集まっていた。


 クラリネットの細長いケース。


 金管楽器の大きなケース。


 打楽器を載せた台車。


 学校名を書いた札。


 あちこちで顧問や係員が指示を出し、生徒たちは楽器を抱えて静かに移動している。


 商業施設で演奏したときには、子どもの笑い声や買い物客の話し声が聞こえていた。


 今日は違う。


 足音。


 ケースの留め具を外す音。


 遠くで短く鳴る楽器。


 それだけが、広いロビーへ妙に大きく響いていた。


「聖フェリス学園の皆さんは、こちらで待機してください」


 係員に案内され、部員たちは壁際へまとまった。


 由実は赤いテナーのケースを足元へ置く。


 その前を、他校のサックス奏者たちが通り過ぎた。


 一人が持っている黒いケースは、傷一つなく、表面に光沢があった。


 少し先でケースが開かれる。


 中から現れた金色のテナーは、照明を受けて明るく輝いた。


「あれ、セルマーのシュプレームじゃないか」


 近くにいた聖フェリス学園の部員が、小声で言った。


「百四十万円を超えるやつだろ」


「すご……」


 由実には、どこを見れば普通の楽器と違うのか分からなかった。


 けれど、香苗はすぐに顔を上げている。


 視線が完全に楽器へ吸い寄せられていた。


「あれ、ベルの形が――」


 香苗が言いかける。


 さらに別の学校の奏者が通った。


 今度のサックスは銀色だった。


「あっちはヤナギサワのシルバーソニックじゃない?」


「管体が純銀のモデルだ」


 周囲から小さな声が上がる。


 銀色の楽器を抱えた奏者は、慣れた手つきでネックを取り付け、キーを確かめていた。


 迷いがない。


 ケースも楽器も新しく見える。


 奏者自身まで、堂々としているように感じられた。


 由実は足元へ目を落とした。


 赤いテナーのケース。


 角には補修の跡があり、持ち手にも擦れがある。


 ケースを開けば、傷と塗装の剥がれた赤い本体が現れる。


 商業施設で少女に言われた言葉が、一瞬だけ浮かんだ。


『赤い楽器、格好よかった』


 けれど今は、その声より目の前の楽器の輝きの方が強かった。


 あの少女は、ほかの学校の楽器を見ていなかった。


 こんなに立派な楽器が並ぶ場所でも、同じことを言っただろうか。


 由実は、ケースの傷が人から見えないよう、壁側へ向きを変えた。


「何してるんだ?」


 香苗の声がした。


「別に……」


 由実はケースから手を離した。


 香苗は由実の顔と、壁へ向けられたケースを交互に見る。


 それから、先ほどの金色のテナーへもう一度視線を向けた。


「いい楽器だな」


 素直な声だった。


「あの銀色のも。実際に吹いたら、どんな感じなんだろうな」


「先輩、やっぱり気になるんですね」


「そりゃ気になるよ」


 香苗は否定しなかった。


 高価な楽器など関係ないと、きれいな言葉で片づけることもしない。


「シュプレームも、シルバーソニックも、いい楽器だと思う」


 そう言ってから、香苗は赤いケースを指先で軽く叩いた。


「でも、今日あれを吹くのは、あの人たちだろ」


 由実は顔を上げた。


「由実が吹くのは、そいつだ」


 香苗はそれ以上、何も言わなかった。


 慰めるように笑うこともない。


 赤いテナーの方が優れていると主張することもなかった。


 由実はゆっくりケースの向きを戻した。


 留め具を外す。


 蓋を開く。


 赤いテナーは、いつもと同じ姿で入っていた。


 傷もある。


 塗装も剥がれている。


 新品のような輝きはない。


 ケースの内側には、古い整備記録が挟まっていた。


 由実はそれを手に取る。


 何人もの名前。


 修理をした日。


 交換した部品。


 調整の内容。


 使っていたリード。


 由実がこの楽器を受け取るより前から、何度も書き加えられてきた記録だった。


 この楽器で初めて音を出した日を思い出す。


 息の音ばかりがして、まともに鳴らなかった。


 香苗にストラップの長さを直され、姿勢を直された。


 何度も失敗したあと、一音だけ、息の混じらない音が出た。


『今の音、忘れるなよ』


 真琴と初めて音を合わせた。


 莉央の低音に支えられた。


 商業施設では入りを間違えた。


 それでも、香苗たちの呼吸を頼りに曲へ戻った。


 今日までに出してきた音は、全部この楽器から出たものだった。


 高価な楽器との差がなくなるわけではない。


 傷が消えるわけでもない。


 けれど、この赤いテナーでなければ、由実が積み重ねてきた時間にはならなかった。


 由実は整備記録を元の場所へ戻した。


 黒いマウスピースを取り出す。


 楽器本体は、部から与えられたものだった。


 けれど、このマウスピースは、香苗の知識を借りながら、自分で吹いて決めた。


 ネックへ取り付ける。


 赤い本体の上で、黒いマウスピースが小さく目立った。


「準備できたか?」


 香苗が尋ねた。


「はい」


 さっきより、声が出た。


 ◇


 音出し室へ入ると、壁の向こうから別の学校の音が聞こえた。


 金管の強い和音。


 速い木管の動き。


 低く響く打楽器。


 壁で隔てられているはずなのに、自分たちの音より大きく、上手く聞こえる。


 部員たちは決められた位置へ座り、短い時間で準備を進めた。


 由実はリードを湿らせ、位置を確かめる。


 一度、低音を吹いた。


 音がかすれた。


 もう一度。


 今度はリードミスになった。


 胸の奥が急に狭くなる。


「息、浅いよ」


 真琴が隣から言った。


「分かってるんだけど」


「私も、さっきからリードの位置ばっかり直してる」


 真琴は自分のマウスピースを指で示した。


 すでに何度も触ったらしく、リガチャーの周りが少し濡れている。


「真琴も緊張してるの?」


「してるよ。当たり前でしょ」


 真琴は短く笑ったが、声はいつもより硬かった。


 由実は、真琴なら平気なのだと思っていた。


 中学でも吹奏楽部にいた。


 自分よりずっと早く指摘を直せる。


 楽器を構える姿にも迷いがない。


 それでも、今日の舞台は真琴にとっても緊張する場所なのだ。


「最初だけ、一緒に吹く?」


 真琴が尋ねた。


 由実はうなずいた。


 二人で短いフレーズを吹く。


 最初は、由実の音が少し遅れた。


 真琴も、音の入りがわずかに硬い。


 二人は顔を見合わせる。


「もう一回」


 今度は、互いの肩の動きを見る。


 同じ瞬間に息を吸う。


 音を出す。


 先ほどより、近い。


 完全ではない。


 けれど、一人で吹いたときより呼吸が戻っていた。


「今の方がいいね」


「うん」


 短いやり取りのあと、二人はそれぞれの楽譜へ目を戻した。


 部屋の隅では、千秋が『元禄』の冒頭を確認している。


 強く吹き込むことはしない。


 息を通す。


 最初の音の立ち上がりだけを確かめる。


 短い音だった。


 それでも、迷いがなかった。


 由実は千秋の姿を見つめた。


 千秋と同じ音を出す必要はない。


 今すぐ同じ場所へ行く必要もない。


 千秋がソロで曲を始める。


 自分は、そのあとへ続く音を支える。


 役割は違う。


 けれど、同じ『元禄』を作る。


 千秋が音楽の扉を開き、由実たちがその先を受け取る。


 そのためには、聞き入って遅れてはいけない。


 ついていくのではなく、一緒に始める。


「時間です。移動してください」


 係員の声が聞こえた。


 部員たちが一斉に楽器を持ち上げる。


 音出し室の空気が、さらに張り詰めた。


 ◇


 舞台袖は暗かった。


 足元には、舞台から漏れた光が細く伸びている。


 客席は見えない。


 前の学校が演奏している音だけが、厚い扉の向こうから響いてきた。


 由実は赤いテナーを抱え、並んで待つ。


 すぐ前には真琴。


 少し先に香苗と千秋。


 後ろには莉央がいる。


 会話をする部員はいなかった。


 楽器のキーへ触れる小さな音。


 誰かが息を吐く音。


 制服の布が擦れる音。


 それだけが近くに聞こえる。


 前の学校の演奏が、最後の和音へ向かう。


 強い音がホールへ広がり、静かになった。


 その直後、拍手が大きな塊となって舞台袖まで押し寄せた。


 由実の指先が冷たくなる。


 身体は暑いのに、手だけが冷えている。


「聖フェリス学園の皆さん、準備をお願いします」


 係員が小さな声で告げた。


 部員たちが動き始める。


 課題曲『青空へ続く道』。


 そのあとに自由曲『元禄』。


 千秋のソロ。


 由実は頭の中で順番を確認した。


 間違えない。


 休符を数える。


 けれど、自分だけで数えない。


 指揮を見る。


 周囲の呼吸を聞く。


 香苗が振り返った。


 何かを言うのかと思ったが、視線を合わせただけだった。


 由実も小さくうなずく。


 それで十分だった。


 係員の合図が出る。


 千秋たちが先に舞台へ進む。


 由実も暗い袖から一歩を踏み出した。


 照明の下へ出た瞬間、顔と手へ熱が当たった。


 思っていたより、ずっと暑い。


 襟元へすぐ汗がにじむ。


 手のひらも湿り、楽器が少し滑りそうになる。


 客席は暗かった。


 商業施設の演奏では、目の前に子どもや家族連れの姿が見えた。


 今日は、人の顔がほとんど見えない。


 暗闇の中に、審査員の机だけがわずかに浮かんでいる。


 由実は自分の席へ座った。


 赤いテナーを構える。


 傷も、塗装の剥がれも、照明の下ではよく見えた。


 けれど、隠したいとは思わなかった。


 香苗。


 真琴。


 莉央。


 千秋。


 周囲の部員の気配を一つずつ確かめる。


 指揮者が舞台へ入り、礼をする。


 拍手が止んだ。


 静けさが降りる。


 指揮者が腕を上げた。


 由実は息を吸う。


 自分の音を聞かせるためではない。


 全員と、最初の一歩をそろえるために。

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